しまちゃんの愛し糸島ブログ

糸島を個人的に愛している人達の紹介と、ネットワーク作りを目的とした、愛し糸島プロジェクトの情報発信ブログ。

「伊藤野枝memorial90」面白かった。

2013年09月22日 22時44分32秒 | 今宿関係

僕が作った今宿商協のリーフレット置いてあり、おそらく、大内士郎さんの原稿が掲載されているからだと思います。映画が始まるときには満員でした。

 

 

玄洋男女参画をすすめる会の会長挨拶があり、

午前10時30分映画「ルイズの旅立ち」という、伊藤野枝さんの娘ルイズさんの人生を他の兄弟や家族たちの証言を交えながら、写真や当時の新聞記事や知人たちの取材で構成されたドキュメンタリー映画でした。1990年代の末にガンで延命治療をせず亡くなるまでの晩年までの生き様を描いたドキュメンタリーだった。

まさに、伊藤野枝のDNAを見事に引き継いだ覚悟の娘さんぶりを発揮されていました。

柴田酒店の真人さんと食事をして、午後の矢野寛治さんの講演を拝聴しました。写真がいっぱい観れて説明をしていただけるので、伊藤野枝さんの人生が分かりやすかったです。

 

後ろの左側の男性が野枝さんの父亀吉さんです。なかなかのハンサムです。

野枝さんの長女魔子さんです。野枝さんのお子さんたちは野枝さんと大杉栄が殺されるまで、戸籍に入ってなかったので、両親の死後戸籍に入れられるとき、それぞれが名前をそれまでと変えたり、当て字にしたりされています。ちなみに摩子さんは真子さんです。

野枝さんもだんだんきれいになっていきましたが、娘さんたちも美人ぞろいでした。

キチさんは代準介ののちぞいで、三井家に奉公していたとのこと。ですから名前の通りきちっとした人のようです。伊藤野枝さん亡き後、野枝さんの子供たちを育てることに。

野枝さんは達筆でした。

野枝さんの上野女学校の卒業写真だそうです。野枝さんは最後尾、中央で上から目線でナナメにカメラを見ている人です。普通には写っていませんね。前から2列目一番左が、野枝が逃げ込み2度目の結婚する辻潤です。

矢野寛治の講演後、大内士郎さんとの対談が行なわれました

 

おおらかでユーモラスな大内さんの大内節は健在でした。

伊藤家の本家の義行さんが発言してくださいました。おそらく、いままでいやな想いを抱く経験を何度もされてきたと思いますが、そういう恨みがましいことも言われず、堂々と野枝さんたちの石は墓石ではないこと、そして、知人の好意で今宿の山中に置かして頂いていているので、そこは私有地であり、観光地のように人に侵入されては困ると土地の所有者の方への配慮を希望されていました。

野枝さんのことが知りたければ、矢野さんの著書「伊藤野枝と代準介」をお読みください。

 

今宿における伊藤野枝さんの偏見が少し減って、評価が高まる契機になるようなイベントになったのではと思います。玄洋校区男女共同参画をすすめる会の尽力があってこの会の開催となりました。伊藤家本家の伊藤義行さんの発言も聞けて、何か次のステップにつながって行く感じがしました。またいつものことですが、小学生、中学生、高校生、大学生が見事に一人も来ていないことが、今宿の伊藤野枝さんに対する評価であり、大人たちの知性のレベルなのだと思います。

おそらく、多くの今宿の住民の方に変化はないかもしれませんが、この「男女参画をすすめる会」のメンバーの皆様が自分たちの企画でさいとぴあのホールが300人以上のお客様で満席になることで伊藤野枝さんの注目度を改めて認識し、この男女参画の原点のような伊藤野枝さんの人生を知ることで、今後の人生に多くの影響を与えられたのではないかと思います。そして、メンバーの人生観が少し変わることで、メンバーそれぞれのご家庭の教育とか、夫婦関係とか社会に対する目に微妙な変化が出てくるかもしれません。今宿の子供たちが野枝さんのことをやがて誇りに思う日が少しでも早く来ることを望みます。

矢野寛治さん、大内さん、そして男女参画をすすめる会のメンバーの皆様、この「伊藤野枝さんのやりたかったことを認識するための会を今宿で開催するイベント」ありがとうございました。

 

 


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1 コメント

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1970年代に博多人形界の卸屋で働いていました (吉田つとむ)
2019-10-12 12:38:40
初めて、この記事に親しく接して読ませていただきました。
私は1970年代に博多人形界の卸屋で10年以上、その会社は閉じるまで働いていました。
製造をされている、青木さん、副島さん、そして井原さんらの工房に何度も通ったことがあります。青子魔子(真子)さんは、副島さんの作品を作っておられたと思います。
私は、アナーキストとして知られた井原末九郎氏と以前から付き合っており、いろいろ話を聞いたことがありました。
博多人形界に、その石膏型で流し込みの方法を取り入れたのが青木工房(他にあったかもしれない)で、その人形を一挙に大量生産方法ができるように改良したのだと聞きました。アナーキストや無政府主義者が、技術革新に先頭立ち、かつまた、業界人として優れて商売人であったことが痛快でした。
その末裔となるべき私(アナーキストを自認する)は、技術革新の能は無く、かつ、商才も欠けており、サラリーマンを長く続けていました。とっくに、博多人形界には縁が無くなりましたが、良き思いであり、今の仕事にも当時の知識や経験が生かされています。

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