走れ、麦公

U^ω^U~”

見えざる脅威

2017-07-11 20:25:05 | 俳句
 一軒の家があった。ふつうの家だが屋根周りから庭まで、木や草が自由に繁茂して、さながら未開原野の様子である。これはこの家の主が、自然を愛するネイチャリズムの実践者であるゆえである。
 その植村幹彦は、いま、テレビの前で、その髭だらけの顔を感動の涙で濡らしていた。画面には九州の豪雨災害の被災者の親子が、互いの無事を喜んで抱き合っていた。
 彼は笹渡中学の理科教師である。かつ自然主義者であって、高邁な思想の信奉者であることに恥じず、髪はぼうぼう、めったに風呂にも入らないから濃い髭の間から飛び出た頬骨は垢光りしていた。じつに天然の生活者であるわけだ。もし、よれよれの白衣を着ていなかったら、浮浪者と見分けがつかない。
「この世界が終わってしまうかもしれない」
 彼は憤って立ち上がった。テレビには『これまでに経験したことがないような、重大な危険』をもたらす、異常なほど強い雨が、平和な町に打ち付けていた。
 部屋の隅で猫が瞠目した。生来のなまけ癖をスローライフに糊塗して、無精に無精を重ねているだらしのない家主が、いま預言者の威風をまとって立っていたのである。

 二年三組のクラスは、校舎東棟の端の二階で、校内における教養と文化の中心である図書室や音楽室から一番遠く離れていた。そのせいかどうかはわからないが、いつも騒がしかった。窓の下は色とりどりのポピーが咲いている花壇と藻の浮いた雨水を溜めたプールだ。
 男子が数人、悲鳴を上げて教室の壁に激突した。理子に突き飛ばされたのである。バスの網棚から拾ってきた週刊文春を囲んで愉快なワイドショー談義をしていたところへ、理子が突進してきた。
 理子は不審だった。さっきから身体がムズムズするのだ。そしていつもなら軽い運動を行えば、すっきりするのだが、このたびはその効果がない。相変わらず、身体のどこかがむず痒い。
 床に倒れて悶絶している男子を踏みつけて、理子は保健委員の席に向かった。
「変なものを口に入れたり、お寺の縁の下を潜ったりしなかった?」
 保健委員の星野茉奈が理子を問診した。
「ううむ、来るとき知り合いのおっちゃんが釣りをしてたから、その横でちょっとだけ草むらに座ったけど」
 そのとき、保健委員星野は理子のひじのところに、ぽつんとついた赤いふくらみを発見した。
「それは発疹です、何かの寄生虫によってもたらされたようですね」
 星野は分厚い医学事典を片手にメガネを光らせた。
「ニキビじゃないのか?」
 教室は騒然とした。メガネの保健委員は発疹の頂上についた点状の吸血痕を指さしている。血を吸う何らかの寄生虫が、このクラスに侵入しているのだ。そしてそいつは目に見えないどこかで、新しい獲物を狙っている。

 二限目の授業の理科がはじまって、植村先生が教壇に立った。よれよれの白衣の姿がいつもより大きく見えた。実際、教卓をつかんで身を乗り出していたから、『近くの物は大きく見える』という原理からであろう。
「みなさん、トランプ大統領がパリ協定から離脱しました。地球はいずれ異常気象により壊滅するでしょう」
 教室を見回すと、みな落ち着きなくそわそわしている。
 その様子に植村は驚いた。日頃、城跡公園で放し飼いにされている鹿ほどの知性すらも感じさせない彼らにおいても、いま自分が提起した問題を、駅前のスタバのおねーちゃんのタトゥより、神社のハトの寿命より、地球規模の一大事と感じるだけの知性を有していたのだ。感心である。この子らの未来に幸いあれ!
「そこで先生は、ホワイトハウスにデモ行進をかけようと決意しました。一緒にアメリカに行ってくれる有志を募ります」
 しかし、クラスの生徒たちは植村の発言をほぼ聞いてはいなかった。耳には入っていても、胸のなかはそれどころではなかった。血を吸う寄生虫が教室のどこかに潜んで狙っているのだ。彼らの心理状態はパニックと言ってもよかった。
「諸君のなかにもし……」
 反応のうすさに、植村は消沈しかけた。
 そのとき、一本の手が高々と挙がった。
「痒!」
「理子、おまえ」植村は驚愕と喜びの表情を一緒に、その髭だらけの顔に表した。
「Quite so, You!(まったくそうだ、同志!)」と聞こえたのだ。
 しかし、理子はのばした手をそのままに悶絶した格好で、ゆっくりと仰向けに倒れて行った。血を吸われたための貧血である。
 生徒たちは息をのんで見守っていた。床には、理子の袖口からあらわれた一匹の蚤が、その凶暴性を誇示するようにピョンピョン跳ねていた。
「あ、蚤だったのか」
 目に見えざる脅威の正体に、クラスは安堵した。
 ただ、そんな事情を知らない植村ばかりは、ぼうぼうたる髭の下で「同志……」震える唇を動かしていた。
 蚤にかまれた痒さから反射で理子が挙げた手を、熱い賛同の気持ちだと疑わない植村には、床に横たわる理子がさながら、経済のためには自然を破壊して省みない現代社会の退廃から地球を救うべく時代が遣わした聖女ジャンヌダルクのように見えていた。

 やがて授業の終わりのチャイムが鳴ると、植村は教室を出て行った。なぜかその後を追って蚤も教室を出て行った。小生物にも住みやすい環境を選ぶということがあるらしい。
 教室の後ろの戸がカラカラと開いて、生徒会の佐藤薫が入ってきた。
「九州の豪雨災害のニュース聞いてるでしょ、私たち校名でお見舞いの手紙出そうと思うんだけど、寄せ書きに参加してくれる人いる?」
 クラスの全員が手を挙げた。理子も保健委員の星野がくれたトマトジュースにストローを差しながら「はい」と答えていた。
 クラスは一つだった。みな同じ気持ちだった。
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