のこしたいもの

どうなるでもないこの世の中、せめて愉快に元気に・・・・・。

“健康”について思うこと

2016年12月24日 | つれづれ

2016年も押し詰まっての出来事。

11月18日いつものごとく早朝(5時半ごろ)散歩のとちゅうに倒れて即救急車で病院に搬送され、3週間の入院生活を送るという貴重な体験をした。

そろそろ70歳を迎えようかという年齢になって初めて救急車のお世話になった事と病が脳内出血(入院後判明)だったことで何とも複雑な気持ちにならざるを得なかった。

ご存知のように脳内出血とは脳内の欠陥が破れるか切れるかして脳内で出血することだが、僕の場合(恐らく多くの場合)別段肉体的苦痛を伴うことなく身体の一部(今回は左上下肢)が自分の意思に従って動いてくれないという状況に陥ったのである(現在、血圧管理とリハビリのおかげで大分回復しているが)。動かなくなった部位がその内外部から損傷を受けた結果思ったようにその部位を動かせなくなるというのであれば受け入れられるのだが、その部位が全く無傷であるにもかかわらず思い通りの動かない、いうことを聞いてくれないという状況は初めての事であり何とも不思議な経験であった。

具体的にどういう状況かというと丁度長時間の正座などによって足がしびれ自分のいう事を聞いてくれないというような感じである。そして、しびれが取れても状況が変わることなくあたかも他人の手足が自分にとってつけられたようなものであるような状態が続くのである。

 以上のような自身の身体を見舞った人生初の経験に対する驚きもさることながら、入院先の脳神経外科というところの患者さんの殆どが65歳以上の高齢者で占められている事も今回驚かされた点である。大体からして動脈硬化、高血圧、脳血栓などということが原因で脳に異常をきたすというのはよほど不摂生な人でない限り若い人が該当することはないのだから当然といえば当然なのだが。

ふつう65歳を超えた高齢者というのは大抵現役を退いた人達であり、一般的には精神的にも肉体的にも若い人達に較べて頑張らなければいけない、という状況にある人達ではない。僕の一方的な見方かもしれないが、そういう人達は必然的に病の克服やリハビリに対する思い・気力が何となく強く感じられなかったのである。医療機器・設備・スタッフの充実に患者が対応できていないという、医療分野における高齢化社会に横たわるギャップを見た思いである。人命尊重を掲げる医療分野における人材・設備の充実ぶりに対して患者の方のあり方が何かおかしいのである。

僕は人間の身体は心と持ちつ持たれつの関係にはあるとは思うが、基本的には心が身体を支配していると思う。従って病気を克服するのは医療の発達と同時に患者の心のあり様の占めるところが大変大きいように思う。高齢者の病人が多いのは若い時から老後の人生のあり方を考えることが出来なかった、考える余裕がなかったという事であり、突き詰めて考えると政治のおおもとのところに人口減少局面を迎えようとしていた日本が描くべきビジョン(何千万人くらいが日本の適正人口であるというような人口想定に立脚した)が欠落していたのではないか。日本人が世界的な長寿を享受しているところに安住しすぎているように思う。人間の幸せという事を考えると長寿のみが指標であってよいものとは思えない。

生活のために働くことから解放された人間が生きる目的・楽しみを失った時、それまでなら毅然と跳ね返していた病などを含めた障害に対していかに脆いかという現実の一部を見た思いがするのである。

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