のこしたいもの

・・・・・・・・・・・・・・・・・

宗教について(7)

2016年10月12日 | 文化

人間に宗教団体は必要か

宗教団体に救いを求め、生きる上での支えとしている人が多数いることやその教えを信じている人に悪人はいないとまで言えないが少ないことなどを考えると、宗教団体はそれを必要とする人にとっては必要であり、そうでない人にとっては必要ではないと思う。例えば、霊とか精神の在り方について既存宗教団体とは異なった考えを持つ人々は宗教団体を必要なものとは考えていないだろうということである。もちろん必要でないとは必ずしも無いほうが良いとか有害なものであるということではない。
個人にとっては上述のようなことになるが、社会にとって宗教団体は必要なものであると思う。何故なら、良きにつけ悪しきにつけ宗教団体は一人では生きてゆけない人間が生きてゆくために作り上げた社会を維持する唯一の絆たりうるもののひとつであると思うから。無神論者にしても僕が一般に悪とされている事を含んだ「心の根源」といっているものに結び付くあらゆるものを制御できない社会では生きてゆけないだろう。とは言ってもこれまでの宗教団体の在り方をよしとしている訳ではない。以下は僕個人がこうあって欲しいと思う宗教団体像である。

① 他の宗教団体を排斥しない。
本来、教祖の教えは宗教に根ざすものであり複数あるわけではない。各宗教団体の違いは宗教の解釈・布教の方法の違いにあるに過ぎない。再三述べてきたように「殺すな、盗むな、嘘をつくな」に表されている根本理念を否定する宗教団体など宗教団体とは呼べない。そういった当然のことがどういう訳かこの根本理念を置き去りにしてきた宗教団体の歴史がある。いかなる組織であっても宗教団体である限りこれを排斥すべきではない。そのためには、宗教団体が間違った宗教解釈をもって民衆の支持を集めるような団体が出てくる隙を見せないものである必要がある。

② 一切の差別のない組織。
宗教団体において性・民族・身分・文化・職業・階級等々に対する差別は無くなってきているとはいえ根深いものがあるように思う。特に性差については、生物としての人間の根源にかかわっている宗教団体から消え去っていないように思える。
宗教団体が巨大化するにつれその組織は複雑化する。宗教団体の巨大化・複雑化が政治・経済などの巨大組織と同じ問題をはらむのは避けられない事とするのではなく教義にもとづいて既成概念にとらわれないものなって欲しい。

③ 教義に固定されない柔軟な布教活動。
宗教儀式や儀礼、折伏、説教、相談相手など救いを求める民衆への働きかけだけが彼らの活動ではないと思う。書籍・音楽・絵画・彫刻等々に携わる宗教人は数多くいるがまだまだ少数派である。出版事業・美術館の開設など知られているが、宗教団体の活動は人間の本性に深くかかわっているのだからもっと幅広く展開すればと思う。例えば、事業を喜捨と同様に位置付けて行なってもよいのではないかだろうか。

④ 政治とは一線を画す独自の視点を持つ。
宗教団体が人間の救済を目指すものであるならば文明の進化、特に科学・技術の進歩に対する態度を明確にし、政治に対する監視と意見を強めて欲しいものである。人類が常に経済成長を目指し地球の資源を消費し続けている現在、宗教団体には政治家と経済人、科学・技術者の気が付かない視点を提示できると思うし、そこに宗教の存在意義があると確信している。

世界に喜び、悲しみ、怒り、感動しない人はいないだろう。今の世の中、日本を、アジアを、世界を人類の存続という視点で見ている人は少ないだろう。ましてや階級・階層の意見・思いを代表する政党が人類の存続を理念に掲げるはずがない。人類の存続こそ階級・階層を超えた人類の最重要課題であるならば宗教団体こそそういった視点を柔軟に展開してゆけるように思う。

 

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 宗教について(6) | トップ | “自分”って何なんだろう »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL