一原堂便り

こちらは、一原堂・朝倉同窓会です♪

朝倉海外塾

2017-10-31 | 朝倉高校

朝倉高校創立110周年記念事業の一つである

『朝倉海外塾』 無事に終了いたしました。

10月22日~27日の日程で、アメリカ合衆国シアトルに、生徒10名を派遣しました。

シアトルといえば、ボーイングを始め、マイクロソフト、アマゾン、スターバックスなど、世界に名を知られる大企業の誕生の都市です。

現地研修では、企業訪問をしたり、ワシントン大学・シアトル大学訪問をしたり、現地の学生との交流などを行いました。

この研修を実施するにあたり、アメリカ在住で本校12回生の倉地幸徳氏をはじめ、いろんな方にご支援をいただきました。

誠にありがとうございました。

 この海外研修で、彼らはたくさんのことを学んできたでしょう。

 これから、彼らがどう成長していくのか、とても楽しみです。

 そして参加できなかった生徒へもその経験を伝え、影響を与えてほしいと思います。

 

 来年の「創立110周年記念式典」で、その報告会を実施いたします。

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筑後川フェスティバル in 福岡

2017-10-13 | 朝倉高校

 ~~~平成29年10月13日 西日本新聞 朝刊~~~

『復興願い 朝倉高生が合唱』 15日 筑後川フェスタ  音楽部が出演

 福岡市で14,15日に開かれる「筑後川フェスティバルin福岡」に、朝倉市の朝倉高校音楽部(永松茉奈実部長、25人)が出演する。フェスティバルは九州豪雨で被害を受けた朝倉市などの復興支援がテーマ。その被災地から参加する部員たちは15日に筑後川など朝倉の魅力を歌った「わたしのふるさと~あさくら~」を歌い上げる。全国からの支援に感謝し、一日も早い復興を願って―。

 音楽部は8月上旬、宮城県であった全国高校総合文化祭(総文祭)合唱部門に県代表で出場。「わたしのふるさと」は卒業生が作詞した曲を顧問の田中玲子教諭(62)が1年前、合唱向けに編曲して歌いこんできた、いわば〝持ち歌″だ。

 九州豪雨では、部員にも自宅が床下浸水した人がいた。一方、総文祭で訪れた宮城も東日本大震災で甚大な被害が出た地。部員は津波に襲われた沿岸部で語り部から当時の話を聞いたりした。総文祭では予定の曲を変更し、宮城と朝倉を重ね合せて「わたしのふるさと」を歌い、聴衆が涙した。副部長の牧原史弥さん(17)は、「古里に対する思いは同じ」と感じたという。

 今回のフェスティバルでも部員たちは「歌うことで元気づけられたらいい」と「わたしのふるさと」を披露する。15日は福岡市・天神の市役所西側ふれあい広場で午前10時半から約30分歌う予定。副部長の中山芽依さん(17)は「歌が表現している以上の朝倉へと復旧してほしい。私たちの力は小さいが声を合わせ、その気持ちを伝えたい」。フェスティバルは入場無料。問い合わせは事務局=092(406)2369。

 

 素敵な歌声を、ぜひ聞きにいかれてください

 

 

 

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朝倉高等女学校 其の2

2017-10-04 | 一原堂

・・・続き・・・

 前回の記事「朝倉高等女学校 其の1」で、お写真のご提供のお手紙をご紹介いたしましたが

その他に、当時の制服姿の生徒さんのお写真も送っていただきました。

 

 制服の変遷については

 「創立五十年史」(昭和34年発行) に、朝倉高等女学校の服装に関する記述がありますので、ご紹介します。

 創立の明治43年から大正10年頃迄は和服であった。女子実業の時代は機織が一学科として課せられたので、生徒の衣服は生徒自身の手織りか、母の手織の手織木綿の縞物か絣の筒袖に、海老茶色の袴で、毛織物は禁じられていた。袴の後紐には校章として2本の白線をつけた。頭髪は桃割れも見うけられたが、いわゆる庇髪が多かった。着物の襟は白で、襟のだし工合は後一分に前三分と決められていて少しでもずれているとやかましく云われたので、動かないように着物にぬいつけ、又少しでも汚れていると注意されたので、一日毎に取替えて行ったという。在学当時の思い出の一節に、

「・・・糸の染分けから機織台にあげるまでを手にとるように教えられて、三年に平織と四年の時に高貴織を織りました。3学期には日曜も大抵登校しまして、それは熱心に梭の音高く調子をそろえて織ります時は、誠に勇ましい様でありました。そして学生時代一番楽しみな宮島までの卒業記念旅行に、織り上げました着物をきて得意になって行きました・・・」とある。

 

(創立五十年史より)

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 大正十年、女学生の制服が制定されたので、本校もこれに従った。紺サージの折衿、バンド付の上衣に、同地質のスカートを着用、靴及靴下を使用するようになった。夏服は冬服と同型で格子縞綿布を使用した。和服時代の校章として、袴の後紐に二本の白線をつけたが、洋服着用後はこれに代わってバッヂをつけた。

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今回送っていただいたのは、この大正10年に制定された制服だと思われます。

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 大正十三年、県下女学校生徒の制服はセーラー型に改正、統一されることになったが、中等学校購買組合設立以前、昭和五・六年頃までは本校の制服研究時代とも云うべき時期であった。特に夏服の白地は汚れやすいため、或はカラーとカフスを青にしたり、全生地を鼠色にしたり、又個人で用意する事も認められていたので、学年でも、個人でもまちまちの状態であった。その後購買組合から服地の配統をうけ、これを上級生が縫上げて、半袖白地ポプリンのセーラー型に統一された。

 

 これらの記述からすると、送っていただいた写真の制服は 大正10年~昭和5,6年ころに着用されていたものだと推察されます。

その後、セーラー服へと変わっていったことがうかがえます。

 

 とても貴重なお写真、ありがとうございました。

 

 

 もし、ご家族さまの残されたもので、こういったお写真など ありましたらぜひお寄せください。

現物でなくても、コピーでも結構です。

母校の歴史として、大切にさせていただきます。

 

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朝倉高等女学校  其の1

2017-10-04 | 一原堂

東京から、お手紙が届きました。

「突然このようなお手紙を差し上げて、申し訳ございません。

生前の母の物を整理してましたらこのようなハガキが出てきました。

朝倉高等女学校の資料になるのではと思い送らせていただきました。・・・・・・」

 とても貴重な ハガキ・写真が同封されていました。

ありがとうございます

卒業生名簿で調べたところ、お母様の卒業年は、大正14年(朝倉高等女学校13回生)

保存状態がよく、当時の様子がよく分かります。

ご提供いただきありがとうございました。大切に保存いたします。

(ご本人様に許可を得て、ブログ掲載しております)

 

 

 

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