のこしたいもの

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縄文・弥生時代(1)

2017年03月08日 | 未来へ残したいもの

縄文時代といえば三内丸山遺跡をはじめとする9万5千か所に及ぶと言われる遺跡群、縄文土器、竪穴住居、貝塚がすぐに思い起こされ、弥生時代になると3万5千か所余りの遺跡群、古墳、弥生式土器、水稲栽培、高床式倉庫などが思い起こされる。ここで縄文時代と弥生時代を日本人が定住して開始した牧畜・農耕生活を想像してゆく。

1.社会環境
この時代で最も重要なのは何といっても牧畜・農耕によって定住生活を始めたことであり、それによって日本人の生活様式の基礎が築かれたといってもよいくらいだ。そして人々は徐々に食物連鎖のしばりをゆるめてゆく事になる。

旧石器時代では全ての行動が集団で行われていたのに対し、この時代になると集団は家族の集まりとしたおもむきを見せ始め、家族の存在が強くなってゆく。

多くの遺跡に残された竪穴住居の規模と構造から定住する人々が数人の家族単位で生活していたことが想像できる。竪穴住居が作られたのは集団で移動しながら食糧を求める狩猟・採集生活からひとところに定住する必要に迫られたからだろう。つまり自分の生活する場所で植物を栽培し、動物を飼い育てて食糧とする牧畜・農耕の開始が食の安定につながったからだ。狩猟・採集生活から牧畜・農耕生活への移行は、牧畜・農耕が集団作業への依存度を徐々に小さくし家族単位の食糧生産を基本とする方向に集団の在り方を向かわせた。それを可能にしたのは食糧生産の道具や技術の進歩と人々の生活拠点を家族ごとに持つようになった事が大きい。竪穴住居は社会を構成する単位として、家族の在り方を基本としてゆく始まりとなったように思う。

弥生時代になって縄文時代にはなかった米などを長期保存するための高床式倉庫が複数存在したことは稲作による収穫量が相当量に達していたことがしのばれる。何百人という人口を持っていたとされる伊勢遺跡、登呂遺跡、吉野ヶ里遺跡等々の大規模遺跡は恐らく複数の小規模集落が統合されて成立していて、まとまった量の食糧を保存する必要性があったのだろう。
だとすると、そこから読み取れるのは複数の集落には食糧に恵まれたものとそうでなかったものがあり、豊かな集落がより大きくなることを求めたか貧しい集落が飢えを脱するために食糧をもとめたという事だろう。
つまり、旧石器時代と縄文時代初期にはなかった集団同士の争いが避けられない時代を迎えたと言えそうだ。そういった状況が生まれたのは牧畜・農耕生活が狩猟・採集生活に較べて格段に安定した食糧をもたらし、余剰生産物が富となり集落にとっての私有財産的な共有財産となっていったからだと思う。

高床式倉庫の出現は『人間;現生人類の足跡(牧畜・農耕生活)』で記したように、この時代になると少なくとも集団に強力な指導者が現れ、生産者と非生産者的な人が出来て富の分配に不平等が生じていた事を示している。大量の食糧保存はそれを管理するものがいないと不可能である事を考えると少なくとも食糧を管理する権限を持った者がいたことの表れのひとつだと思う。そして、社会の階級分化と富の分配の偏向化がよりはっきりと表れてくるのが弥生時代に続く古墳時代という事になる。
以降、大和朝廷の出現までいくつかの地方で邪馬台国のような大規模な勢力地図が出来ていたようだが国家となるようなものはまだ出来ていない。

弥生時代に関して重要な事がもう一つ、大陸との交流の事がある。日本に到達した人類は日本の自然環境に合わせて生き残った。そこで彼らが使っていた石器に関する知恵は彼らがもともと持っていたもので日本に到達してから改良を加えて言ったものだと思う。同様に縄文式土器も弥生式土器も大陸から伝わったものではなく独自に生み出したものだと思う。しかし石器、土器に続く青銅器、鉄器となるとその製法が弥生時代後期に大陸から伝わり日本で消化・実用化したものである。そういう技術を消化して実用化してゆくには然るべき受け入れ体制、社会体制がないとできない。弥生時代は人と物の交流が本格的に始まったという意味で以降の日本文化に大きな影響を与える端緒となった。

2.食
野生の動植物以外に食べるものがなかった状態から徐々に植物を栽培し動物を飼育するようになると彼らの食生活もバラエティーに富んだものとなっていっただろう。食材の調理法もひたすら直火で焼くだけでなく土器や石器や木器を利用して食材を細分化あるいは粉にして水とともに煮る、蒸す、炒るということも出来るようになった。恐らく長い年月の間にだんだんと食材を生で食べるという事は少なくなっていったのではないだろうか。旧石器時代でも恐らく食事はみんなでしていたと思うけれどこの時代になると住居の中で火を使う炉のような場所を囲んで家族単位で食事をするのが一般的となっただろう。複数の人間がともに食事をすることには違いはないが複数の家族が一緒に食事をするのと家族単位で食事をするのでは大きな違いがある。変化する生活環境に応じて家族の中でしか行われない事なども他人を交えないで話し合う事が出来るようになり各住居の中で人々の考えることが変わってきたという事だ。反面、そういう会話が出来る社会環境が出来ていたという事でもある。一日の食事回数は朝食以外に昼食、夕食を食べていたかは不明だが食糧事情を考えると昼食は食べていなかったのではないかと思う。そういう食事風景はいずれにしても風雨をしのげる竪穴住居の賜物だと思う。

それではこの時代人々は何を食べていたのだろうか。野生のシカやイノシシなどの比較的小型の動物、魚介類に加えて飼育したブタ、ニワトリなどを食べていたと言われている。植物では野生植物の他に木の実などが栽培されていた。そして米や雑穀の栽培も始まった。水稲栽培、陸稲栽培された米と雑穀(ヒエ、アワ、キビ)は何よりも長期保存が出来るという点で季節を問わず食べられたし米・雑穀だけを食べるほか、別の食材を加えて炊く、煮る、炒るなどされていただろう。そのために長期保存できる場所(高床式倉庫など)が作られ、米・雑穀は人々にとって今で言う主食となっていった。とくに米は年貢米と言われてきたように貨幣の役割を担ってきたほど日本人にとって大きな意味を持つものとなった。

この時代の遺跡として有名な貝塚はいわゆるゴミ捨て場であったらしく貝に限らない食糧の残滓、壊れた石器や土器、骨器などの道具類、灰なども捨てられている。考古学における遺跡として重要であるのはもちろんだが人々が住居を清潔に保ちネズミなどの侵入に気を配っていたことがうかがい知れる。

人々の食生活は旧石器時代人よりも格段に多様性と豊かさ、安定性を増したことは間違いないとは思う。しかし、野生の動植物への依存度が少なくなったとはいえ自然の驚異に対して無力であったことは変わらない。たよりとする米、雑穀は年に一度しか収穫できないのだから依然として食に対する不安はついて回ったことだろう。人間の力ではどうすることも出来ない豊かな食に対する願望を呪術者・祈祷師などを中心として神々へ託し祈り、供物をささげて祭りとしていたことは以前の時代と変わらない。人々は獲物の獲得、豊かな収穫、天地異変に見舞われない事を願い収穫期などに合わせて祭祀を行い一年の疲れをいやす娯楽としていたのだろう。

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