のこしたいもの

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封建制社会(1)

2017年04月19日 | 未来へ残したいもの

天皇と公家(貴族)による統治から武家が公家に替わって日本を統治した時代で源頼朝が鎌倉に幕府を開いて徳川将軍が政権を天皇に大政奉還するまでの約700年間が該当する。

700年にわたって政権を担ってきた武家は元来天皇・公家から任命された社会の治安維持を保つための勢力であり、いきなり公家に変わって政権運営ができる知識も能力も持ちあわせていなかった。武家が天皇・公家の政治手法を手に入れる先鞭は平安時代末期の平氏・源氏の動向にあったが、それは武家が政権を運営してゆくスタートラインに立つ前の準備運動のようなものであった。
武家階級が天皇を頂いて律令時代とは異なった独自性を持った国政を担える状態となるのは1392年室町幕府第三代将軍足利義満によって南北朝が合一されてからの事になる。実に200年にわたって公家の政治手法を学んできたことになる。その成果の表れが承久の乱(1221年)における鎌倉幕府の勝利であり、武家社会での慣習や道徳をもとに、制定された武士政権のための成文化された御成敗式目(1232年)だった。

鎌倉時代で僕が注目するのは白村江の戦(663年)以後600年を経て時の施政者に国家的危機感をもたらした二度にわたる元軍の襲来である。一般に元寇と呼ばれているもので文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)と二回にわたって九州北部に襲来したがいずれも元軍を撤退に追い込んでいる。その裏には400年にわたる平安時代の平和が外敵によって打ち破られ、大きな衝撃と危機感に迫られた朝廷・幕府が挙国一致体制で対応したという背景があるが、実際の戦力となった武家階級は非常な苦役と負担を強いられ戦勝に対する報奨が十分に得られなかったことの不満が鎌倉幕府の滅亡につながってゆく。

室町時代に入り武家は公家を無力化し、天皇さえも改元、皇位継承、叙任、祭祀などの権限を有するのみで実質的な権力は失っていった。ここで「無力化した皇室・天皇がなぜ現代に至るまで存続しているのか」について改めて考えてみる必要がある。

皇室は日本を統一した過程で他の部族の神を皇室の信奉する神話の体系に組み込んでいった、つまり建国の過程で他の部族を滅ぼすのではなく自らが目論む政治体制に組み込んでいったのである。そのおかげで大和朝廷に仕えた他部族が廷臣・公家として滅びることなく施政者の側に存在しえたのである。そして大和朝廷成立以来1000年以上に及ぶ年月の間に最高神天照大神の子孫である天皇を君主として仰いできた民族こそ日本人なのである。そのような訳でいかなる者にとっても天皇を否定することは日本人である事を否定することになり、国民の支持を得ることが出来ないようになってしまった。日本の統治者となるにはどのような形であっても天皇を頂くことが絶対に必要とされたのである。

以上の事を踏まえて室町幕府以後の武家政権をみてゆくと。
室町幕府によって一応の武家政権が確立されたことになるのだが240年にわたる室町時代(1336~1573年)も1447年から10年にわたって京都を主戦場として全国各地に飛び火した応仁の乱以来、徳川幕府の成立まで続いたいわゆる戦国時代を迎える。実に150年にわたる戦乱の時代が続いたことになる。そもそも室町幕府には直轄領が少なく朝廷の権威を拠り所にする財政基盤の貧弱な政権だったために天皇・公家の衰退が必然的に幕府の窮乏を招き全国的な内乱状態を引き起こしたのである。具体的にいうと、各地に置かれた守護・地頭が私領である荘園と公領である国衙領への支配を強め幕府の支配から逸脱するようになった。天皇と公家の無力化、天皇に臣従する武家勢力を束ねる幕府の弱体化によって全国各地に乱立した有力守護大名が武家の頂点を目指して争い続けたのである。

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