僕の住んでいる大分には「リュウキュウ」という食べ物があります。
刺身の残り物をゴマと醤油ダレで漬け込んだ、簡単な刺身の保存食です。
これが滅法ウマイ。あつあつのご飯の上にのせて、お茶をかけると「リュウキュウ茶漬け」もう信じられないくらいおいしい。
大分では、居酒屋なんかには当たり前のようにあるメニューです。これがあれば、何杯でもおかわりできます。
このとき、なぜ「リュウキュウ」なのだろうと、沖縄好きな僕は、当然のように考えました。
調べてみると・・・。
一説には「ゴマ」を使った料理に「利休」と名前をつけた。
「リキュウ」が「リュウキュウ」に転化したというものでした。・・・なるほど。
しかし、いかに昔の話だとしても「リュウキュウ」という呼び名は、すでに固有名詞として古くからあるのでいかがなものか。
そこで僕の考えた仮説は、「リュウキュウ」とは沖縄の人から教えてもらった、刺身の保存食の食べ方なのではないだろうか、というものでした。
何日も遠洋を航海する船乗りたちの知恵だったのでは・・・。
いつの時代か判りませんが、昔「琉球」の海人(ウミンチュ)は九州の東海岸まで到達していたのでは、と考えたのです。
糸満や久高の海人は鰹や飛び魚、グルクンなどを追って奄美、九州からフィリピン、マレーシアまで大航海をしていたのである(オキナワ・カルチャー・アーカイブより)
糸満の海人は有名ですが、久高の海人も遠洋で活躍していたとは知りませんでした。
また久高の海人は琉球王朝時代に、中国やアジアへ行く進貢船で活躍するほどの技術だったそうです。
柳田国男と海の道―『海南小記』の原景
松本 三喜夫 (著)
価格: ¥7,350 (税込)
単行本: 308 p ; サイズ(cm): 21 x 15
出版社: 吉川弘文館 ; ISBN: 464207550X ; (2003/06)
さて、久高島と九州にはまだまだ関連がありそうです。
ここで柳田国男先生に登場してもらいましょう。
柳田国男の「海南小記」には「蒲葵(くば)」の記述があります。
九州の東海岸、大分県の県南には小場大島ある。小場(こば)は蒲葵(くば)ではないだろうか。
築島には蒲葵の林があり、宮崎・鹿児島には蒲葵島など蒲葵に関係した土地が多い。
蒲葵(くば)とはヤシの仲間で亜熱帯系の植物。「ビロウ」の木のことです。
古来から沖縄はもちろん、九州各地方ではこの蒲葵を神聖視していた。
久高島の古名は、クバシマだそうです。神聖なる木クバの生い茂る「クバの島」の意でしょう。
久高~琉球とは、琉球開闢の神アマミキヨ信仰です。ニライカナイは上空の天ではなく、海の彼方にあります。
海人になったとして、想像してみましょう。
久高島の海の彼方にはアマミ(奄美大島)があり、九州に到達して東海岸を北上すれば、豊後の国(今の大分県)アマベ(海部郡)がある。
奄美では「クダカーター」(あるいは「クダカー」)というと「沖縄島の人」の意味にもなるという。(RIK 沖縄南部あちらこちらより)
柳田国男は「海南小記」という旅をするにあたって、なぜか出発点を九州の東海岸である大分県海部郡(アマベ郡)においてある。
ここから日向、鹿児島、奄美、沖縄にかけて蒲葵を神聖視する文化圏がある。
そしてアマミ、アマベといった地名が存在する。
日本の古代史に興味のある方なら「海部」という言葉にピンとくると思います。
京都の舞鶴市は古くは海部の地でした。
「天火明(アメノホアカリ)」を先祖神とする人びとで「海部(アマベ)」といい、5~6世紀に大和朝廷によって、海部直(あまべのあたい)として政権内にくみ入れられたのです。
海部~海人文化圏は大和まで広がっていきそうです。蛇足ですが、大分市にも舞鶴という地名が今でも残っています。
古琉球 岩波文庫
伊波 普猷 (著), 外間 守善
価格: ¥1,008 (税込)
文庫: 487 p ; サイズ(cm): 15 x 11
出版社: 岩波書店 ; ISBN: 400381021X ; (2000/12)
じつは、この文化(もしくは人)の伝播をさいしょに描いたのは、沖縄の最初の民俗学者、伊波普猷でした。
琉球人の祖先はかつて、九州の東南岸にいた海人部即ち海人のであったろうと推測したが・・・(略)
といって伊波は、九州から奄美大島へ、奄美大島から、さらに南下して沖縄にたどりついたアマミキヨが、最初久高島に到着し、それから知念に上陸して玉城に居した・・・。
と、考えました。
琉球人は日本からやって来たと考えたのです。
しかし、とうの柳田国男が「海南小記」や後の「海上の道」で展開しようとしているのは、逆のルートのようです。
そう、日本の文化は南から島づたいに沖縄へ、そして沖縄から島づたいに日本へやってきた。
と、柳田は考えている。
今では「海上の道」で述べられているような、稲作の伝播や宝貝の話などは無理があるといわれていますが、大筋では僕も南から北上した説に賛成です。
なぜなら、日本本土よりも沖縄の文化が「原型」としての形をとどめているし、もともと航海の術に長けた海人部の集団が、北上する黒潮に乗り九州本土や近畿まで北上した。
黒潮を逆行するよりは、はるかに自然なルートだと思うのですが。
僕の父方の実家は湯布院ですが、もとは県南の佐伯の出身らしいです。
柳田国男が「海南小記」でたどった海部の町です。
そう考えると、僕のご先祖様は琉球人かもしれないではないか。
これはいい。
刺身の食べ方からはじまって、はるばる民俗学、文化人類学までやってきました。
そろそろ沖縄へ“帰る”計画を練らないとね。