ただの映画好き日記

勝手気ままな映画の感想日記です。
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一日一生 愛蔵版 / 酒井雄哉

2017-09-06 | 本 その他


  一日一生 愛蔵版

  酒井 雄哉 著     朝日新聞出版 / 2017.4



  「一日を一生のように大切に生きよ。明日はまた新しい人生」――。
  千日回峰行を二度満行した酒井雄哉大阿闍梨の20万部突破のベストセラー『一日一生』が待望の単行本となって登場。
  「あせらず、あわてず、あきらめず。無理をしない」「身の丈に合ったことを、くるくる繰り返す」……
  あたたかく深い言葉の数々に、きっと励まされ勇気づけられる。
  亡くなる直前の言葉も収録した永久保存版。
  迷い、悩みながら今を生きる、すべての人に。





友人がプレゼントしてくれた本です。
『千日回峰行』を二度も満行された方の本ということで有り難く読ませていただきました!

人生うん十年生きていると、さすがに、全てが新発見ではありませんでした。
どちらかというと、「そうだよねー、やっぱりそうでしょー?」と私の考えを後押ししていただいたような気がしました(恐れ多くもすみません…)。
ですが、ぐうたら一般人の私と、大阿闍梨さんを一緒にしてはいけません、当然です。
何が違うのか…、考えました!
私が完結した考えの、更にその先を発見されているんだなーと思うのです。
つまり、私の考えは完結などしておらず、まだまだ先にもあるんだよ、ちゃんと広く深く考えてみて、ということなんじゃないか?と思いました。

“気付くこと”が大切なんだなーと強く思いました。
気付くには、ゼロからよりも、聞きかじる程度でも情報があれば、より気付きやすいのではないか…。
勉強ももちろんだけど、本を読んだり、ニュースを見たり、映画やドラマ、音楽でも、よりたくさんの情報を蓄えていると、何年か経って気付くことに繋がりやすくなるんじゃないかなーと思いました。

大阿闍梨さんももちろん、長い人生経験の中から気付きへと繋がったものもあるでしょうし、やはり、多くの修行から得たものから気付きへと繋がったことも多いだろうと思います。
気付かなかったらそれまでだし、気付くと考え方も人生も広がるんだなーと思いました。
ぼーっとせずに、目や耳、心に触れたものから、ふと気付くことって大切なんだなーと思いました。



いくつか印象に残ったことを…。

『人は毎日、新しい気持ちで出会える』
「一日が一生」という気構えで生きていくと、あんまりつまらないことにこだわらなくなるよ。今日の自分は今日の自分、明日の自分は明日の自分、と考えれば、今日よくないことがあっても引きずらなくてすむ。
「今日のできごとは今日でおしまい」そう思って、明日は新しい感覚で進んでいけばいい。落ち込んだって、なるようにしかならないんだから、気持ちよくしていた方がいいじゃない。

『その答えを、一生考え続けなさい』
初めての修行の時に師からもらった「東西南北」の宿題から十年あまり。師に答えを出しても正しいとも違うとも言わない。さらに数十年が経ち、宿題の答えを言ったら、「もういいよ、そんなことはどうでもいい。答えを出したらお前それおしまいにしちゃうだろう。永久に考えろ。」って。自分なりに腑に落ちると、人はついそこで考えるのをやめにしちゃう。でも、答えがわからないといつまでも考えるだろう。肝心なのは答えを得ることじゃなく、考え続けることなんだな。

『仏さんにうそはつけない』
堂入り(お堂の中にこもって、法華経と十万遍の不動真言を唱える修行)の時のお話。万が一、ごまかして十万遍やったような顔して出堂したとする、その場はごまかせても、自分自身にはうそはつけないし、お不動さんからしたら、とんでもない奴だと言って、大罰を与えちゃうよね。
他の人にはわからなくても自分は知っている。おそらく死ぬまで大きな荷物を背負って歩かなきゃなんないだろうね。仏さんに大きなうそをついているのに、人にはうそをついちゃいけませんよと説かなくちゃいけない。それはもう、詐欺師以上の悪人やね。
だから、やっぱりどんなことでもごまかさないで、一生懸命やって、正直にして、王道を歩いていけば、誰からも後ろ指をさされることもないし、心は晴れやかにいられるからね。それが人間生きていく基本なんだね。

『歩くことが、きっと何かを教えてくれる』
千日回峰行のお話。歩き方は人それぞれ、行者によってみんな違うものなんだ。僕なんか小柄でコンパスが小さいからちょこちょこ行かないと。結局、人は自分の歩き方でしか歩けないんだよね。自分の歩き方で歩いていかなきゃしょうがないしな。(実際の歩幅と人生の歩き方を示しておられるように思った)

『知りたいと思ったら、実践すること』
仏教の難しい教義などを書物や人から教わったりして知識を学ぶことは大事だが、ある程度学んだところで実際に動くことで、知恵が生まれてくるんだよ。
今の若い人は、よく勉強するから頭はいいんだけど、実践する力が弱いのかな。勉強して知識を広げ、物事をわきまえるっていうことも、もちろん大切だけれど、それをそのままにしておかないで、自分のできることを実践していくってことなんだな。知っていることを生かすことができないってことは、結局、生かすところまで学んでなかったってことになるんだよな。やってみて初めて、難しい、これは自分の手には負えないということも分かる。じゃあどうしようかと考える。それはやってみないと分からない。やらないで分かったような気になっていることが案外多いんじゃないかな。

『仏は一体どこにいるのか』
三年籠山の修行のお話。(情景を想像すると感動的なのですが、そこは割愛します)
自分の心の中に如来様がいて、日光と月光が自然の中に立っている。その真ん中にいるのが仏なんだ。なるほどそうか、仏さんなんて探したっていないんだな、自分の心の中にあるんだな。仏さんはいつも心の中にいる。自分の心の中に仏さんを見て、歩いていくことなんだな。

『身の回りに宝がたくさんある』
「常行三昧(九十日間、ひたすらお経を唱えながらぐるぐる回る修行)」のお話。(こちらも情景があってこそのお話なのですが、短めにまとめてしまいました)
念仏を唱えていたら、シャーシャーってお数珠をする音が聞こえてきたそうです。実はバッタが羽を震わせていたのだとか。
もしかしたらそのバッタ、昔は行者だったんだけど、何かのはずみで行を中断してしまい、それで人間に生まれ変わることができずバッタになったのではないか。すると、どこからか聞いたことのある念仏が聞こえてきて、居ても立ってもいられず、お数珠をするように羽をこすりあわせた。もしも、再び人間に生まれ変われたら、もう一度修行しよう、今度こそ満行しようと思いながら成仏したんじゃないか…、と思いながら修行したこともあったそうです。

『生と死は隣り合わせ、紙一重』
「利他行(千日回峰行六年目八百日目からの修行/比叡山を巡拝し赤山禅院へと歩く)」のお話。(すみません、こちらも私がまとめさせていただきます)
イノシシと正面衝突し、三メートルくらいの崖下に落下し、足の親指を怪我したそうです。痛みが酷くなり、腫れも酷く足袋に穴を開けて履いていたのですが、とうとう一歩も歩けなくなります。回峰行は途中でやめることはできないので、もし歩けなければ回峰行の定めに従って自害しなければなりません。一か八か、持ち歩いている刀で晴れている指を切り、膿を出します。いつのまにか意識が遠のきます。気づいたら、両手で持っていた刃先が喉に突き刺さりそうになった格好で倒れていたそうです。まさに、生と死、紙一重の経験でした。
(ここから原文まま)生と死はいつも隣り合わせなんだな。一寸先は、何がおこるかわからないのが人生で、命の時間は自分で決められるものではない。もし命拾いしたのなら、人生のおまけをもらったようなものかもしれない。そのもらった命は、本当に大事にしないといけないんだよ。仏さまに感謝して。

『命が尽きれば死んで、他の命を支えるんだよ』
千日回峰行は、「不退行」といわれていて、いったん行に入ったら、途中で辞めることは許されない。首吊り用の死出紐を肩に掛け、自害用の短刀を下げ、三途の川を渡る時の六文銭などを持参して出発する。行を続けられなくなったら自害せよということだ。
最初はそれなりの覚悟で行に入ったんだけれど、山を歩いているうち、「死」というものの受け止め方がまったく変わってきたんだ。
自然の中では、たくさんの生き物たちが繋がりあって生きていて、そして時期が来れば枯れたり、死んだりしていく。どの生き物も、命が尽きれば他の生き物たちを支えるんだよ。
行の最中、力尽きてここで死んだら、ぼくの体は小山の土になるんだなあと思った。それがうれしいような気がした。いろいろな生き物たちの栄養になれるなら、それは幸せなことだなあと。

『心の有り様はいろいろなもの作用される』
「常行三昧(九十日間、ひたすらお経を唱えながらぐるぐる回る修行)」終盤のお話。行が終わったらとにかくしたいと思うことがある。「大の字になって畳の上ででーんと寝てみたいなあ」ということなんだ。
行が終わって、真っ先に畳のところに行ってでーんとひっくり返って寝転んだ。毎日立って前を向いて歩いているでしょう。そうすると、目の前にあるものはすべて真正面にあるものだと思い込んでしまうんだよ。寝ていて見える天井だって、天井には見えず、壁に見えてしまう。
習慣っていうのはそれくらい人の感覚を狂わせてしまうんだな。たった九十日であってもだ。人間のものの見方や心のありようっていうのは、いろんなものでどうにでも左右されちゃうということを学んだ。
だから自分から見て、どんなに正しいと思えることでも、もしかしたらいろいろなことにとらわれてそう見えているのかもしれない。自分がどんな立場でそれを見ているのかということをいつもいつも確かめないといけないんだな。

『人は助け合って、生かせれているんだよ』
ぼくは、社会福祉施設の人たちと交流があって、生まれながら障害のある子供たちと付き合っている。そういう子たちは、福の神なんだとつくづく思うよ。その子がいるから、周りがやさしい気持ちになったり、手助けをするでしょう。それはその子を通して仏さまが周りの人にさせているんだよ。みんなに良いもの、福を与えるのが、自分の授かった使命なんだと、誇りを持って生きていけばいいんだよ。

『まだ、たったの三万日しか生きていないんだなあ』
八十年といっても、地球の命に比べたらほんのはかないもの。八十何年生きたからどうの、これまで何をしてきましただのではなく、大事なのは「いま」。そして、「これから」なんだ。いつだって、「いま」何をしているのか、「これから」何をするかが大切なんだよ。
朝起きて、空気を吸って、今日も目が覚めたなあってときにね、さあ何するかなって思って、起きあがらなくちゃ。それが、今を生きているっていうこととちがうかな。
たとえば、若くして亡くなった人の悲しい話を聞く。だけど、その人が一生懸命生きて、世の中の人たちになるほどなあ、っていうような何かを残して亡くなったんだったら、それは素晴らしい。
大きな存在から見れば、十年も八十年もそれほど違いはないのかもしれないよ。だからこそ、何のために生きているのか、何をやって生きているのか、今なんのためにこの場所にいるのか、今何のために息をしているのか、ということを一生懸命考えなくては。とても無駄なことはできない。
だって、だれにとっても、人生はほんのわずかな時間なんだよ。一生懸命、今を大切にして、今をがんばんなかったらいけないのとちがうかな。
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