神田の山を崩して丸の内を埋め立てた
『我庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る』
太田道灌が、寛正五年(1464年)、京都に行って、後花園天皇に答えた有名な歌である。
“太田道灌の時代には、現在の内桜田門が表門であったとのこと。この門には、後まで、太田家の家紋である“桔梗紋”が付いていて、俗に“桔梗門”だといわれている。 この“桔梗門”の角に櫓がある。これを潮見櫓といって、この櫓から潮の干満を見て、船の出し入れの頃合いをはかったといわれている。“これは、樋口先生のお話。

大田道灌と道灌時代の江戸
ということは、家康公の前の江戸は、今日の桜田門のすぐ近くまでが海であった。お江戸の“江“は”入江“の”江“。”戸“は門のことである。日比谷入江と江戸湊が食い込み、その間を半島状に、江戸前島あった。当然のこととして、今日の日比谷、丸の内まで浅瀬の海であった。
話を変えるが、日本人は、古代から土木工事が大好きであった。秦の始皇帝の陵墓には及びもつかないが、泉州河内の応神天皇、仁徳天皇の陵墓を見れば分かる。当時の少ない人口の中から、何十万の単位の人々を動員した。隣国の中国、朝鮮半島の国々に対する見栄があったかも知れないが・・・。

徳川家康と家康時代の江戸
ここで、家康公に戻る。秀吉から関八州・お江戸を拝領した家康公、まず西の丸下曲輪、今日の皇居前広場から丸の内にかけて埋め立てる。人の動員は、各大名に、千石について二人ないし三人の人夫を提供させた。土は神田の山を取り崩した。当時、神田の山は駿河台からJR東日本の神田の駅まで続いていた。その土を取ったため、神田が平地になった。空前絶後の大工事であった。物凄い動員力と言わざるを得ない。
家康公は、単に埋め立て、土地を造成しただけではない。戦争という人災から都市とその住民を防衛するための工夫を施した。それだけではない。地震とか台風という自然災害からも、人々の生活を守るための数々の工夫を施した。流通面の利便性を確保のための水運も工夫した。江戸の都市計画は素晴らしかった。後世の人間に、工夫の跡を探訪することの楽しみをも残した。
サーテ、これから渋谷の文化村へでも出かけるとするか。キタさん。
ぬまごろう










ヘー・・・。道灌時代のお江戸の風景、コンナ風だったんですか。
日本のウォール街、沈没しませんように。
丸ビルなど大丈夫でしょうか?
文化村あたりはどうなっていたのでしょうか?
ヌマさん教えて!
やはり本物は違いますね。立体感、光の使い方、絵心のないXにも、心に響くものがありました。有難うございました。
江戸の埋め立て業者は、浦安の埋め立て業者とは異なるようですね。
渋谷でデートとは若い証拠。
羨ましいヨ!楽しんでもらえて嬉しいです。
今後、埋め立ては江戸の業者に頼みましょう。