human

真の自由とは?幸福とは?考えるままにつづる仮説のみの記録。

結果的に2010年を振り返って

2011-01-01 02:23:52 | 汝自身を知れ
あけましておめでとうございます。

さっき、彼女からのあけおめメールの返信に、「今年も自分が何をなすべきか追い求めていこう」というような内容を打っていて、はっとした。

そういった自分が、最近そんなこと追い求めていやしないことに気付いたからだ。

もうすぐ、長年の勉強の成果が報われる。そうすれば、それなりの収入を得られ、生活も安定してくるはず、とか、そうじゃないかもとか考えてる。

ギターの趣味も再開して、仕事の合間を見つけては練習して、少しずつうまくなれば楽しいとか考えてる。

昔の話はしたくないけど、大学生のころは、自分がどう世界を変えるかとか、自分が世界に誇れることは○○だとか、具体的なビジョンはないくせにすごく考えていた。

ギターだって、超へたくそなくせに、もし、メジャーデビューするようなことになっちゃったらどうしようとか考えてた。

何も、現実から目をそらした思考がいいと言ってるわけではなく、自分を信じていた。何か出来るはずだと真剣だったんだ。


今の自分はあの頃の僕には悲しく映るかも。全然かっこよくない。


あの頃の名残がさっきメールにひょっこり現れて、そのことに気づいて、はっとしたんだ。



最近の憂欝な気持ちも、ささやか(にすぎない)な喜びも、僕の心構えが作ったことだ。環境のせいじゃない。

僕の場合、若さの源は向上心や希望で、それだけは絶対、一生死守しなきゃ、幸せになんかなれないかも。





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未熟者。

2010-12-27 12:15:12 | 汝自身を知れ
人のつながりについて一つ思った。

僕は昔から、人に嫌われることに人一倍敏感だった。

すべての人に害のないように生きてきた。

でも、人に嫌われることを恐れるなら、その人の存在を認めることが一番大切なことだと思う。

目立たないようにするとか、その人に害のない存在でいることではなく、相手が、「この人は自分の存在を認めている」と感じるようにさせることが敵対の心を薄らげるのではないか。

たとえば日々の挨拶。たとえば相手の目を見て話すということ。たとえば相手の目を見て相手の話を聞くこと。笑顔。プレゼント。

昔から大人の人たちに言われ続けてきたことの大切さを再認識する。


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12・27

2010-12-27 12:08:42 | 汝自身を知れ
理念を具体化できない苦しさを持ち続けている。

自分がいま下積みの段階であるからっていう理由から、そこまであせる必要はないと考えつつも、そのときがきたとき、自分はどう具体的に動くだろうか。怖い。


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はじまりの感情

2010-10-20 01:53:38 | 汝自身を知れ
「物心ついたとき」ってのはいつだろうなんて考えてみると、4、5歳くらいか。
母親を泣きながら追いかけては連れ戻され、追いかけては連れ戻されした記憶がある。
たしか、妹が生まれるというんで母親が入院することになったのだ。

父親は、千葉で仕事。僕は鹿児島の母方の祖父母の家に預けられた。

おばあちゃんが、優しかった。毎晩ねむるとき、僕は手を握ってくれと頼んだ。ときどき、おじいちゃんにも頼んだ。

毎日おはぎやらなんやらを持って、おばあちゃんと二人、バスに乗って病院に遊びに行った。

とても淋しかった。それが、僕の最初の感情。



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資本主義で人は救えないのか。

2010-07-14 02:14:21 | 想像の共同体
資本主義で人は救えないのか。

日本に限って言えば、人格的生存を奪われるような場面は今日ではほとんどない。

これも歴史的集積による功績ということになるのだろう。

しかし、今人格的な居場所に人は苦難しているように思う。

一つにはわかりやすい目標が見えづらくなっていることに原因はあるだろう。

これだけ社会が複雑化している中で、

自分が突出して興味を持っている分野や、長所、素質というものを確信しづらくなっている。

もちろんそんな怖さは乗り越えて行ける人もいるが。

だから考え方が分散し、生き方が分散してゆく。これは資本主義という尺度からすると好ましくないかもしれない。

資本主義の下ではすべてのものは貨幣価値に換算できるという前提の下、貨幣的により高価なものを人が求めることを期待しているのであり、この観点からはあまり効率的でない動きをする人が増えるということだからだ。

しかし「人はそれぞれありのままでいいんだよ」ってことが真なら、この分散傾向は肯定的に説明できなければならないように思う。

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純粋

2010-07-12 01:55:45 | 汝自身を知れ
いつだって純粋に生きられる。

汚いものをいっぱい見たって

生生しい感情に突き動かされたって

疎外されたって

すべてに感謝できる

真実でなくてもいい。取るに足らなくたっていい。

評価が低くてもいい、評価がなくたっていい

幸せだと感じられる。

幸せな気持ちは何がくれたものか。人か、自然か、出来事か

それらが欠けてしまうととたんに幸せは失われてしまうものなのか

そうではないのか

そういう現象だ。

と客観的に理解していたものが現実に自分の主観として目の前に提示されたとき

どう向き合えばいいのか。

客観的にみればこういう現象だったなって

捉えなおせばいいのか

よくわからないままによくわからないままに

浸っていればいいのか

この今の感覚はあとでおもいだしてみたいと思うものなのか

忘れていくのか

このすごさは、忘れていくのか

意識して意識して忘れまいとすべきものなのか

僕にとってプラスかマイナスか

いつだって純粋でいられる。

なにもないとこで、

うれし泣きしてしまうみたいに

いつだって純粋でいられる。



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合理性・反合理性

2010-03-10 00:23:53 | 汝自身を知れ
たとえばその人の好きなところがその人からなくなってしまっても

その人が好きだと思えること

生理的現象だったとしても、それは驚かざるをえないし

驚くべきであってほしい現象。




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特技

2010-03-05 01:18:03 | 汝自身を知れ
僕の特技は正当化だ。

人生って自分をだまくらかす作業って側面をもってるんじゃないかなと思う。

このだまくらかすって意味は本当はそうではないのにそうだと思い込もうとするってことじゃなくて、あくまでも本当にそうかもしれないことを挙げてきっとそうじゃないかと思う作業だから、悪い意味じゃない。

健やかに過ごすためには自分の身の回りの出来事を理解しながら日々をやり過ごしていく必要があって

その中には一見自分の人格が否定されているような性質のものも含まれている。

その出来事をいかに自分という存在と共存させるかってことを考えて処理していく作業が

どうしても必要になる。

たとえば木に生る柿にどうしても手が届かないとき、「あの柿はまだ渋くて食べれたものではないはずだから、取れなくてもいいんだ」って考える作業が正当化だ。

この正当化はその正当化される理由が説得的なものであればあるほど心の安定につながる。

つまり、その正当化した考え方が客観的真実らしいことが大切なんだ。

僕が正当化が得意っていったのは、わりと説得的な正当化を考え付くって意味だ。

最近(ここ数年)僕は究極の正当化を手に入れた。

それは、人間は生きるということが正解であって、それ以外は何が正解なのか人間には分からない以上、生きてさえいればその間どんな過ちを犯したって、OKなんだって考え方だ。

これでたいていのことは自分を傷つけることなく乗り切れる。

ここで大事なのはそれが客観的真実だとかなり確信を抱けていることにある。



今日このことを書いたのは、人はありのままでいいってことを僕が思うに至った出発点を示すため。

あくまで主観的になりやすい正当化の作業の中で思うに至ったのであり、何も崇高なルーツをたどって発想したわけではないってことを自分に言い聞かせるため。

今書きながら、

そこには、あくまでこの考え方が正しいとは限らないよって思いと、

それでもそれが真理なんじゃないかって思いの

僕自身の葛藤が現れてんなーと思う次第であります。

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僕のルール

2009-11-20 01:09:23 | 客観は主観の統合体である
割とまとまった説明が自分の頭で整理できたので忘れないうちに書いとく。

まず、人間は真理を知りえない。およそ完全に主観を排除することはできないため、純粋な客観視というものはありえないから。

一方、真理というものは存在すると仮定する。(これは僕の願いでもある。)

したがって、真理を知りえる存在、すなわち神の存在も仮定することにする。

僕らは真理を知りえないが、みんな真理の中に生きている。なぜなら僕らは真理に生きる神によって存在を許されているから。

では日ごろ人間は何を基準に行動を選択し、生きているかといえば、欲求のある方向に向かい行動している。

食欲は身体機能の成長保全のため、性欲は種の保存のため。

なぜ自分の身体活動を維持する必要があるのか、また種を保存する必要があるのか実はわからない。

しかし、これに対する欲求があるから僕らはこれに従い行動する。

つまり、欲求とは神が示した方向性、すなわち真理へ近づく道といえる。

そうだとすれば、欲求に従い行動することこそが正しい道、合理的な生き方といえる。

ここで人間の特性といえる理性について言及する必要があるが、これも欲求で説明することができる。

理性とは、より欲求をみたすための方法を考えることができるということである。すなわち、「一見この欲求に従った方が幸せなようにも思えるが、ここは我慢して○○した方がより××という欲求をみたすことができる」と考えることができるということである。たとえば、「あとひとつあるチョコを食べたいけど、これを彼に上げれば、彼の喜ばせるとことができて、チョコを食べるより幸せになれるから食べない」とかね。逆に言うと、自己に利益のない理性の使い方はありえない。

困難なのは、理性は人が考えるものであるため、それに従って行動しても欲求をみたすというゴールに必ずたどり着けるとは限らない点である。

ちょっと眠いから続きは気が向いたら書こうw


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弱さ

2009-06-27 00:06:22 | 汝自身を知れ
人に共感される必要はない。分かってもらう必要はない。

誰かに分かってもらえてると思う必要すらない。

ただ、君が君だと僕が僕だと信じている何者かであることだけが願い

人を驚かせる必要はない。

世の中に埋もれた発想を正常に持っていられることはそれだけですごい。


君が何者であっても、僕は君を信じたい。



  でも僕は、君に信じてもらいたい。

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