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『いそべ会』―学生時代仲間のうちうちのブログ―

はばにする

2012年05月31日 | ぬまごろうのページ

                      所払による社会からの離脱は死を意味した

 小学生の高学年の頃に「はばにする」という言葉を使った記憶がある。要するに“仲間外れ”にするという隠語であると思っていたが、念のために、ウィキペディアをクリックしてみたら、「はぶにする」というれっきとした言葉であった。「はぶにする」の語源は「村八分」の“八分”がそうであるとのこと。“はば”は“はぶ”の名古屋圏での使用語。つまり、名古屋弁である。
 団体生活を維持するためには規律があった。規律破りの子供に対して「はばにする」と脅しもした。“はばにされる”ことを恐れて規律を守った。子供心にも、連帯と共同それに共済を意識していた。共同体から“仲間はずれ”、除外されることは、子供としての生活の死活問題であった。“はば”は規律破りに対する刑罰であった。 
 ここで、話を江戸時代に遡ると、人々は“宗門人別改帳”、今で言う“戸籍”に登録されていた。ご承知の通り、江戸時代は何事につけても“連帯責任”の時代であって、出来そこないの子供や不行跡な連帯仲間からの責任から逃れるために、“勘当”という制度を利用した。勘当された者は、人別改帳から除外された。犯罪の軽い者は、追放刑、簡単に言えば”江戸所払“とされた。この状態であれば、何とか縁戚からの援助を受けることも出来た。無宿人仲間で徒党を組み互助することも出来た。しかし、宗門人別改帳”という仲間から外れることの生活の苦しさは並大抵のものではなかった。
 そうだ、“叩き”という罰もあったが、極々の軽犯罪であった。
                
 ところで、所払の冴えたるものが”流人“であった。獄門、曝し首に至るほどの罪ではないが、重罪に該当する者は流人とされ、三宅島や八丈島に流された。流人は島で自活をしなければならなかった。余程強靭な体力の持ち主でなければ生き残ることは困難であった。
 考えてみれば、江戸時代の刑罰と言えば、仲間外れにすること、追放することが主体。一つには、この世から追放する。今一つは、江戸仲間からの追放、もう一つが、島流し。
  いずれにしても自活を求める。省エネ、低コストの方法であった。流石。徳川様といううべきか・・・。
 マー、いずれにしても、何時でも、何処でも、“仲間外れ”は恐ろしいことなのです。
 ぬまごろを“仲間外れ”にしないでくださいね。お願いだから・・・。

 ぬまごろう

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花いろいろ

2012年05月30日 | マルのページ

                       テイカカズラ
  
わが家のテイカカズラが、遅まきながら咲き始めた。
「テイカカズラ(定家葛)」はキョウチクトウ科の蔓性常緑低木で、プロペラのような5弁の花をつける。
後白河天皇の第3皇女にして歌人の式子内親王を愛した藤原定家は、死後も彼女を忘れられず、植物に生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説があり、それがこの植物の名の由来とか。テイカカズラの花には濃厚な香があるが、式子内親王の香りであろうか。
アキラさん、しおさいさんとマルの爺さんトリオがイタリア旅行をして間もなく1年になる。
フィレンツェからローマに向かう途中、トイレタイムを兼ねてオルヴィエートという小さな町に寄り、田舎町には不似合いな壮麗きわまる大聖堂(ドゥオーモ)を訪ねたが、大聖堂前の広場でテイカカズラを発見したときは、日本や朝鮮半島で自生するテイカカズラがなぜこんなところで咲いているのかと驚いた。
                
                  (画像をクリックすると拡大画像に)
ついでながら書くと、この大聖堂内の礼拝堂には、メディチ家のお抱え画家だったルカ・シニョレッリ(1450年頃〜1523年)が描いたフレスコ画、「選ばれし者の天国への召喚」と「罪されし者を地獄に追いやる天使」(画像左)が向かい合う壁に描かれていた。ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」(画像右)を描くにあたって参考にしたとされる絵で、画面を埋め尽くす老若男女一人ひとりが克明に描かれていて迫力満点、カトリック信者には下手な説法よりも効き目があったにちがいない。
藤原定家は極楽浄土で愛する式子内親王に再会できたのであろうか。それともこんなところまで追ってこないでよと袖にされたのであろうか。
                                                    マル

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不謹慎ですかね

2012年05月29日 | ぬまごろうのページ

                                         村祭りは性解放の日
   
 昔は村落が一つの共同体、一つの擬似家族であった。生まれた子供は、“うち”の村の子供、村落共同体の共通の子供であった。
 ところで、自然が、科学で解明されていな時代では、経験が物をいう。田植えは何日前に苗代を作る、何時籾を播く、虫除けをどうする等々に対する経験。農民だけではない、漁民でも、海の荒れに対する自然予兆の対応、季節ごとの漁場の在りか等々に対する経験。子供の病気、広くは成育に対する経験。・・・といった生活に直結する知恵・技術に対する経験が人間の生命の維持に関わって来る。それゆえ、村落共同体の中での老人、長老の存在感は大きかった。現代の老人の孤独死ナンテ考えられもしない。
     
             くらやみ祭り                  うなごうじ祭り
 それはそれとして、村落共同体のアイデンティティを図るものとして”村祭り“があった。
  ”村祭り“を中心にして村落共同体が家族化した。祖先崇拝がアニミズム・原始宗教と言われようが、祖先崇拝ひいては長老崇拝からの延長線上の全てを司るものとしての神の存在、”おらが神“が心の拠り所でもあった。
      
                                           イザナギとイザナミ
 さて、ここから本題。
  動物が子供を産む、植物が実をもたらす、とりわけ、人が子供を産むというようなことは、この時代、不可解そのもの、神の”業“以外の何ものでもなかった。”村祭り“の日に子供を授かることにでもなれば、まさに祝福された子供として喜ばれた。そこで、”村祭り“の宵闇に子供を授かるべく人々は競ったそうである。その名残が、ぬまごろうが住む府中の”大国魂神社“の”暗闇祭り“。このような夜祭りは全国津々浦々にあったようである。性に対する神秘性が薄れると共に淫らなものとして昼の祭りになったしまった。
 幼児の死亡率の高かった昔においては、苦しい時の神頼み、祭りの日に、神の前での行為で子供が授かれば、丈夫な子供が生まれるとの願望、信心からの所業。決して、決して淫らな行為ではなかったのです。どうだか・・・。

ぬまごろう

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花いろいろ

2012年05月28日 | マルのページ

                         ボダイジュ
  
          セイヨウボダイジュの花とブランデンブルク門通りの菩提樹並木(ネットより借用)
きのう散歩しながらNHKFMを聴いていたら、「きらクラ!」という音楽番組をやっていた。これまでずっと日曜日午後はオペラ番組だったので“アレレ?”という感じだったが、これは5月から始まった新番組(毎日曜日午後2時〜4時)で、きのうはその第4回目だった。
クラシック音楽番組ながらオペラとはちがった気楽なDJ番組で、パーソナリティは、ふかわりょう、遠藤真理のふたり。正直いって、ふたりとも初めて聞く名前だが、ふかわりょうは「慶應大経済学部出身のお笑いタレント・俳優・エッセイリスト」、遠藤真理は「2005年に東京芸大を首席で卒業したチェリスト」とウイキペディアに書いてあった。
DJのまにまに流れるクラシック音楽は肩の凝らない曲ばかりで心地よく、とてもお笑いタレントとは思えない知性派のふかわりょうとオーストリアで修行をつんだ女流チェリストの話がこれまた楽しい。なかなかいい番組でこれからが楽しみだ。
きのうの番組の終わりの方で遠藤真理が今週の1曲として選んだのは、シューマンの歌曲集「詩人の恋」の中のリートだった。フィッシャー・ディースカウが歌っていたが、綿にくるんだようなソフトな、温もりのあるバリトンはいつ聴いてもいい。
フィッシャー・ディースカウというと、マルにはオペラ歌手というよりもリートの名手との印象がつよい。とくに印象に残っているのがシューベルトの歌曲集「冬の旅」。テキサス州ダラスに独身で駐在していた40数年前、フッシャー・ディースカウが歌う「冬の旅」のレコードを買ってよく聴いた思い出がある。とくにこの歌曲集の第5番目にでてくる「菩提樹」は、Am Brunnen vor dem Tore, Da steht ein Lindenbaum・・・で始まるが、教養部時代にドイツ語を学び始めたころ、ドイツ語の歌詞をを一生懸命覚えたものだった。
    
菩提樹といえば、東欧3国を旅したとき訪れたベルリンのブランデンブルク門から街の中心部に通ずる道の両側に菩提樹並木があった。残念ながら、いまマルが住むこの辺りでは散歩していてもボダイジュに出会ったことがない。
フィッシャー・ディースカウが87歳の生涯を終えたのはつい先日の5月18日だった。合掌&アーメン。
                                                          マル

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サンデル先生

2012年05月28日 | ぬまごろうのページ

                           節句などの年中行事も連帯感を高めた

 陰陽道では、奇数を“陽”、偶数を“陰”とする。“陽”と“陽”が重なると“陰”となる。1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日がこれにあたる。1月1日だけは例外として、1月7日を当てている。したがってこれ等の日は“邪”の日であるから、“邪棄”をする必要がある。“邪棄”の行事は、“陰陽五行説”が始まった中国“夏“の時代から行われていた。となると、四千年の歴史ある行事である。また、この頃は、季の変わり目でもあるので、この日を”節句“とも称して、自然からの生命力を貰うために、の野菜を食したとも言われている。
 さて、ここで古代中国であるが、数字を重んじた。数字の絡みで陰陽をとらえ、”7”、“5”、“3”をことさら重んじた。特に“5”を尊重した。”木“、“火“、“土“、“金“、“水”を混沌から太極に至らしめたとして”五行”を全ての基本概念とした。“五感“、“五臓六腑“の”五臓“、等々人体構成からの発想のようである。”五節句“もしかり。
 ご承知のとおり、日本でも1月7日の“七草粥”から始まって、節句の行事が行われている。特に、日本では、稲作と結び付いて、村祭り同様、重要な年中行事として執り行われてきた。日本では、自然からの生命力と稲作とを結びつけることによって、稲作耕作との関連において節句を”節“に重点を置いて,重要な年中行事とした。しかも、これ等の作業は、村落共同で行われた。
         
      1月1日(太陽暦の2月10日頃)=農業準備を始める頃(苗代の整備等)
      3月3日=田植えの頃
      5月5日、7月7日=草取りの頃
      9月9日=穫り入れ準備のころ
 穫り入れが終われば、神に感謝し、最大の行事、村祭りが、村人=老いも若きも、男も女も、参加して行われる。村落共同体の連帯と共同、それに共済を認識する。
         
 話を変えるが、昨今、ハーバード大学の哲学の先生サンデル教授の“正義”の講義が書物にもなる等有名になっている。「自由主義者の過度の個人主義」、「国家に道徳を関与させるな」等による人心の荒廃を、”共通善“により修復を図る必要があるとのお話。このお話、平たく言えば、日本流の村落共同体の「連帯と共同と共済の認識」が必要と同じではないかと思われる。
 市場原理で動く政治を、道徳原理で動く政治に戻さなければいけない。行き過ぎを戻すのも人智であると思うのです。

ぬまごろう

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啓蒙

2012年05月27日 | マルのページ

西洋の近代は3つの出来事から始まった。それは、ルネサンス、宗教改革、啓蒙思想。
ルネサンスは14世紀から16世紀にイタリアを中心に広がった。15世紀後半から16世紀前半に活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロに代表される。また宗教改革は、ヴァチカンの堕落に端を発して、1517年にヴィッテンベルグ大学の扉に「95ヶ条の論題」を掲げたマルティン・ルターに始まったがスイスのツヴィングリやカルヴァンも立ち上がり、さらにはブリテン島にも及んだ。
                        
近代の始まりのもうひとつの出来事が啓蒙思想だった。キリスト教を中心とする神学から目覚め、理性による思考を求めて立ち上がったイギリスのフランシス・ベーコン(1561−1626)やジョン・ロック(1632−1704)に代表される啓蒙主義・哲学が後の産業革命に結びつく。
英語で「啓蒙」を 「enlightenment」 という。仏教でいう「悟り」も英語では enlightenment と訳されることがあるようだが、enlightenment は「光を射し入れること」を意味する。動詞形の enlighten「明るくする」は14世紀から用いられていたが、名詞形の enlightenment が使われるようになったのはやっと17世紀後半、ドイツを舞台にした30年戦争の終結をもたらしたウェストファリア条約(1848年)直後のこと。神への信仰をめぐってカトリックとプロテスタントがキリなく争い、大量の血を流すような濛々漠々とした状況に「光を射し入れて啓(ひら)く」というのが「啓蒙」の意味するところだそうだ。
一方、戦いを引き起こした熱狂を enthusiasm という。真ん中の thus はラテン語のDeus(デウス)と同じで「神」を表し、 enthusiasm は「神がとり入った状態」を示している。
「神がとり入った状態」に「光を射し入れて」頭を冷やす時代、冷静さを回復して知性を理性的に用いる時代、そういう時代がやってきて近代科学が発達し、現代へつながっていったと織田先生はおっしゃる。

織田哲司著『英語の語源探訪』を下地にして、24回にわたって投稿してきた英語の歴史の話を一応これで終わりにします。
                                                         マル

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ばら爺

2012年05月26日 | キタのページ

さんのバラを見て我が家のバラも掲載したくなりました。
小生もバラを育てることが好きで綺麗に咲くと満足しています。
さんのバラと異なり台風で名前を飛ばしてしまい名無しのゴンベイです。
花束をコピーしたのもありますが(ナイショですヨ)・・・
(黒星病の予防が大変です。さんはどのような薬を使ってますか?

  

  

  

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花いろいろ

2012年05月26日 | マルのページ

                      ジャガイモ
  
これは近くの畑で咲いていたジャガイモの花。薄紫色と白色の花があった。別の畑の主に聞いたら、「薄紫色はメイクイーンで、白色は男爵ではないかな」といっていた。
ジャガイモの花はナスの花とそっくり。ワルナスビの花ともそっくりだが、この3つ、いずれもナス科ナス属の植物だから合点がいく。ジャガイモはアンデス山脈の高地を原産地とし、大航海時代にスペインにもたらされ、瞬く間にヨーロッパに広がった。当時のヨーロッパは戦争に明け暮れ、人口は減り農地は荒れ放題。ジャガイモは痩せ地に放っておいても育つ高栄養価の食糧源。いまでもヨーロッパを旅するとどこでもジャガイモ料理ばかりでうんざりする。
日本には江戸時代黎明期に、オランダ船がジャカルタからもたらした。ジャガトラ(ジャカルタ)の芋だから「ジャガイモ」。馬鈴薯ともいうが、こちらは中国伝来の呼び名とされる。俳句の世界では「馬鈴薯の花」は夏の季語だそうだ。坪内稔典さんの『季語集』(岩波新書)には次のようなエッセイがある。

 馬鈴薯の花の季節になった。その花を石川啄木は次のように詠んだ。「馬鈴薯のうす紫の花に降る/雨を思へり/都の雨に」(歌集『一握の砂』)。東京の雨を見ていて、かつてよく見た北海道あたりの馬鈴薯の花を思い浮かべたのである。啄木はまた、「馬鈴薯の花咲く頃と/なれりけり/君もこの花を好きたまふらむ」とも歌っている。「君」は北海道で出会った女性か。
 北原白秋の歌集『桐の花』にも次のような歌がある。「馬鈴薯の花咲き穂麦あからみぬあいびきのごと岡をのぼれば」。白秋や啄木の歌から推すと、馬鈴薯の花はどことなく恋情に通じているらしい。
 「じゃがいもの花のさかりのゆふまぐれ」は日野草城の俳句。夕べのうす闇に浮かぶ馬鈴薯の花に草城もまた恋情を感じたか。
      じゃがいもの花咲く城下町に来し  稲田眸子 (『絆』 2000)
      馬鈴薯に花咲く青い空が好き    瀧春樹 (『花嵐』 2002)

ジャガイモの花に恋心を抱けるのは戦前派であって、戦後の食糧難時代によく食わされたマルは、へえ、そんなもんかなあ、と思ってしまう。
                                                       マル

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教育

2012年05月25日 | ぬまごろうのページ

                                   日本の教育制度は奈良時代から

 今は昔、奈良の“近鉄あやめ池”に住まいしていた頃、京都方面と橿原神宮に向かう路線との分岐点“西大寺”を過ぎ、平城京の次が近鉄奈良駅であった。そのこともあってか、ぬまごろうなる男ノ子は、春日大社、興福寺をよく訪ねた。とりわけ、東大寺へまわり、春日山を借景とした名園“依水園”でしばし休息するのが、楽しみの一つでもあった。東大寺を拝し、正倉院に巡る途時に、東京大学、京都大学への入学数を誇る“東大寺学園“なる学校があることを知ったのでした。奈良六宗の一つ華厳宗の東大寺が設立運営する学園であったのでした。
   
                        依水園(入口と園内)
   
             興福寺遠景                      東大寺遠景

  この宗派に限らず、宗教法人のほとんどは、私学を設立・運営している。愛知県でも浄土宗の東海高校、キリスト教の南山大学が有名であった。ぬまごろうにとっては共に高嶺の花であったが・・・。
 東大寺の“東大寺学園”が何時頃設立されたものかを知るつもりはないが、日本には奈良時代前から学校制度を法制度の一つとして持っていた。梅干先生によれば、「これはローマ、中国に次ぐ早さであったとのこと。701年の大宝律令の中に“学令“という学校制度を決めた教育法令があった」そうである。さらに先生は続ける「興味深いのは、私学の制度である。私立学校を既に平安時代にもっていたことである」と。藤原冬嗣が創設した藤原一門のための”勧学院“、空海が開設した”綜芸種智院“が有名。
 大宝律令の中の“学令“に出てくる学校には、“大学”と“国学”があった。大学は中央にあった最高教育機関であって、中央と地方の官吏の子弟を集め、官吏を養成した。“国学”は、地方の官吏の子弟や、一般庶民の優秀な者を集めて地方の官吏を養成した。
 これ等の学校では、法律を主体に、文学、漢文、漢詩等を教えたそうである。
 ところで、今日、外国語の学校を出ても、外国語で文章を書いたり、喋ったりするのは大変であるのに、“令“に基づく“大学“、“国学、”それに“私学”を卒業した者達は、漢語を書き、喋ることが出来た。おまけに、中には、中国人が驚くほどの漢詩を書くものもいた。空海、阿倍仲麻呂は特に有名である。このことは、いかに優れた教育を行っていたかの証左ともなると思えるのです。

ぬまごろう

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1億8千万人

2012年05月24日 | ぬまごろうのページ

                             人口の2倍近い宗教人口

 梅干先生は「日本の人口は1億8千万人である」とおっしゃる。もっとも、宗教人口のことであるが・・・。
 その論の根拠は、1億2千万人のうち、半分の6千万人が「無宗教」と答えるとして、後の6千万人は、ある時は“神道”、また、別の時は”仏教”を宗教とする多層性というか二重人格・・・ということになる。
 お宮の前を通ると手を添え、拝礼をする。同じ人間が、お寺の前、仏像に頭を深々と下げる。神前で結婚の式を挙げ、仏式で葬をする。神道でお祭りをする。お盆には祖先を迎える。正月には神社に初詣をした後、すぐその足で菩提寺に向かう。家の中に神棚と仏壇とを同居させる。このようなことは、一神教信仰であるキリスト教国等では考えられないことである。常識的には、宗教人口は絶対人口を少し下回るのが普通である。
  
            明治神宮                      成田山新勝寺
 他の仏教宗派に対して排他的、敵対的な”日蓮宗“でさえ、”八幡“や”天照皇大神“を曼荼羅に描いている。新帰来の仏教すら、境内に神を祀っている。神仏混合・・・神を仏とする器用さは見上げたものである。
  ところで、日本人の精神構造は、古代、中世、江戸時代、そして現代と、少しも変っていないと言われている。列島の人々は外界の動きに敏感であった。発信機能は放擲して、受信機能を発達させた。その上、自己忘却にも優れていたとも言える。仏教が帰来すれば、神道を忘却する。儒教が入来すれば、神道も仏教も忘却する。自己忘却と言ってもこの段階までは、表面的な忘却であって、内部では生きていた。重層的になって生きていた。
 しかし、明治の西洋文明の受け入れと第二次世界大戦の敗戦後の米国文化の受け入れは、江戸時代までとはイササカ様相が異なる。新来文化と旧来文化は重層的ではない。
 バラバラである。自己中的・ご都合主義的な受け入れ、いい加減としか言えない。この傾向は、インテリあるいは指導者と言われる人間に顕著に見受けられる。宗教感のかけらも見えない例が多い。多神教的なところに一神教的文明が入り、混乱をきたしているのが現代と言えるかも知れない。宗教人口が絶対人口を大幅に下回ったのかな・・・。           

                                                        ぬまごろう

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花いろいろ

2012年05月23日 | マルのページ

                            バラ
          
                            マイコ
バラ(薔薇)がわが家の庭でもいま真っ盛り(画像)。
バラが人類の歴史に登場するのは古代バビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』とされるが、なぜバラには棘があるか。ギリシャ神話にはつぎのような話がある。
エロス(クピド・キューピッド)が開き始めたバラにキスしたところ、花の中で蜜をすっていた蜂がねたんでエロスの唇を刺した。それを見たエロスの母アプロディテ(ウェヌス・ヴィーナス)は激怒し、蜂をことごとく捕えて息子エロスの弓の弦に数珠つなぎにした。しかし、アプロディテはそれでも怒りがおさまらない。蜂もわるいが蜂を花の中に隠していたバラも許せない!と、蜂の針をつぎつぎと抜き取ってバラの茎にさし込んだ。それ以来、バラは美しい姿に似合わずたくさんの棘をもつようになったのだそうだ。
      
              マダム・ヴィオレ                                    マチルダ                    
      
             ブラスバンド                                          フレンチレース                   
    
          ピエル・ドゥ・ロンサール                  アイスバーグ
香水の材料となるように、バラは芳香を発する。プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラはバラを愛し、バラの花をいっぱい浮かばせたフロを楽しみ、ユリウス・カエサルを歓待したときもふんだんにバラの花や香油を使用したと伝えられている。バラはクレオパトラも愛し、ナポレオン・ボナパルトの夫人ジョセフィーヌも愛した。西洋では花の女王であることは間違いない。
                                                          マル

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また、富山の薬売り

2012年05月22日 | ぬまごろうのページ

                               薬売りはよろず相談屋だった

 飛行場、新幹線、高速道路網等交通網が整備されて人々の移動か活発になりました。テレビ、パソコン等の情報網が張り巡らされて、情報を求めなくても、情報の方が飛び込んでくる時代ともなりました。何時もそうであったかのような錯覚に陥いりますが、このような時代は50年も60年も昔このことではありません。我々の学生の頃だって、東京に出るのに8時間くらいを要していました。情報と言えば、新聞とラジオから得るのみでした。 失礼、インテリーの諸兄は、“世界”とか”中央公論“で得られていたことでしょうが・・・。
 それはさておき、封建時代の農民ともなると、土地に縛られ、土地を離れることは容易ではありませんでした。農民以外でも、生まれた土地の十里四方の移動や情報の入手がやっとでした。これにも増して、この列島の民は、発信機能は別として、受信機能だけは異常に発達していた。世の中や他所の動向が気になってしょうがなかった。いわば、情報に飢えに、飢えていました。他所からの移入者があれば、その者の周りに集りました。
           
 話を変えますが、今日のような医療体制が整備されだしたのも、そんな古いことではありません。大概の家庭には、“富山の薬”のような売薬が配置されていました。チョットした熱とか、腹いたナンカは配置薬で済ませたものでした。年に二回か三回か、薬売りが薬の交換と集金に定期的に来たものでした。流石、我々の学生時代には、薬の配置業者から情報を教えてもらうということはありませんでしたが、それ以前ともなると、薬売りが情報屋として大歓迎されていたようでもありました。
それだけでなく、命に関わる商品を扱うだけあって、薬屋さん、相当のインテリーでもあったらしい。医学にも知識があり、病の相談にのったようでもある。その一方、信用を第一として品行方正でもあったとか、間違いでも犯すならば、直ちに組合から追放の憂き目にもある。銃後のおかみさんも安心。薬屋さん、何やカンヤで信用力は抜群。各家庭に入るから、何処に適齢期の息子さん、娘さんがいるかもわかっておられる。そんなことから、縁結びの神さんにもなったとか。ソウソウ、今でも薬学部は医学部同様6年だそうだ。
 平成の御代の訪問販売者とは全く違う存在でもあったということでしょうか。

ぬまごろう

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金環日食

2012年05月22日 | マルのページ

きのうは金環日食で沸いた。
近くに住む娘一家も遮光メガネを早々と買い込んでこの日に備え、ことし小学生になったばかりの孫はこの日を心待ちにしていた。同じ市内の小学校でも対応はまちまちだったようで、孫の小学校では家庭で日食を見てから登校することになっていたが、都内に仕事をもっている娘は孫に付き合っているわけにいかないから、マルが孫のお付き合いをすることになった。
天気予報は「くもり」。またとない機会だから何とか金環日食を見せてやりたいが、孫たちの住むマンションへの道すがら空を仰ぐと薄い雲を通して太陽が覗いている。これなら何とか金環日食が見られるのではないかと期待を膨らませて足をはやめたところ、マンションに隣接する公園では子どもたちが集まりはしゃいでいる。
           
                             間もなく金環だ!(例のポケットデジカメで撮影)
              
               小学1年生の長男      1歳半の次男までも
太陽が欠け始め7時20分頃には太陽が金の輪をつくった。孫が興奮していたのは言うまでもない。
皆既日食や金環日食の画像は本やインターネットで見ることはできるが、自分の目で確かめるのとではおお違い。だから子どもたちが興奮するのも当然。マルも子どものころ、ススで黒くしたガラスを空にかざした経験があり、いまでも頭の片隅に焼き付いている。が、それがいつ頃のことだったか思い出せない。
そこでインターネットで過去の日食を調べたところ、マルの子どものころに限定すれば、金環日食や皆既日食は1948年(礼文島)、1955年(与那国島)、1958年(八丈島)の3回しかない。そうだとすると、愛知県では皆既日食や金環日食は見るチャンスがなかったことになるが、確かにその瞬間あたりが暗くなったことを覚えている。マルの記憶違いだろうか、それとも認知症の兆候か。諸兄は記憶がおありかな。
                                                                                                      マル

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サイフォンの原理で

2012年05月21日 | ぬまごろうのページ

                   本当かいな井の頭公園の水は江戸城内に達していた
      
 “年寄りの冷や水”ということわざがある。梅干先生によれば、夏になると「冷や水やぁ、冷や水やぁ」と水売りが、桶の水まわりに杉の葉を立て、小さな氷を浮かべて売りにくる。この水は,川の真中の水はきれいと言われている隅田川のもの。きれいと言われても隅田川の水、若者ならまだしも、抵抗力の軟い年寄は、大腸菌でやられてしまう。・・・これが、このことわざの語源だそうである。
 調布にある神代植物公園から深大寺に抜ける道筋、それに水生植物園、深大寺城址公園一体は、武蔵野台地の面影を色濃く残しているが、東京で一番武蔵野台地の自然を残しているのが皇居の吹上御苑。吹上御苑と言えば、園遊会とかでその名が出てくる。
 さて、ここからが、“吹上御苑”名の由来についての梅干先生のお話。“吹上御苑”は江戸時代には吹上曲輪という庭園であった。“吹上”とは、文字どおり水が吹き上げるように涌いていたから。江戸城は海に近いから、地下水が涌いていたのではなく、水道の水を引いたものであった。その水源は神田上水。
   
           皇居二の丸公園                    井の頭公園
 秀吉から配置換えを余儀なくされた家康公。サーテ、何処を本拠地にするかで迷ったが、先々の発展に対する後背地の地勢と防衛上の観点から、その昔の道灌の居城跡に江戸城を築く事とした。この地が今日に至るまでの日本国の首都。素晴らしき先見の明と言わざるを得ない。しかし、江戸は地下水には恵まれていなかった。江戸の欠点が水にあること予測した家康公は、江戸入部前に、老臣大久保忠行に水源を探させた。飲料水を確保できるか否かが、江戸都市計画の成否のカギを握る。忠行公。必死の思いで探しに探し、今の吉祥寺に水がコンコンと涌き出でる水源を発見した。忠行公。家康公の許しを得て井戸の頭“井の頭”と名付けた。ここの湧水が神田川・神田上水となり、サイフォンの原理で城中吹上の庭に吹き上げていた。
 ちなみに、サイフォンの原理は、飛鳥時代にすでに使われていたとのことである。

ぬまごろう

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断水騒ぎ

2012年05月20日 | マルのページ

きのう、マルが住む千葉県北西部で断水騒ぎがあった。ゴルフを終えて午後8時前に家に戻るやいなや、女房が「えらいことになったわ」というから何事かと思ったら昼ごろから断水しているのだという。日頃は忘れがちだが、今回の断水騒ぎによって水のありがたさ、水の貴さを再認識させられた。
     
     千葉浄水場(左上の川は江戸川)と給水風景(いずれもネットより借用)
文明の進化で生活はどんどん豊かになるが、その一方で何か事あれば不便になるという脆弱性は否定できない。水といえば飲料水もさることながら生活用水、とくにトイレの水が問題。われわれが子どもの頃は水洗トイレなんてなかったが、いまは日本中どこでも水洗トイレ。さらにウォシュレットなんかも家庭に普及し,トイレで使用する水の量もバカにならない。
しかもその水も水道水だから、水道が止まってしまったらトイレも使用できない。少なくとも使用後も流せずそのままにしておかなければならないのだ。昔のように排泄物がストーンと下の溜め壺に落ちて見えない状態ならまだしも、水洗トイレではおのれの排泄物がこれ見よがしに便器に“たまった”まま。そのような排泄物が視線に飛び込んでくるのは“たまった”ものではない。
幸いにして、断水状態は夜11時ごろには解除されたが、今回の断水で思い至ったのは、テロリストが浄水場に劇薬物を投入したらどうなるかということ。航空機をハイジャックしてツインビルに突入するのもテロ行為だが、水を使えなくするというテロ行為だって考えられないことではない。実際には、浄水場では常時水質検査に怠りなく、劇薬物が検出されれば今回のように直ちに断水されるだろうから大量殺人に結びつくことはないだろうが、大混乱が起こることは避けられない。そんなことを想像するだにゾッとする。
                                                          マル

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