くじら図書館 いつかの読書日記

本の中 ふしぎな世界待っている

「佳代のキッチン」その②

2011-01-31 01:52:04 | 文芸・エンターテイメント
給食センターの話題ばかりですみませんが、佳代の料理の腕前はそこで培ったものばかりではないですよね。
「コシナガ」で魚を下ろして刺身にする場面がありますが、給食に刺身は出てきません。さらに真鯛のムニエルやらヒラマサのカルパッチョやらも、ないと思います。基本的に生ものは出ない。食中毒が怖いでしょ。
だからこれは、佳代が和馬に作ったと解釈するわけですが、二人分の刺身、わざわざ尾頭付きの魚を買って作るの? 不経済では?
それに、わたしなら別れぎわにちょっと意地悪した相手から食べ物を渡されたら怖くなって棄てますが、佳代本人はその可能性を全く考えず、好評だった鮨の天ぷらを幼なじみに配り歩く。
「鉄雄には不倫する勇気も度胸もないから大丈夫。元気な赤ちゃんを産んでくださいね」って言われてもなあ。
素朴な疑問ですが、そのどこにあるかわからない給食センターで一緒に働いていた皆さんは、佳代とはもう交流ないのですか。ちょっとだけ出会った人たちとはかなりフレンドリーな感じになってますが、中野でも押上でも誰も訪ねてこないよね。省略されているにしても、少なくとも押上では皆無。
和馬の勤める新聞社に、都合よくキーワードですが、ななる土地の出張が見つかるのも謎ですが。それに食べ物を扱うのだから、保健所から許可がおりないと営業できない気が。でも、着いて早々に店開きをしている……。
いいですよ、これはお伽話、いわばメルヘンです。
この鮨天はおいしそうですが、さらによさそうなのはラスタ。岩手産の小麦ゆきめぐみを使い、中華麺を作るお父さんと支える娘。佳代が作ったラタトゥイユを絡める料理です。なんとかめどがついて万々歳ですが、えーと、これはどうやって売るのでしたか?(麺にレトルトを添付するように感じるんですが、実際に食べられる店舗がないと「四大麺」としてのインパクトはないですよね)
それから、カレーがやたらとおいしそうです。ブロック肉を叩いてミンチに、他の野菜類も一口よりちょっと大きめに切る。
キャベツのみロールやふわたまもおいしそうです。
帯には「美味しいハートフル・ミステリー」とありますが、こ、これミステリー?
全ての小説には謎が含まれていると言った人がいたそうですが、うーん、ちょっと悩みます。

「佳代のキッチン」原宏一 その①

2011-01-30 06:23:34 | 文芸・エンターテイメント
三浦さんの本を探し求めてあちこちの本屋をまわったとき、この本がよく目につきました。原宏一「佳代のキッチン」(祥伝社)。
うーん、好みっぽいけど、いまひとつ冒険する気にならない感じ……。
と思っていたのですが、わりとおもしろい。
中三に突然、両親が家出をしてしまい(!)、小学生の弟・和馬の面倒をみることになった佳代。いくら放任されているとはいえ、その年になっても親の仕事がどういうものかわからないってのはどうか、と思わないでもないですが、それから何年も経ってから思いたってその消息を探すという物語です。
こういうのが「お伽話」的だとわたしは思います。リアリティよりもほのぼのとしたちょっといい話みたいなものを重視している感じ。
佳代は移動キッチンという仕事をしています。材料を持ってきてもらって、作ってほしい料理を作る。
東京を出発して、横須賀、松江、盛岡、ニセコと日本各地を軽ワゴン車で走るのです。その土地その土地で出会いがあり、料理と人を巡るエピソードがあるのです。
でも、わたしにとってはわりとぎりぎりの線かな。前半はかなりいいのですが、両親がどんな人物なのか明かされていくと、佳代や弟のことを手放しで応援できないというか。
周囲が「恩人」とかなんとか言い、子供たちを置いて出ていった理由が伝えられ、佳代はそれを呆れながらも納得し……。でも、わたしにはあんまり共感できませんでした。
この両親は、自分たちの思想を子供たちに伝えるのを怠っていると思うのです。
それから、がっくりしたのは「井戸の湯」。弟の中学入学を機に、家族で住んでいた町(押上)から引越して、それ以来一度も戻っていないことが語られます。
えーっ、ちょっと待って。中学三年のときに親がいなくなって進学を諦め、担任が給食センターの仕事を見つけてきてくれたんだよね? で、弟も就職したことだし親を探してみたい、そのためにお金を貯めると、センターの仕事と居酒屋のバイトをかけもちしたんだよね?
それなのに、引越し先は千葉県? その給食センター、どこにあるのか、非常に疑問なのですが。
普通、担任が紹介するならば、自分の母校のセンターのような気がしていましたが、中学時代は周囲から受け入れられなかったそうなので、ちょっと離れた場所だとしましょう。でも、都内のはずですよね。仮にそこが千葉県だとしたら、千葉のセンターと東京の中学教師に接点があるというのは強引です。それに、押上に住んでいる生徒に他県の仕事を紹介したのだったら……ひどい人だと思いますが。
東京の発達した交通網なら、千葉県から都心に通うのは難しいことではないでしょう。でも、わざわざ引越してそこまで通うのか。それとも、引越し先の給食センターに転職したのか。でも、違う県のセンターに伝手があるとも思えない。
どうなんでしょう。続きます。

「ゴーストハント①旧校舎怪談」小野不由美

2011-01-29 05:46:26 | ミステリ・サスペンス・ホラー
祖父江さんのコメントを読んだら、表紙カバーを暗いところに置いてみたくなりますよね。蓄光インク光っていました。なるほどー。
小野不由美「ゴーストハント①旧校舎怪談」(メディアファクトリー)。
しかし不思議です。この本をティーンズ文庫で一回、いなだ詩穂さんのコミックで二回読んでいるのに、やっぱり怖い。結末はある程度覚えているのですが、沸き上がる不安。なんというか、心霊現象が発生したことを次々に論理的に解明していくのに、それでも否定しきれないものが残るのが、ざわざわと恐怖感を高めるのでしょうね。
椅子が動く場面を読んだら、もうこれはポルターガイスト以外考えられないと思ったのですが、ナルがたどり着いた答えは……。
わたしはついうっかりこれを忘れていたので(をいをい)、とても充実した読書タイムを過ごせました。
シリーズ全体を読んでからの再読になるので、結構伏線が張ってあることが見えておもしろいのです。綾子の台詞とか、麻衣にナルと呼ばれて驚く場面とか、夢に現れる優しい「ナル」とか。
小野さんが書き足した部分もあるのでしょうね。かなりリライトされたようですが、もともとのテンションはそのままだと思います。
でも、この時代にこんな言葉使わないだろう~と、ちょっとツッコミたくなりました。まだ土曜日は休みじゃないし、携帯電話も登場しません。それなのに、黒田さんの着こなしを「今時デフォルト通りの制服を着て」です。あーあー、麻衣は当時の感覚として、そういうボキャブラリーをもっている子ではないと思うので、ものすごい違和感を覚えました。
いつものメンバーもまだ出会ったばかりで、協調しきっていないというか。
もうこの巻でほぼ揃っているのですね。いないのは安原さんくらいでしょ。ぼーさんとジョンやナルは最初からそう呼ばれていたけど、綾子は「巫女さん」と言われていました。麻衣の親密の度合いを感じます。
ジョンのえせ日本語も、最初はこんなにキョーレツだったのね。
こうやって、小野さんのシリーズものを読んでいると、やっぱり「十二国記」が読みたいなーと思います。
冒頭は「幽」で連載している怪談に通じるな、と感じました。山での出来事のエピソード、怖いです。

「和菓子のアン」坂木司

2011-01-28 05:34:52 | ミステリ・サスペンス・ホラー
結構好評との話題なので、借りてきました。坂木司「和菓子のアン」(光文社)。
わたしも息子もあんこが大好き。特に大福にはうるさいですよ。
ですから、大福のようにやわらかくて甘くって、どっしり構える杏子の姿に、とても好感をもちました。
アンというのは、杏子の名前を音読みしたものです。「アンコ」と呼びたかったみたいですが、力士の「あんこ型」を連想するので却下。
デパ地下の和菓子売り場でバイトしている女の子なのですが、ぽっちゃりしたタイプで男の子にモテたことなし。結構勘がいいので、職場の様々な出来事に対応しています。
頼りになる店長の椿さんは、実は株に夢中で中身は「おっさん」のような女性。美人女子大生の桜井さんは元ヤンキー。社員の立花さんは、職人志望の乙女チックなイケメン。
ちょっとキャラ的に盛り込みすぎかなという気がしないでもないですが、まんがとして読む分にはいいと思います。
あ、一応形式としてはまんがではないです。文章ですが、でも、これは少女まんがのお約束に基づいて書かれていると感じました。現在の、ではなく、十何年か前の。
例えば、立花くんの乙女心を刺激するために椿さんが杏子の頬を必要以上に触る場面。男性誌しか読んでない人にこれだけの描写でわかれというのは、難しいのではないでしょうか。このニュアンス、わたしだってよくわからない(笑)。
立花くんの態度を気持ちが悪いといって辞めていったバイトがいるとのことですが、彼はずっとこうなのですか。心は乙女だけど、話し方は別にそこまででなくてもいい気がします。というよりずっとこうなら、学生時代の友人関係がきつそう。
待ち人「来るがわかりにくし」というのは、彼のことですよね。杏子は立花くんに恋心を抱けるのか心配です。
全体的にほんわかとした印象を与えながら、時折ひやりとするような瞬間がある。「兜」に一つだけ紛れた「落とし文」。火事になりかけた日に持ち帰る「兄」、そして「大兄」。
この、さっと鳥肌がたつような寒気が、わたしは坂木司の本領だと思っています。
今回、おはぎに関わって同じネタを続けて収録してあるのは残念です。「萩と牡丹」「甘露家」です。師匠の店には行ってみたいんですけどね。
椿店長の木型の話が、じんわりと心にしみて、わたしは好きです。失ったものを大切にしながら、生きていく。そんな強さと切なさを感じました。胸にささった刺のよう。だから、「辻占の行方」が好きですね。
ちなみに、「和菓子のアン」はあんこではなく、やっぱり人名みたいです。見返しに「Anne」とある。
あ、「切れない糸」の新井クリーニングさんや、「ワーキング・ホリデー」のはちさん便など、ほかのシリーズとの地続きも感じられましたよ。

「藤野先生」魯迅

2011-01-27 05:25:53 | 外国文学
またまた魯迅の話題でごめんなさい。集団読書用のテキストを発見したので、読んでみました。「藤野先生」(全国学校図書館協議会)。訳は松枝茂夫です。
なんとなくぎこちない感じ。でも、読み続けていくうちにちょっと気になる表現を見つけました。いわゆる「幻灯事件」。ニュース映像に中国人スパイが写っていて、銃殺される。「とりかこんで見物している群衆も中国人であった。教室の中には、もうひとり、私がいた」
うん?
わたしが読んだばかりだった「魯迅のこころ」では、こうなっています。
「その場面を幻灯で見ている人びとのなかにも、一人の中国人がいた」
この部分、なんの説明もなかったので読みとばしていましたが、当時仙台に留学している中国人は魯迅一人なのです。でも、こういう引用そのままなのはよろしくないような気がします。伝記なら魯迅が中国人として苦しむ様子がその一文に集約するようでないと。
図書室でほかの本を探したのですが、一冊しかない! おかしい。わたしが以前入れたはずなのに。
とりあえず、西本鶏介訳「阿Q正伝」(岩崎書店)。「それを取りまいて見物しているのも一群の中国人でした。そしていた一人、教室のなかでその映写を見ている中国人はわたしでした」
西本鶏介はほかの訳者と違って敬体で訳していますね。実作者だけあって、わかりにくいところを補ったりちょっと改訂したりして、読み手にはサービスしてくれています。特に、あのわかりにくい「故郷」のエンディングがすっきり。「いまわたしの考えた希望というのも、閏土のあがめるものと、どこが違うでしょうか。それは、わたしが自分勝手に作りあげた理想であり、自分だけが正しいと思いこんでいる迷信ではないでしょうか。
ただ違うのは、閏土の求める希望は、毎日の生活に直接つながる、もっとはっきりしたものであり、わたしの求める希望は、それに比べて、はるかに遠いぼんやりとしたものであるというだけです」
最寄の図書館に走りましたが、貸し出し中らしく見当たらず、家を探し回って平凡社世界名作全集「らくだのシャンズ・阿Q正伝」増田渉訳を発見。
でも、「藤野先生」は収録されていませんてました。
魯迅は自分の作品が日本で出版されるとき、「藤野先生」はぜひ入れてほしいと語ったそうですが。
「故郷」はあったので読みましたが、不思議なのはみなさん、ヤンおばさんを「豆腐屋小町」と訳すんですよね。原文は「豆腐西施」です。誰が最初なのでしょう。見事な技です。
わたしは西本訳が最もしっくりきましたが、一つだけ。「藤野先生」で「わたし」が二軒めに住んだ下宿の「山芋汁」は、ほかの訳者が言うように「芋がら」の入ったみそ汁の間違いだと思います。里芋の茎を干して乾燥させ、それをもどして入れるのです。うちでもお雑煮に入れますよ。
もう少しほかの訳を探してみます。

「第二音楽室」佐藤多佳子

2011-01-26 05:28:38 | 文芸・エンターテイメント
実は、買ってあったんです。佐藤多佳子「第二音楽室」(文藝春秋)。発売してすぐに。でも、なんか読む気にならなくて。
というのも、「夏から夏へ」を単行本で買っておきながら、途中で挫折してしまい、課題図書になったり文庫になったりしても、まだ未読本棚のど真ん中に入っているからなんですが。
でも、「聖夜」があまりによかったので、その気持ちがさめないうちにこちらにも手を出してみるかと思い、まずはいちばん短い「デュエット」を読んでみました。
わたし、楽譜が読めません。当然、楽器もできません。音楽の点数は、歌と鑑賞で稼いできました。五回も歌えば歌詞も音程もほぼ覚えるんですけどね。ただし主旋律のみ。つぶしがききません。
このお話に登場する音楽の先生が、歌のテストを男女ペアで行うことを提案。男子には拒否権なし。申し込みがあった分の全員と歌う。
そのすったもんだを描くのですが、爽やかでとてもかわいい。
教科書に載せる作品を、と書き始めたとのことなので、もしかすると来年佐藤さんの書き下ろし短編の載った教科書が編集されるのかもしれません(おお!)。結局雑誌に載せたということなので、この作品ではないのでしょうけど。
でも、これが教材だったら難しいなー。どう教えるのがいいのでしょう。
うちのクラスだったら、こういう提案に喜んで乗りそうですが(笑)、こういうのは男子の大人しい子には辛いかも。

表題の「第二音楽室」は、佐藤さんらしいけど、わたしにはあまり……。これを先に読んだのだったら、ほかの作品は読まなかったかも。
お父さんの代には授業に使われていた第二音楽室。当時は音楽の先生も二人いた、というけど、小学校って担任が教えるのではないの? 専科の先生って二人もいるものなんですか。
これが鼓笛隊の話で、「FOUR」は卒業式でリコーダーアンサンブルをする四人の話。これも、物語としては好きなんですが、中一の四月からその年の卒業式に向けて練習始めたりしないだろーと思うわたしは、意地が悪いかもしれません。直前くらいに集めるか特設部として始める形になるのではないかな。
わたしの知人に、ご家族でリコーダーアンサンブルをされる方がいらして、二本のソプラノリコーダーを口にして「ちょうちょう」の歌を吹いたり、「コンドルは飛んでいく」を聞かせてくれたり、そりゃもう芸達者なのです。
わたしはタンニングもできません……。
この物語、四人のバランスがよくて。特に中原健太が。あ、でもわたしはこの最高に間の悪い男西澤も好きです。千秋もかわいい。「握手」には笑っちゃいました。
「裸樹」は軽音楽の話。いじめによる不登校で、中学時代の知り合いが誰もいない高校に入学した望。「らじゅ」というアーチストに憧れていますが、そのきっかけになった少女が目の前に現れて……。
この本の中では、やっぱり「デュエット」がいちばん好きです。ただ、「聖夜」のよさには敵わないな。
このシリーズでは、意識して女の子の一人称を使っているようですが、自分の好みとしては「ウチ」はどうも合いません。
日頃から十代女子と付き合ってますから、「ウチ」という子が多いのは分かってますよ。でも、なんだか違和感があるのです。
一人称の小説って不思議ですよね。普通心の中でこんなふうには話さないだろって、思いません? だから、話し言葉でありながら、やっぱり書き言葉の集結なのです。
佐藤さんの文章は、ほかの作家の一人称小説と違って、主人公の「名前」がさほど重要視されませんよね。むしろ「呼び名」にこだわりがあるように見える。
音楽と学校。あと二つくらい短編を書きたかったという言葉を信じて、続編の出版を心待ちにしています。

「聖夜」佐藤多佳子

2011-01-25 00:50:15 | 文芸・エンターテイメント
天野真弓、高校二年。プロテスタント系の私立高校に通う彼女は、礼拝奏楽を担当するオルガン部の一員として活動している。手が小さいためにピアノは断念した。小学生のときのコンクールである演奏を聞いて衝撃を受けたことがあり、部長の鳴海がそのときの少年だったのではないかと考えている。
鳴海は教会の息子で、子供のころからオルガンを弾いていたため、技術が高い。クールで誰かに寄り掛かることもなく、物事に動じない。
親友の映子は自分よりもずっと技術があり、しかもモデル並の美少女。鳴海に想いを寄せている。
文化祭で一人一人が演奏を披露することになっていて、鳴海はメシアンという作曲家のかなり難しい曲を発表することになっていたが、直前に姿を消してしまう。部員たちで探しまわったのにどこにもいない。映子は自分が告白したからだと泣き出し、演奏はめちゃめちゃ。真弓はそんな中でも、鳴海がほめてくれた自分のオルガンをと、演奏を始める……。
という少女まんがばりばりの物語を、クールな先輩である鳴海一哉の視点で語る物語です。佐藤多佳子「聖夜」(文藝春秋)。くーっ、十二月に買っておけばよかったっ。
わたしもプロテス系の学校に通いましたので、この舞台には少しなじみがあります。礼拝にも行ったし、音楽科に通っていた同級生がパイプオルガンを弾いているのも見たし、賛美歌もメジャーなものなら歌えます。
だから、エンディングの「神の御子は今宵しも」はなんとも懐かしく、胸が熱くなるラストでした。
鳴海は小学生のときに母親が家を出ていき、それ以来人を信じきれない部分があります。級友とも必要以上に関わらず、淡々と過ごしていますが、いつも心のどこかに母親への恨みが残っている。
絶対音感をもち、なんでもそつなくこなす鳴海ですが、そのせいか誰かを好きになるという感情がよくわかりません。でも、天野真弓のオルガンのことは気に入っています。曲を自分のものにするのに時間がかかるけれど、表現力は誰よりもセンスがあり、聴く人を魅了するのです。
鳴海の目に映る天野の存在感! バンビみたいな目とポニーテールがかわいいですね。
思春期に揺れるのは、男の子も同じなんだなーというのと、世間的には人気もあって実力もある鳴海の内面が、劣等感と焦躁にあふれていることも、考えさせられました。外面と内面に差があるのですね。
深井という友人を得て、父の想いと母の想いを知ろうとすることで変化する鳴海が、とてもよかった。特に、
「お父さんは、俺がいたほうがいいの?」
「あたりまえだ」
には、泣きそうになりました。
この物語の舞台は85年、まさにわたしも高校生でした。だから、非常に近しくおもしろく読みましたが、「なのに」「なので」を文頭にもってくることはなかったように思います。
その時期の言葉にこだわって、「第二音楽室」では「ウチ」という人称を採用したというあとがきを読むと、ちょっと残念な感じです。

「魯迅のこころ」新村徹

2011-01-24 05:33:15 | 歴史・地理・伝記
「故郷」の教材研究として、読んでみました。新村徹「魯迅のこころ」(理論社)。
魯迅は中国ではビックネーム。
でも、この本は著作から彼の人生を抽出して、つなぎ合わせたもののように思えるのです。
彼の伝記として描きながら、「故郷」の内容そのまま、「藤野先生」もあらすじそのまま。物語とエッセイとはイコールではないと思います。
「故郷」においては、モデルとして章閏水という人物が知られていますが、なんのこだわりもなく「ルントゥ」として紹介していますし、「ホンアル」(教科書の訳では「ホンル」)はどんな関係? 「甥」ってことは「魯迅」の兄弟の子供ですか? でも、作人やその下の弟健人に、この年頃の子供がいたようには感じられないのですが。(作人の奥さんは日本人で、魯迅とは確執があったと描かれています)
新村さんは、魯迅は弟たちに気を使って作品には「長男」か「四男」しか出さなかったと言っているのですが、その息子が一人だけ祖母と残っているのは自然なことなのかしら。親族が一同に住む中国の一家では、おばあさんと十歳にもならない子供一人置いてさっさと引っ越しできるの?
そんなことをつらつら考えながら読んでいて、最後まできたら、現実と文学的な部分とを分けずに書いたというようなことが書かれていました。んー? 伝記なんだよね、それでいいの?
さらに。
魯迅というペンネームを使い始めたのは38歳。それなのに、地の文はともかく会話文で、「魯迅」と呼びかける人がいるのはどういうわけなのでしょう。
民衆の考えを引き上げるために、峻烈に戦い続けた様子が後半延々と描かれますが、知識階級として古い因習を唾棄しながらも、教え子と恋愛して第二夫人に据えるのはかなり矛盾を感じるのですが。
ちょっと説明しますと、彼には親の決めた婚約者がいたのです。好きではないけれど、結婚しないとすれば、彼女の将来を奪うことになる。(当時は未婚でも、ほかの人とは結婚できなかったそうです)
それで形式としての結婚をした。でも、それが意に沿わぬものであることを文にしたり、家から離れて暮らしたりしていたようです。
あれー、確か子供と写ってるの見たことあるよーと思っていたら、それはこの第二夫人との間の子でした。わたしは再婚したのだと思っていたので、ちょっとびっくり。しかも、本文は師弟関係を強調しているので、まさかこういう展開とは。
魯迅が自分の考えを主張し、確固たる信念を貫こうとするのはよくわかりました。でも、ユーモアを交えた小品を書こうとした友達を翻意させるのはやりすぎではないかと思いました。中国には本当の意味でのユーモアは根づかないというようなことを言っているけど、笑わせるというのは泣かせるよりも難しいのですよ。
全体として彼は厳しい人だと思いますが、どうも共感しにくい人物のように感じました。厳格で崇高な人は、凡人には付き合いにくいです……。(でもそんな人が、幼少時に「二十四孝」を読んで実現不可能だと思うあたりがおもしろいです)
当たり前といえばその通りなのですが、日本語は話すのも書くのも堪能なのですね。彼がこの本を読んだとしたら、どう言ったでしょう。感想を知りたいものです。

「師・井伏鱒二の思い出」三浦哲郎

2011-01-23 06:22:07 | エッセイ・ルポルタージュ
この本が年末に出たと聞いて、仙台に車を飛ばしました。それなのに、六軒回ってどこにも売ってない。続いて東京に行ったので、テナントを見つけるたびに聞いたのに、やっぱりない。
八戸では平積みだったと聞き、新幹線に飛び乗ろうかと思いましたが、さすがに無理でした。
夫が丸善で買ってきてくれましたが、この間一ヶ月。やっとやっとやっとの購入です。長かった。
でも、ああ、待っていた甲斐があった一冊です。わたしがもう二十年も前に親しんだ三浦さんの世界がそのまま眼前に現れてきました。
「師・井伏鱒二の思い出」(新潮社)。井伏さんの全集の月報に連載されていた随筆です。こうやって通して読むと、一つ一つのパートが絡み合って全体を作り上げていることがわかります。井伏さんとのことを書きながら、色濃く現れるのは三浦さんの人生です。
青年時代の三浦さんが、井伏さんと出会い、その影響を受けていく。「忍ぶ川」「結婚」「笹舟日記」といった初期の作品世界を、また別の切り口から見ているような気持ちになりました。
鮫からたどった久慈街道の旅。改稿のたびに自分がどう紹介されるかを楽しみにしていた三浦さん。井伏さんが亡くなってその機会が失われたことを嘆きます。
井伏さんを悼む三浦さんを、読者であるわたしたちが悼む。その二重の悲しみが、この本にはあるのではないでしょうか。
酒、釣り、将棋、絵画、井伏さんの愛好した様々な物事を通して、二人の親密な距離が語られます。もともとは画家になりたいと考えていた井伏さんとともに絵つけに行ったことや、「芥川賞」受賞の記念に貰った皿(「桃夭夭」見たことあります!)の思い出も印象的です。
「スペインの酒袋」についての話題もありました。文庫本、どこにしまったかな……。
考えてみれば、井伏鱒二の作品を、「山椒魚」くらいしか読んだことがありません。だから、月報に連載されているらしいという話を聞いても、なす術がなかったのですね。今回通して読んでみて、やはり三浦さんの文章の力に揺さぶられています。
ただ「私淑」の意味がちょっと違うような……。
井伏邸に出入りするうちにすれ違う文人たちも印象に残ります。川端、清張、中野重治、太宰……。そういえば、太宰は「メロス」の発想となったといわれる事件で、檀を置いて東京に金を借りに行くといって、なかなか言い出せずに井伏さんと将棋を打っていたんでしたね。
この本を読みながら、ふと自分の持っている「忍ぶ川」が何刷なのかが気になり奥付を見ると、五刷。
さて、この本の中で、わたしは誕生日の日付を見つけました。あ、年号は違いましたよ、さすがに。
でも、半月遅れましたが、わたしにとってはなによりもうれしい贈り物です。この清明な文章にひたる幸福。三浦文学に出会えたことに、感謝しています。

「推理日記PARTⅢ」佐野洋

2011-01-22 06:47:51 | 書評・ブックガイド
佐野洋「推理日記PARTⅢ」(光文社)。84年刊です。
「推理日記」も三冊めになると、やっと自分の知っている作品が出てくるような気がします。
「猿丸幻視行」とか「この子の七つのお祝いに」とか「花嫁のさけび」とか。
たしかに読んだのでアウトラインは覚えているものの、あまり細かいところは覚えていないので、「あれ、どういう話だっけ?」という感じなのですが……。
でも、岡嶋二人の「あした天気にしておくれ」は、よく覚えています。文庫も持っているし、その顛末を描いた「おかしな二人」も持っている。
つまり、乱歩賞にこの作品を応募したとき、その時期にはもう「不可能」になってしまったシステムを使ったので少し過去に設定したのに伝わらず、しかもトリックが夏樹静子さんの作品と似ていたので受賞を逸したというものです。岡嶋サイドはオリジナルで作ったものだったので、たいへん悔しい思いをしたのですが、佐野さんは空前絶後のトリックなどありえないのだから、それだけの理由で落選にするのはどうかと思うと言っているわけです。
今、そのあたりの経緯を調べ直そうと思ったら、岡嶋本が見つかりません。何故だっ。
自分の頭の中の本棚に、書名ばかりがはさまっているような気持ちです。
まあ、普通は十何年も前に読んだ本の細部までは覚えてないと思うのですが、ちょっと気になったことがあって。
フィンランド式メソッドの本を立ち読みしたら、子供の速読を自慢するお母さんが出てきて、それをいさめるために筆者は「映画を四倍速で見て、楽しいと思うのか」と聞くのです。
わたしも速読は興味ありません。読み方がまるっきり違うので、自分は速読ではないと思っていますが、でも一般の人と比べると速いのは事実。(同僚の今年の目標冊数は五十冊とのこと)
この筆者の意見からすると、わたしの読み方は二倍速くらいでしょうか。わたしには充分わかりやすい速さなのですが。それこそ「まじめにこつこつ」読んでいるのですが。
味わって読むと、自分が過去に読んだ作品のことはよく覚えているものですか? 読み返さなくとも?
ずれてきたので、戻しましょう。
佐野さんの意見を読んでいると、「視点」にずいぶん気を使っていることがわかります。客観的に書いているのに、時々内部に入り込むのは嫌いみたいですね。
でも、自分が小説を読むときにそういう読みをしているかというと、そうでもない。多少なら視点がぶれても気づかないことが多いように思います。
岡嶋作品に勝って、この年乱歩賞に輝いたのは、「原子炉の蟹」です。佐野さんは、この作品に不満がある。というのも、これまでの受賞作を読んで研究した結果、こういう作品になったのだそうです。「傾向と対策」とでもいいましょうか。推理小説への愛のようなものを感じないのですね。
さらに、新聞記者だったのに社内規定がめちゃくちゃ。こういうのは賛成できないとおっしゃいます。そうだよねそうだよね。
翌年の中津文彦さんの受賞は、そのコメントに比べて期待感を持たせます。同時に岡嶋さんが「焦茶色のパステル」で乱歩賞をとったことについて、自分とタイプが似ているように思うと紹介しています。
当時気鋭の若手だった方々も、二十余年経ってもはや大ベテランですよね。中には一作きりの方もあり、その時間の流れに感慨を受けました。