怪奇製造人

「怪奇製造人」(城昌幸 国書刊行会 1993)

まだ、推理小説が探偵小説だったころの作品をあつめた「探偵クラブ」シリーズが何冊かうちにあって、いつか読もうと枕元にかさねてもう何年にもなる。
いいかげん読まなくてはと、罪悪感をおぼえてきたので、まず城昌幸の作品をまとめたこの本から読むことに。

城昌幸はショート・ミステリの名手。
収録作は以下。

「脱走人に絡む話」
「怪奇製造人」
「その暴風雨」
「シャンプオオル氏事件の顛末」
「都会の神秘」
「神ぞ知食す」
「殺人淫楽」
「夜の街」
「ヂャマイカ氏の実験」
「吸血鬼」
「光彩ある絶望」
「死人の手紙」
「人花」
「不思議」
「復活の霊液」
「面白い話」
「猟奇商人」
「幻想唐艸」
「まぼろし」
「スタイリスト」
「道化役」
「その夜」
「その家」
「絶壁」
「猟銃」
「波の音」
「ママゴト」
「古い長持」
「異教の夜」
「大いなる者の戯れ」

解説は長山靖生「月光詩人の彷徨」。

長山靖生さんの手際のよい解説によれば、もともと城昌幸は、城左門という名の詩人だったそう。
城昌幸は「若さま侍捕物手帖」シリーズの作者としても名高いけれど、本人の自覚では最後まで詩人だったようだ。
また、雑誌「宝石」を19年間支え続けたひとでもあった。
雑誌を19年間発行しつづけるというのは、実に大変なことだ。

作品の特徴として、まず思い浮かぶのが倦怠感と抒情感。
探偵小説の仲間入りをしてはいるけれど、探偵役が謎を解いたりはしない。
たいてい舞台は都会で、夜で、憂いに満ちていて、そこで犯罪や奇妙な運命が語られる。
ひとこと、「近代」といったらいいだろうか。

解説からの孫引きになるけれど、江戸川乱歩は城昌幸についてこう述べたそう。

「彼は人生の怪奇を宝石のように拾い歩く詩人である」

「(城昌幸は)日本探偵小説壇のもっとも特異な存在である。彼は探偵小説を一つも書いていない。その親戚筋にあたる怪奇と幻想の文学だけで、我々の仲間入りをしているのだといっていい。視野は狭いけれども、そこの風景は網膜に残像を結んだまま、いつまでも消えやらぬ不思議な力を持っている」

乱歩は、城昌幸の作風をジョン・コリアに似ていると評したとのこと。
また、長山靖生さんはユルスナールの短篇に似ているといっている。
でも、個人的には、前半はビーストン、後半はシュペルヴィエルに似ていると思うのだけれど、どうだろう。
そういえば、シュペルヴィエルも詩人だった。

乱歩がいうように、城昌幸の作品の幅はせまい。
なので、面白いといえば、どれも面白い。
そのなかでも、印象に残ったものを簡単にメモしていこう。

「脱走人に絡む話」
3章に分かれた作品。
まず、劇場で、秘密結社から脱走した男と、結社員との対決がある。
つぎは、ある室内で喜劇がおこなわれていると教えられた通行人の話。
最後は、脱走人の客と対話する〈私〉の話。

どの章にもそれぞれオチがついていて、全部そろうと、秘密結社と脱走人との暗闘がほのかに浮かび上がるという仕掛け。
諦念に満ちた雰囲気も魅力的な一篇だ。

「怪奇製造人」
古本屋で奇妙な日記をみつけた〈私〉。
読んでいくと、日記の書き手が、夜寝ている最中、だれかに狙われていることがわかり
…。

2重になったオチの切れ味が素晴らしい。
本書のなかから一篇選べといわれたら、これだろうか。

「その暴風雨(あらし)」
嵐に翻弄される定期航路の商船。
ブリッジの一等運転手のもとへ、ひとりの船客があらわれる。
「船が沈むようなことはないでしょうか」という船客を、運転手はなだめて帰らせるのだが…。

嵐の海の凄まじさが印象的な一篇。
解説によれば、「脱走人…」は大正14年7月号の「探偵文芸」に、「怪奇製造人」と「その暴風雨」は、大正14年9月号の「新青年」に発表されたとのこと。
才気がほとばしっている観がある。

「復活の霊液」
時は中世。
錬金術の大家センジボギウス先生は、臨終のきわ、弟子に悪魔の霊液の話をする。
その液体をつかえば、死人はたちまち二十歳の姿でよみがえる。
自分が死んだらこの霊液をつかってくれと、先生はいい残して亡くなるのだが、弟子はそれを自分のふところに入れ…。

人間の欲望のために、悪魔の霊液は決してつかわれないという、皮肉の効いた一篇。
この作品の初出は昭和10年。
初期のころとはちがい、地に足が着き、そのぶん皮肉が勝つようになったといえるか。

「面白い話」
面白い話はないかと〈私〉が、友人の長谷部といいあっていると、酒場のバーテンダー〈船長〉が、佐田という男の話をしてくれる。
佐田は、日本人の父とフランス人の母のあいだに生まれた人物。
宝石業をいとなむ父が、さる男の計略によって破産、自殺に追いこまれ、佐田は復讐を決意。
恋人に別れを告げ、仇を探す旅にでるのだが…。

「怪奇製造人」と同様、オチが2重になっている。
渡辺温の「嘘」という作品を思いださせる。

「絶壁」
絶壁のてっぺんに、ノートルダム寺院にいるような〈変化〉と呼ばれる怪物がいる。
はるか下では、苔のようなゴミのようなひとびとが、絶壁をよじ登ろうとしている。
だれかが絶壁を登ってこないかと、〈変化〉は莫大な年月をただ待ち続けている…。

これは、小説というより散文詩。
一読、忘れがたい。

「古い長持」
お婆さんがお爺さんに、古い長持について問いかける。
嫁にきたときに、あの長持だけは決して開けてはいけないといわれたが、なにが入っているのか。
しかし、お爺さんは「開けてはいけない」というばかり。
お爺さんの秘密が隠されているにちがいない、とお婆さんが長持を開けると…。

3ページの小品。
デ・ラ・メアの「なぞ物語」を思い出した。

各作品についてのメモは以上。
あと、視点について思いついたことがあるので書いておきたい。
「絶壁」が象徴的だけれど、城昌幸作品の視点は非常に高い。
はるかな高みから、下界を見下ろしている感じがする。

この視点のとりかたは、探偵役が事件を一望のもとにおさめるのとよく似ている。
道具立てを別とすれば、城昌幸作品が探偵小説の仲間入りをするのは、この視点のとりかたにあると思う。
城昌幸作品のほとんどは1人称だけれど、そのことも視点の高さを強調しているように思える。

すべてを眼下におさめるというのは、退屈を生むだろう。
なにしろ、なにもかもわかってしまっているのだから。
そして、なにもかもわかっているということは、なにをしても意味はないということにつながるにちがいない。
皮肉や退廃や幻想や怪奇が生まれるのは、おそらくここからだ。
「復活の霊液」のような、ほとんどナンセンス小説すれすれの怪奇小説が生まれるゆえんは、ここにあると思う。

さらに、城昌幸作品の短さも説明がつく。
長篇では、わかったりわからなかったりすをくり返さないといけない。
なにもかもわかっているというこの視点の高さは、長篇では維持できないだろう。

とまあ、なんでも視点のせいにしてしまったけれど、じっさいは逆かもしれない。
ある雰囲気をもつ作品を書こうとすると、自動的に1人称になり、視点は高くなり、作品は短くなっただけなのかもしれない。

戦前の探偵小説を読むと、なんだかみんな似たような印象をおぼえる。
印象が似るのは、視点のとりかたが似ているためだとすると、城昌幸が凝縮してみせてくれたような、はるか高みから見下ろす視点が、みんな好きだったにちがいない。

…話が大きく、かつ乱暴になってきた。
要は、城昌幸作品が探偵小説の仲間になるのは、この視点のとりかたが関係しているのではないかといいたかったのだ。
ただ、この視点のとりかたは、この作品集の特徴なのか、城昌幸自身の特徴なのか、あるいは時代なのか、よくわからない。
それを知るためには、「若さま侍捕物手帖」を読んでみなくては。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
視点の高さ (kazuou)
2012-03-11 13:41:16
「視点の高さ」というのは、なるほど!と思いました。たしかに当時の探偵小説って、地の文に突然作者の感慨みたいなものが出てきたりしますし。
 
 
 
視点にこだわる (タナカ)
2012-03-13 15:07:42
視点にやたらとこだわって小説を読むくせがあるんですよね。
われながらなんなのか。

戦前の探偵小説が妙に退廃的なのは、視点のとりかたがみんなよく似ていて高いからだと思ったんですが。
「なるほど!」といってもらえてうれしいです。

それにしても。
本を一冊読み終えると、読まなくてはいけない本が増えてしまうのは困ったものです。
 
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