伊東家のデスク

オタクの備忘録など

作品評価を高める実験における歪みと個人史について

2016-08-23 21:27:22 | 雑文
 始点は単純で、私の好きなウルトラマンが「ゼアス」であり、東宝円谷東映以外で好きなヒーローが「リュウケンドー」であり、東映ヒーローシリーズのお気に入りが「スーパー戦隊」である、ということである。
 戦隊はともかく、他二つについては正直マイナーであり、異色作の気もある。これが一番好き、という人は、一定数あれど少数派に追いやられるのではないかと思う。

 さて、本題はここからである。
 このような状況に陥るのは、オタクにとってはよくあることではないかと思われる。
 出来の悪い作品や、マイナーすぎる作品や、浮いた作品を好きになり、どこか座りが悪くなる。誰しも一度は経験があるだろう。
 ここで、自己防衛と作品評価の手段として採用されるものの一つが、他の作品に依存しての当該作の価値の向上である。
 例えば、私の場合だと「ゼアスは平成ウルトラの礎となった歴史的にも重要な作品」であることを強調するだろうし、「リュウケンドーはコメディタッチの牙狼」と言い張る手もあるだろう。
 どちらも、他作品の成果に依存して作品の評価を上げようとする、なんとも姑息な手段である。
 この姑息さが実に興味深い。
 姑息と言ってはいるが、このような態度はわりと普通のものであるし、作品間の繋がり、類似点を指摘して系譜を作り上げたりするのはとても楽しく、実りある作業だ。これ自体は悪い事ではないだろう。
 しかし、やはり作品単体から語れない分、どこかしら歪みが出やすいものであると思われる。
 仕方のない面もある。これが必要になるのはある一定の文化圏において対話する場面なのだから。

 このあたり、私はもっと自由に、自信をもって個人史を誇ってもいいと思うのだ。
 オタクとして実りある経験を積んでいれば、自然と自分こそが依存先になるはずなので、マイナー作評価の印象も変わるのではないか。

 私の陽性・庶民的な感覚のあるヒーロー趣味は「ゼアス」という革命によって始まり、「リュウケンドー」という革新でより高まった、といった具合に。
 勿論、これは自身がそれ相応のオタである必要がある。

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