テイカカズラ

わが家のテイカカズラが、遅まきながら咲き始めた。
「テイカカズラ(定家葛)」はキョウチクトウ科の蔓性常緑低木で、プロペラのような5弁の花をつける。
後白河天皇の第3皇女にして歌人の式子内親王を愛した藤原定家は、死後も彼女を忘れられず、植物に生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説があり、それがこの植物の名の由来とか。テイカカズラの花には濃厚な香があるが、式子内親王の香りであろうか。
アキラさん、しおさいさんとマルの爺さんトリオがイタリア旅行をして間もなく1年になる。
フィレンツェからローマに向かう途中、トイレタイムを兼ねてオルヴィエートという小さな町に寄り、田舎町には不似合いな壮麗きわまる大聖堂(ドゥオーモ)を訪ねたが、大聖堂前の広場でテイカカズラを発見したときは、日本や朝鮮半島で自生するテイカカズラがなぜこんなところで咲いているのかと驚いた。
(画像をクリックすると拡大画像に)
ついでながら書くと、この大聖堂内の礼拝堂には、メディチ家のお抱え画家だったルカ・シニョレッリ(1450年頃〜1523年)が描いたフレスコ画、「選ばれし者の天国への召喚」と「罪されし者を地獄に追いやる天使」(画像左)が向かい合う壁に描かれていた。ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」(画像右)を描くにあたって参考にしたとされる絵で、画面を埋め尽くす老若男女一人ひとりが克明に描かれていて迫力満点、カトリック信者には下手な説法よりも効き目があったにちがいない。
藤原定家は極楽浄土で愛する式子内親王に再会できたのであろうか。それともこんなところまで追ってこないでよと袖にされたのであろうか。
マル
ボダイジュ

セイヨウボダイジュの花とブランデンブルク門通りの菩提樹並木(ネットより借用)
きのう散歩しながらNHKFMを聴いていたら、「きらクラ!」という音楽番組をやっていた。これまでずっと日曜日午後はオペラ番組だったので“アレレ?”という感じだったが、これは5月から始まった新番組(毎日曜日午後2時〜4時)で、きのうはその第4回目だった。
クラシック音楽番組ながらオペラとはちがった気楽なDJ番組で、パーソナリティは、ふかわりょう、遠藤真理のふたり。正直いって、ふたりとも初めて聞く名前だが、ふかわりょうは「慶應大経済学部出身のお笑いタレント・俳優・エッセイリスト」、遠藤真理は「2005年に東京芸大を首席で卒業したチェリスト」とウイキペディアに書いてあった。
DJのまにまに流れるクラシック音楽は肩の凝らない曲ばかりで心地よく、とてもお笑いタレントとは思えない知性派のふかわりょうとオーストリアで修行をつんだ女流チェリストの話がこれまた楽しい。なかなかいい番組でこれからが楽しみだ。
きのうの番組の終わりの方で遠藤真理が今週の1曲として選んだのは、シューマンの歌曲集「詩人の恋」の中のリートだった。フィッシャー・ディースカウが歌っていたが、綿にくるんだようなソフトな、温もりのあるバリトンはいつ聴いてもいい。
フィッシャー・ディースカウというと、マルにはオペラ歌手というよりもリートの名手との印象がつよい。とくに印象に残っているのがシューベルトの歌曲集「冬の旅」。テキサス州ダラスに独身で駐在していた40数年前、フッシャー・ディースカウが歌う「冬の旅」のレコードを買ってよく聴いた思い出がある。とくにこの歌曲集の第5番目にでてくる「菩提樹」は、Am Brunnen vor dem Tore, Da steht ein Lindenbaum・・・で始まるが、教養部時代にドイツ語を学び始めたころ、ドイツ語の歌詞をを一生懸命覚えたものだった。
菩提樹といえば、東欧3国を旅したとき訪れたベルリンのブランデンブルク門から街の中心部に通ずる道の両側に菩提樹並木があった。残念ながら、いまマルが住むこの辺りでは散歩していてもボダイジュに出会ったことがない。
フィッシャー・ディースカウが87歳の生涯を終えたのはつい先日の5月18日だった。合掌&アーメン。
マル
西洋の近代は3つの出来事から始まった。それは、ルネサンス、宗教改革、啓蒙思想。
ルネサンスは14世紀から16世紀にイタリアを中心に広がった。15世紀後半から16世紀前半に活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロに代表される。また宗教改革は、ヴァチカンの堕落に端を発して、1517年にヴィッテンベルグ大学の扉に「95ヶ条の論題」を掲げたマルティン・ルターに始まったがスイスのツヴィングリやカルヴァンも立ち上がり、さらにはブリテン島にも及んだ。

近代の始まりのもうひとつの出来事が啓蒙思想だった。キリスト教を中心とする神学から目覚め、理性による思考を求めて立ち上がったイギリスのフランシス・ベーコン(1561−1626)やジョン・ロック(1632−1704)に代表される啓蒙主義・哲学が後の産業革命に結びつく。
英語で「啓蒙」を 「enlightenment」 という。仏教でいう「悟り」も英語では enlightenment と訳されることがあるようだが、enlightenment は「光を射し入れること」を意味する。動詞形の enlighten「明るくする」は14世紀から用いられていたが、名詞形の enlightenment が使われるようになったのはやっと17世紀後半、ドイツを舞台にした30年戦争の終結をもたらしたウェストファリア条約(1848年)直後のこと。神への信仰をめぐってカトリックとプロテスタントがキリなく争い、大量の血を流すような濛々漠々とした状況に「光を射し入れて啓(ひら)く」というのが「啓蒙」の意味するところだそうだ。
一方、戦いを引き起こした熱狂を enthusiasm という。真ん中の thus はラテン語のDeus(デウス)と同じで「神」を表し、 enthusiasm は「神がとり入った状態」を示している。
「神がとり入った状態」に「光を射し入れて」頭を冷やす時代、冷静さを回復して知性を理性的に用いる時代、そういう時代がやってきて近代科学が発達し、現代へつながっていったと織田先生はおっしゃる。
織田哲司著『英語の語源探訪』を下地にして、24回にわたって投稿してきた英語の歴史の話を一応これで終わりにします。
マル
ジャガイモ

これは近くの畑で咲いていたジャガイモの花。薄紫色と白色の花があった。別の畑の主に聞いたら、「薄紫色はメイクイーンで、白色は男爵ではないかな」といっていた。
ジャガイモの花はナスの花とそっくり。ワルナスビの花ともそっくりだが、この3つ、いずれもナス科ナス属の植物だから合点がいく。ジャガイモはアンデス山脈の高地を原産地とし、大航海時代にスペインにもたらされ、瞬く間にヨーロッパに広がった。当時のヨーロッパは戦争に明け暮れ、人口は減り農地は荒れ放題。ジャガイモは痩せ地に放っておいても育つ高栄養価の食糧源。いまでもヨーロッパを旅するとどこでもジャガイモ料理ばかりでうんざりする。
日本には江戸時代黎明期に、オランダ船がジャカルタからもたらした。ジャガトラ(ジャカルタ)の芋だから「ジャガイモ」。馬鈴薯ともいうが、こちらは中国伝来の呼び名とされる。俳句の世界では「馬鈴薯の花」は夏の季語だそうだ。坪内稔典さんの『季語集』(岩波新書)には次のようなエッセイがある。
馬鈴薯の花の季節になった。その花を石川啄木は次のように詠んだ。「馬鈴薯のうす紫の花に降る/雨を思へり/都の雨に」(歌集『一握の砂』)。東京の雨を見ていて、かつてよく見た北海道あたりの馬鈴薯の花を思い浮かべたのである。啄木はまた、「馬鈴薯の花咲く頃と/なれりけり/君もこの花を好きたまふらむ」とも歌っている。「君」は北海道で出会った女性か。
北原白秋の歌集『桐の花』にも次のような歌がある。「馬鈴薯の花咲き穂麦あからみぬあいびきのごと岡をのぼれば」。白秋や啄木の歌から推すと、馬鈴薯の花はどことなく恋情に通じているらしい。
「じゃがいもの花のさかりのゆふまぐれ」は日野草城の俳句。夕べのうす闇に浮かぶ馬鈴薯の花に草城もまた恋情を感じたか。
じゃがいもの花咲く城下町に来し 稲田眸子 (『絆』 2000)
馬鈴薯に花咲く青い空が好き 瀧春樹 (『花嵐』 2002)
ジャガイモの花に恋心を抱けるのは戦前派であって、戦後の食糧難時代によく食わされたマルは、へえ、そんなもんかなあ、と思ってしまう。
マル
バラ

マイコ
バラ(薔薇)がわが家の庭でもいま真っ盛り(画像)。
バラが人類の歴史に登場するのは古代バビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』とされるが、なぜバラには棘があるか。ギリシャ神話にはつぎのような話がある。
エロス(クピド・キューピッド)が開き始めたバラにキスしたところ、花の中で蜜をすっていた蜂がねたんでエロスの唇を刺した。それを見たエロスの母アプロディテ(ウェヌス・ヴィーナス)は激怒し、蜂をことごとく捕えて息子エロスの弓の弦に数珠つなぎにした。しかし、アプロディテはそれでも怒りがおさまらない。蜂もわるいが蜂を花の中に隠していたバラも許せない!と、蜂の針をつぎつぎと抜き取ってバラの茎にさし込んだ。それ以来、バラは美しい姿に似合わずたくさんの棘をもつようになったのだそうだ。
マダム・ヴィオレ マチルダ
ブラスバンド フレンチレース

ピエル・ドゥ・ロンサール アイスバーグ
香水の材料となるように、バラは芳香を発する。プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラはバラを愛し、バラの花をいっぱい浮かばせたフロを楽しみ、ユリウス・カエサルを歓待したときもふんだんにバラの花や香油を使用したと伝えられている。バラはクレオパトラも愛し、ナポレオン・ボナパルトの夫人ジョセフィーヌも愛した。西洋では花の女王であることは間違いない。
マル
きのうは金環日食で沸いた。
近くに住む娘一家も遮光メガネを早々と買い込んでこの日に備え、ことし小学生になったばかりの孫はこの日を心待ちにしていた。同じ市内の小学校でも対応はまちまちだったようで、孫の小学校では家庭で日食を見てから登校することになっていたが、都内に仕事をもっている娘は孫に付き合っているわけにいかないから、マルが孫のお付き合いをすることになった。
天気予報は「くもり」。またとない機会だから何とか金環日食を見せてやりたいが、孫たちの住むマンションへの道すがら空を仰ぐと薄い雲を通して太陽が覗いている。これなら何とか金環日食が見られるのではないかと期待を膨らませて足をはやめたところ、マンションに隣接する公園では子どもたちが集まりはしゃいでいる。

間もなく金環だ!(例のポケットデジカメで撮影)

小学1年生の長男 1歳半の次男までも
太陽が欠け始め7時20分頃には太陽が金の輪をつくった。孫が興奮していたのは言うまでもない。
皆既日食や金環日食の画像は本やインターネットで見ることはできるが、自分の目で確かめるのとではおお違い。だから子どもたちが興奮するのも当然。マルも子どものころ、ススで黒くしたガラスを空にかざした経験があり、いまでも頭の片隅に焼き付いている。が、それがいつ頃のことだったか思い出せない。
そこでインターネットで過去の日食を調べたところ、マルの子どものころに限定すれば、金環日食や皆既日食は1948年(礼文島)、1955年(与那国島)、1958年(八丈島)の3回しかない。そうだとすると、愛知県では皆既日食や金環日食は見るチャンスがなかったことになるが、確かにその瞬間あたりが暗くなったことを覚えている。マルの記憶違いだろうか、それとも認知症の兆候か。諸兄は記憶がおありかな。
マル
きのう、マルが住む千葉県北西部で断水騒ぎがあった。ゴルフを終えて午後8時前に家に戻るやいなや、女房が「えらいことになったわ」というから何事かと思ったら昼ごろから断水しているのだという。日頃は忘れがちだが、今回の断水騒ぎによって水のありがたさ、水の貴さを再認識させられた。

北千葉浄水場(左上の川は江戸川)と給水風景(いずれもネットより借用)
文明の進化で生活はどんどん豊かになるが、その一方で何か事あれば不便になるという脆弱性は否定できない。水といえば飲料水もさることながら生活用水、とくにトイレの水が問題。われわれが子どもの頃は水洗トイレなんてなかったが、いまは日本中どこでも水洗トイレ。さらにウォシュレットなんかも家庭に普及し,トイレで使用する水の量もバカにならない。
しかもその水も水道水だから、水道が止まってしまったらトイレも使用できない。少なくとも使用後も流せずそのままにしておかなければならないのだ。昔のように排泄物がストーンと下の溜め壺に落ちて見えない状態ならまだしも、水洗トイレではおのれの排泄物がこれ見よがしに便器に“たまった”まま。そのような排泄物が視線に飛び込んでくるのは“たまった”ものではない。
幸いにして、断水状態は夜11時ごろには解除されたが、今回の断水で思い至ったのは、テロリストが浄水場に劇薬物を投入したらどうなるかということ。航空機をハイジャックしてツインビルに突入するのもテロ行為だが、水を使えなくするというテロ行為だって考えられないことではない。実際には、浄水場では常時水質検査に怠りなく、劇薬物が検出されれば今回のように直ちに断水されるだろうから大量殺人に結びつくことはないだろうが、大混乱が起こることは避けられない。そんなことを想像するだにゾッとする。
マル
「Culture」―― 手元のコンサイス英和辞書には「1.教養、2.文化、3.修養」とあって、4番目に「耕作」とある。 Culture という英語は「耕作」という意味をもったラテン語のCultura (クルトゥーラ)がフランス語を経由して英語に入ってきたもので、「耕作」から「(動物の)育成、栽培」という意味を経て、16世紀になると次第に「(心の)育成、涵養」という意味へと広がり、いわゆる「文化」とか「教養」という意味で広く用いられるようになったのは19世紀になったからのことだそうだ。

動物は本能的にエサを“探して”食べる。“探す”だけでなく自分で“耕して”食糧を作り出すのは人類だけ。
動物は汗をかいて土を耕さなくても、春になれば芽が出て葉が出て花が咲き秋になれば実になり、それらを食べていればいいから、動物にとって文化は無駄なものと映るかもしれない。
しかし考えてみれば、人間にだって文化は無駄なものと映ることがある。「欲しがりません、勝つまでは」の戦争中がそうだったし、いまでも文化は「仕分け」の対象になってしまう。
cultureや cultivation の cult- の部分は「回転する」という意味の印欧祖語の kwel- という語根にもとづくそうだ。この語根から wheel「車輪」が出る。またギリシャ語の kuklos(ククロス)「車輪」も同語源。 kuklosがラテン語では cyclus(キクルス)となり、そこからさらにフランス語で cycle(シクル)「一回り」が生まれ、英語では cycle となったという。
ギリシャ語のkuklos(ククロス)は、なんとなく日本語の「ころがす」「コロコロ」と似ていないか。
日本語はもちろん印欧語系ではないが、人間の感覚は人種をこえて似ているのかもしれない。
マル
ユリノキ

近くの防災公園のユリノキの花が見ごろだと人づてに聞いて散歩がてら出かけてみた。
「ユリノキ(百合の木)」は北米原産のモクレン科の落葉高木で、葉の形が半纏に似ていることから「ハンテンボク(半纏木)」ともいう。防災公園のユリノキ(画像)にはたくさんの花がついていた。直径5〜6センチはあろうかという比較的大きな花で、欧米人にはチューリップを連想させるのだろうか、英語では tulip tree (チューリップツリー)というそうだ。
肝心の「ユリノキ」の名の由来だが、どうみてもユリの花には似ていない。この木の学名は Liriondendron というが、これはギリシャ語の leirion(ユリ)、 dendron(木)に由来する合成語。この木が明治初期に渡来したとき、この学名から「百合の木」という和名が生まれたらしい。
ウイキペディアによると、上野の東京国立博物館本館の前庭にはユリノキの巨木があって、木に添えられた銘板には『明治8、9年頃渡来した30粒の種から育った一本の苗木から明治14年に現在地に植えられたといわれ、以来博物館の歴史を見守り続けている。東京国立博物館は「ユリノキの博物館」「ユリノキの館」などといわれる』と記されているとのこと。
また別のWebサイトには、新宿御苑にも大きなユリノキ「三本ユリ」があって今が見ごろとも書いてあった。
じつは、マルが第3の職場として勤務した日本橋人形町の事務所ビル前の通りの街路樹はユリノキだったが、花は見た記憶がなく、今回はじめてユリノキの花を知った次第。大樹の花としては「見事」の部類に入るのではなかろうか。ちょっと目には、タイサンボク(泰山木)を連想させるが、ユリノキもタイサンボクも同じモクレン科の植物だから、マルの連想はあながち的外れとはいえない。
マル

小学校の卒業記念作文「おもいで」と一緒に、表紙に「うしくぼ」と書かれた<牛久保小学校創立百年記念特集号>が出てきた。明治6年に開設された小学校の創立百年を記念して昭和47年に発行された特集号で、そこに「明治っ子は語る」と題した座談会が載っている。明治末期に小学校時代を過ごした5人の思い出話で、当時の小学校の様子が生活がうかがわれておもしろい。東三河弁が随所に飛び出す長い座談会だが、いくつかをかい摘んで記してみよう。

明治45年頃の校舎と卒業生
「式のある時だけ袴で、普通は紺がすりの筒袖の着物にわらぞうりだったのん」、「男は丸坊主で、女の子は牛若丸みたいに蝶々にゆってたね」、「生徒はノートや鉛筆を使わんで石版に石筆で書いとったが、先生は黒板に白墨だった。怠けとると白墨をぱっとぶっかけられただね」、「まっと(もっと)ひどい人は、ムチでたたかれとっただよ」、「昔の先生は、よく怒ったねえ。立たされたり、ひどいとなぐられたり」、「日露戦争が済んだあとで軍人が威張っていたようの思うのん」、「世の中の空気として、総理大臣になりたいという人より、陸軍大臣になりたいという人が多かっただに」。
「学校へ来る時に前掛けをかけて、そのポケットにビー玉や、いろんな遊び道具を入れて来て、めんこなんかをやったもんだよ」、「昔の学校は、昼になると近くの者はうちへ帰ったもんだね。菜っ葉飯に煮干や梅干を買って食べた人が多かった。とにかく貧しい食生活でしたなあ」。
「カバンはなかった。ふろしきだったね。腰に巻きつけて、走るとガチャガチャ鳴ったもんだに」、「昔の先生はよく遊んでもくれたりよく叱って、ぶったたいたりしたもんですよ」、「子どももぼっくう(やんちゃ、いたずらっぽい)だったのん。授業中に窓からとび出る、運動場では切り出しナイフで友達の手を切る。悪いことをしただ」、「落第生はあった。毎年ふたりや三人はあっただら、勉強できんと。丙とか丁ばっかりだと」、「通知票は、読み方、書き方、算術でソロバンはなかったね」、「運動会はさるまたとシャツでしたよ。女の子は着物でとんどったですよ」・・・・
と、まあこんな具合。この座談会に登場した先輩たちもすでに人生を全うして浄土にいるだろう。
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
マル
「文明開化」という漢語は civilization の翻訳語として福沢諭吉が初めて使った造語とされる。
同じようなことは英語でもよくあるそうで、たとえば英語の philosopher 「哲学者」はソクラテスの造語。
また、時代はぐっとあとになるが、gas 「ガス、気体、ガソリン」も素性がはっきりしている造語。このことばは、17世紀に活躍し た J.B.van Helmont というベルギーの科学者が燃料用の気体を発明したとき、彼が命名した名称。これは「混沌」を意味するギリシャ語の khaos 「カオス」に暗示を得たもので、彼はギリシャ語の kh と音声的に近いオランダ語の摩擦音 g を用いてgas ということばを作り出したという。英語の superman は英国の劇作家バーナド・ショーの造語で、ドイツの哲学者ニーチェが用いた Ubermensch(超人)の訳語だそうだ。

学問の名称とか学術語に新語が多いのは、それらの語は意味を厳しく限定する必要があるから。それにはアングロサクソン系の語彙では無理で、代わって登場するのがギリシャ語や近代ラテン語。ギリシャ語や近代ラテン語で造語すると定義された意味が厳しく限定され、正確を期す学問の術語などにはふさわしいのだという。
たとえば、英語の中でもっとも長い病理名 pneumonoultramicroscopicshilicovolcanokoniosis は、顕微鏡でもみえないような微細な珪粉末や石英粉末などを絶えず吸収する抗夫たちのあいだで起こる一種の職業病「肺塵症」を意味するそうだが、その病気を発見した科学者がその病気の症状を伝えるのに正確を期してつくった造語だそうだ。こんな長い病名を覚えるのは凡人には無理。医学部でなくて法学部でよかった。
マル
ヒトツバタゴ
近くの大学キャンパスのヒトツバタゴが見ごろになった。
この木、日本では岐阜・愛知・対馬の3か所にしか自生していないとのこと。これまでにもこのブログに何度か登場しているので「またか!」といわれそうだが、まるで雪に包まれたかのように真っ白な姿は、それはもう見事!! (詳しくは過去の掲載記事をごらんあれ)。
名古屋の熱田神宮の近くにヒトツバタゴの並木道があるそうだ(画像下右。インターネットから借用)。

ヒトツバタゴは「ナンジャモンジャ」「ナンジャモンジャノキ」ともいう。
“なんじゃもんじゃ” はおもしろい言葉だが、おもしろい日本語といえば “ちんぷんかんぷ”という言葉もある。
“ちんぷんかんぷん”は漢字では “珍糞漢糞” とも “珍紛漢紛” とも書くようだが、これは中国語の「聴不看不」(見ても聴いてもわからない)が転じたものだそうで、「聴不看不」は儒者が使う難解な言葉をからかったものだとか。
そういえば、わが国会議員のセンセたちが発する言葉もわれわれにはちんぷんかんぷん。まさに「聴不看不」の典型だが、こちらはからかいたくなるというよりも、呆れるばかり。
この“ちんぷんかんぷん”、英語では “It‘s Greek to me” という。古代には大文明国だったギリシャ。いまや存在感は薄くなり、というよりもお騒がせ的な存在に没落した。いまどきギリシャ語を勉強しようなんて誰も思わないだろうから、ギリシャ語が “ちんぷんかんぷん” は無理からぬことだが、あの国の政治はもっと“ちんぷんかんぷん”。第1党も第2党も政権を放り投げ第3党にお鉢がまわってきたがこれもギブアップ。どの政党も政治理念もなければ哲学も消え去ったか。ソクラテスもプラトンもアリストテレスも草葉の陰で嘆いていることよ。
ちなみに、“ちんぷんかんぶん”の主役は英語ではギリシャ語だが、フランス語ではヘブライ語、イタリア語ではアラビア語がギリシャ語に代わって主役をつとめるそうだ。
マル
キリ
散歩中に桐の花に出あった。桐は高木だからカメラを近づけて花をアップで撮ることは難しい。それに、ポケットサイズのデジカメではズームアップにも限界があり、遠目にしか見ることができなかった。
「キリ(桐)」は日本古来の木で、源氏物語には桐壷、桐壷更衣など桐に因んだ名前の人物が登場する。もともと高貴な木とされ、嵯峨天皇のころから皇族の御紋として使われるようになったとか。
それでは、坪内稔典さんの『季語集』から「桐の花」を引用してみよう。

五月を「桐の花とカステラの時季」と呼んだのは北原白秋。桐の花の薄紫色とカステラの黄色の調和が、晩春と初夏の交差する気配をしみじみと感じさせるというのだ。「カステラの黄なるやはらみ新らしき味わいもよし春の暮れゆく」(歌集『桐の花』大正二年)。
私も桐の花が大好きである。ことに家並みのかなたの空で薄紫に霞んでいる桐の花。桐の花は遠方から眺めるべき花であろう。
昔は女の子が生まれると桐の木を植える習慣があった。その子が嫁ぐとき、成長の早い桐は嫁入り道具の箪笥などになった。桐の箪笥は今では高級家具、私などには高嶺の花だが、そんな箪笥を木を育てて作ったかつての時代の方が、ほんとうの意味で豊かでぜいいたくだったのではないか。そんな気がする。
愛はなお青くて痛くて桐の花 坪内稔典 (『百年の家』1993)
桐の花咲くたび母の遠くなる 片山由美子 (『風待月』2004)
マルのふるさとの町には箪笥屋が軒を連ねる一画があり、そこには同級生が何人かいて箪笥つくりの作業場で遊んだことがあった。また、母が亡くなったとき、長兄が母の箪笥を形見に引き取り、職人に磨いてもらったら新品のように蘇ったことを思い出す。
マル
ハンカチノキ

新緑の枝葉の間からハンカチがゆらゆら揺れている。上掲の画像は近くにある大学のキャンパスで撮ったものだが、これは「ハンカチノキ」。中国南部に自生するミズキ科と落葉樹で、ハンカチのように見えるのは花ではなくて葉が変化したもので、ハンカチの中に隠れるように見えるのが花。そういう点ではハナミズキ(花水木)と共通する。
ところで、ハンカチ(Handkerchief)っていつごろからあるのだろうか。ウイキペディアによると、すでに紀元前3000年のエジプト文明で存在しており、高貴な人が使っていたらしいことがわかっているそうだ。
英語の Handkerchif は「Kertief」に「Hand」がくっついてできたことば。「Kerchief」は古フランス語の「Couvre、Cover(覆う)」と「Chef(頭)」の合成語で、Kerchiefは女性が髪に被る布のことだったが、15世紀頃のフランスの船乗りたちが日除けに使っていたらしく、いつしか手を拭くのに転用されるようになった。
ヴェルサイユ宮殿にはトイレは王族の分しかなかったから、パラソルのようなスカートをつけた貴婦人たちは広大な庭園の片隅で用を足したあと、洗った手を拭くのに使ったのかも(これはあくまでマルの想像)。
ただ、ハンカチの形状を正方形に統一したのはフランス国王ルイ16世の王妃マリー・アントワネットだったようだ。

江戸時代にはハンカチなんて日本にはなかった。明治維新になって西洋文化がどっと流れ込んできたとき、鹿鳴館のパーティーであちらの貴婦人たちが身につけているのを知って、大和なでしこも使うようになったのではないか。そしてハンカチが平民にも浸透してくると、神社参拝のお浄めの水を拭き取ったり、トイレのあと使うようになったのだろう。
だから「ハンカチ=手を拭く布」と諸兄は信じて疑わないだろうが、アメリカ人は手を拭くのにハンカチを使わない。なぜなら、あちらのトイレには必ずペーパータオルが置いてあるから。では彼ら彼女らはハンカチを何に使うか。鼻をクチン!とかんだときに使うだけ。ちなみに、中国人は指で鼻を押さえてブシュ!と吹き飛ばすのがマナー、なんていったら胡錦濤さんに叱られるかな。
マル
(追記)
ハンカチで鼻をかむのはアメリカ人だけではないことを発見!
イギリスでも同じらしい。こちら ⇒ 「ハンカチで鼻をかみます」 (マル)
ぬまごろうさんの記事「ゆりかごから墓場まで」に“ゴミの最終処理場と墓地の先行きが不安”とコメントしたら、Zさんから“ゴミもお墓も心配ないが生身の人間のエゴの方がよほど恐ろしい。1052年に末法に入いている”と、じつに冷静的確なご意見をいただいた。

600所帯が住むわが町で最近こんなことがあった。
わが町では町会が年2回、庭木のいっせい消毒を希望者に斡旋しておりほぼ半数の世帯から申込みがあるが、これがけっこう町会の担当窓口には大変な仕事。申込書の配布、希望者からの集金、植木屋への連絡。それだけならたいした仕事ではないが、雨が降れば延期の手配と申込者へ通知、実施日には事前に町内をまわって注意を喚起する。なぜかというと、周囲の住民から、知らなかったから洗濯物に消毒液がかかった、軒先につるしていた鳥かごの小鳥がおかしくなった、庭池の金魚が死んだ・・・、と町会に怒鳴り込んでくる。それだけではない。消毒したのにアブラムシがまだ生きているのは業者が作業を手抜しているのではないか、消毒液を水増ししているのではなか、などと申込者がクレームしてくるからだ。
マルが住むK市から今年初め、「住宅地における農薬使用は人の健康、とくに子供や妊婦、喘息患者、化学物質過敏症の人などかから健康被害の訴えが市に多く寄せられているので、その適正利用の徹底が望まれる」との書状が町会に届いた。町会としても自粛しようということで、この機会に長年つづけてきたいっせい消毒を止めることの是非を定時総会で諮ったのだが、圧倒的多数が従来どおり実施することを選択した。

わが家はもう何年も前から最小限の消毒を自家でしているし、植木屋には自分で交渉している。そんなことは自分でやればいいことであって、町会の斡旋は過剰サービスだと思っているから町会の提案には大賛成。希望者にはそれぞれの事情があるのだろうが、中には町会担当役の苦労、他人の健康よりも自己都合優先の住民もいるようだ。
マル









