答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

モテ期

2016年01月30日 | ちょっと考えたこと

昨夜から孫が来ている。

といってもちょくちょく来ているので珍しくもなんともないのだが、きのうは新たな発見があり、ニンマリしている爺なのだ。

そのきっかけは娘のひと言。

「最近この子ねえ、ユンボとかダンプとかに、すごい興味があるがよ」


「キタ!」


待っていたそのときが

「キタ!!!!」

 ほくそ笑むわたし。 


おもむろに現場用のコンデジを取り出し、おさな子に画像を見せる。




いきなりこんな特殊な機械を見せられた彼奴は大興奮。わたしの膝から離れなくなってしまった。

(じ~ん)

そういえば、と思い出す。

我が家の末っ子兼長男は、それはそれは「はたらく機械」の好きな子で、ようやくしゃべり始めたような時期に、通りがかりでバックホウを見つけては、「キャタピラ」「コマツ」「コベルコ」・・・とメーカー名を諳んじて、天才だの神童だのと身内一同で大喜びしていたことをだ。

長じて23歳になった彼は、そんな過去があったことさえも知らぬようで、「どぼく」とは何の関係もないアパレルの人となってしまった。

デジカメのディスプレイに釘づけになり、眼をらんらんと輝かせている孫をながめながら、そんな昔を思い出し、「さて、この子はどうなるんだろう」と思いつつ酒を呑み、そして自慢する。





「じいちゃんはな、ユンボ乗れるんだぞ!」

 

58歳土木屋、モテ期到来なのである。

 

 

腰は痛いが未来のためなら by遠野かっぱ工事隊 

 

 

 

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というわけで、教えるときに必要なものは「おせっかい」と「忍耐力」なのです。(内田樹)

2016年01月29日 | 読む・聴く・観る

 

困難な成熟
クリエーター情報なし
夜間飛行

 

 

人にものを教えるための適性とは何か。(P.303)

 

「おせっかい」と「忍耐力」です。(P.304)

 

 勘違いしている人が多いので、確認しておきますけれど、教育の受益者は「本人」ではありません。

 共同体そのものです。

 だから、「おせっかい」な人が出てくるのです。あれは道楽でやっているわけじゃありません。「共同体を生き延びさせるため」に必死でやっているわけです。自分のところの共同体が生き延びてくれないとさきざき「自分自身も困る」ことがわかっているからしかたなく「おせっかい」をしているのです。(P.315)

 

 教える人間に必要なのは「待つ力」です。

 待つといっても半端じゃない長さです。5年や10年待ってもさっぱり教えた甲斐がないということもあります。しばしばあります。

 そういう場合「教える仕事」はもうひとりでは担えません。(P.318)

 

 自分が目の黒いうちに結果を出そうと焦ってはいけない。

 自分ひとりで何とかしようとしてはいけない。

 自分の採用した教育方法ではぜんぜん効果がなかったけれど、他の人がやったらめざましい成果が上がった、ということもあります。(P.319)

 

 というわけで、教えるときに必要なものは「おせっかい」と「忍耐力」なのです。この二つの気質は、よく考えると相反するものです。(P.320)

 

 この二つの傾向のうちに「引き裂かれてある」こと。

 それが「教える」という仕事が人間に求めることです。

 これを受け容れることのできる人が「教える資格」のある人です。

 それ以外には「教える」ためのノウハウも、秘訣も存在しません。(P.321)



うんうん、そうだそうだと、涙がチョチョ切れんばかりにうなずいてしまうわたし。

とはいいつつも、適性として持ち合わせていることが必要か否かという意味からいけば、「おせっかい」については必要不可欠だろうが、「忍耐力」が適性としてあるかどうかについては、必ずしもそうとばかりも言えないのではないか、という気がする。

「教える」という行為を繰り返していくそのなかで、これはよっぽど長いスパンで考えなければならんぞ、と気づき、そのなかでは自分の存在なぞ部分的にしか過ぎない場合も多々あるのだと承知し、そのうえでなお「おせっかい」をしようとする。そうやって「教える」という営為をつづけていくうちに「忍耐力」を身につけていく。それでもよいのではないだろうか、という気がするのだ。


いずれにしても、

というわけで、教えるときに必要なものは「おせっかい」と「忍耐力」なのです。

という説に深く深く同意することに違いはない。

そんなわたし、生来「おせっかい」であることは自覚しているが「忍耐力」には疑問符をつけざるを得ない。だが、「忍耐力」はイマイチでも「相反する二つの気質」が必要だということはいつも感じている。

であれば、とりあえず「資格」だけはあるかな。

いや、「ある」。

ということにしておこう。

 

 

 

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アラ探し

2016年01月28日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

わたし、社内検査員である。

何をするかって?

ひと言、かつ身もフタもなくその仕事を言い表すと、アラ探しだ。

 

先日、とある会合で(仕事の、ではないですよ)、アラ探しや揚げ足取りに終止する方々とご一緒させてもらった(方々、というぐらいだから、もちろん複数ですネ)。

ご本人たちは、自分たちがやっていることがアラ探しだとか揚げ足取りだとかは、(たぶん)露ほども思ってないだろう。だが、わたしから見れば、アラ探し、あるいは揚げ足取り以外のナニモノでもないその言動を見聞きしていると、久びさにわたしのなかの癇癪の虫がもぞもぞと起きてきて、まあまあどうどうとなだめるのに苦労した。

(端から見たら、どこからどう見ても苦虫噛み潰した不機嫌なオッサンだったでしょうがネ)

で、なだめつつ我と我が身を振り返ってみた。

オマエもやってないか?

アラ探しのためのアラ探しをやってないか?

それが自ら引き受けた責任のひとつであればアラ探しから逃げるわけにはいかないが(けっこう性分に合ってたりして ^^;)どうせアラ探しをやるのなら、建設的なアラ探しをしよう、生産的なアラ探しをしよう。「人のふり見て我がふり直せ」だ。そんなふうに考えながら、くだんの人たちのアラ探しを聞いていた。

そういえば・・・・

今週末、社内検査がひとつ控えている。

誠心誠意懇切丁寧、建設的かつ生産的、重箱の隅をほじくられた人間にヤル気と元気を与えられるようなアラ探しをしよう。

そんなふうに思っているのだ。



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裏の顔

2016年01月27日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

おもしろい話を耳にした。

「あいつ、裏で色んな手を使うちゅうみたいやぞ」という話をである。

「あいつ」とは、他ならぬわたし。当人たちはいざ知らず、傍目から見れば「めざましい成果」をあげつづけるわたしたちの、その大きな要因のひとつが、「あいつ」が裏でゴソゴソとやっていること、だという噂がまことしやかに伝えられているらしいのだ。

おもしろい。じつにおもしろい。

あまりにおもしろすぎて、その日はバカのひとつ覚えのように、

「裏の顔、見せまひょか」とか

「裏で色いろやってまんねん」とか

「◯十万円ほどで、裏の手、教えまっせ」とか

何かにつけては「裏シリーズ」でふざけ倒してしまった。

 

「裏の顔」

「裏の手」

どなたか知っている方がいれば、ぜひ、ご教示願いたい。

 

 

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続・「震災復旧談合」のニュースから考えた(読者さんからの便り)

2016年01月26日 | 土木の仕事

1月23日の稿、『「震災復旧談合」のニュースから考えた』に対して、読者さんからメッセージをいただいた。

東日本大震災の被災地で、あのときも、あれからも、そして今このときも、身体を張ってがんばっている業者さんからだ。許可を得て便り(抜粋)を掲載させていただく。 

 

私の心の中を、想いを晒してくれたようなブログでした。

それは、私も文中にある「ヤセガエル マケルナイッサ コレニアリ」の一匹だから。

(中略) 

今行っている道路の新設工事は、あの時、海岸沿いの道路が壊れ、避難出来なかった方々が利用する為の道路です。

道路をつなぐ事で『人を繋ぎ、暮らしを繋ぎ、物流を繋ぎ、命を繋ぎ』そして私の想いを繋いでくれる・・・

今、全国で必死に除雪している人だって、対価は頂けるが、それ以上に『地域の方々の生活に支障がないように』っていう思いが頑張りにつながっている。

踏ん張れ建設業!!

だからやっぱり『一人ひとりが自分の持ち場で、笑顔でたたかえ、えぶりばでぃ!』なのです。

 

そのメッセージには、復興工事の今をとりまく厳しく悲しい現実、などなども記されていた。生々しいその事実を、ぜひとも皆さんに紹介したい。だが、いかに厚顔なわたしでも、ここでそれを晒すわけにはいかないし、当事者ではないわたしが生半な言葉でそれを評することはできない。それほどに復興の現状は厳しいようだ。

どんなふうに返信をすればよいのだろうか?

しばし考えて浮かんだ言葉は「がんばってください」。

いかにも月並みで使い古された言葉だ。「それ(しか言えんの)かよ」、とも思う。そして、「がんばって」いる人に「がんばって」と言ってはいけないのが今の世の中なんだそうだ。だが、あえてわたしは、せめてものお礼と激励を込めてその言葉を贈ることにした。

ありがとうございました。

そして、がんばってください。



追記。

そのあと、いくつかのやり取りがあった。そのなかの一節を、これまた許可を得て紹介する。

 

もちろん、頑張ります!

だって未来を創る役割って誰でも出来るわけではありませんから。

(中略)

犠牲になられた方々が津波に飲みこまれる瞬間、たぶん「家族」を想ったと思うんです。だから私は未来を創ります。

自分の子ども達だけではなく、その方々の家族の環境が少しでも良いものであるように・・・

 

「土木」という仕事の主たる役割は、「普通の暮らしを下支えするもの」だとわたしは思っている。

今日、読者さんからの便りで、「普通の暮らしを下支えする」というそのことは、今ある現実を支えるだけではなく「未来を創る」ことでもあるのだと、あらためて教えられた。

ありがとう。

そして・・・・

たまらなく、彼と一献やりたくなってしまったアタシ。


 

 

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想定し、ちょっと待てよと、保留する

2016年01月25日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

朝、特に月曜の朝には、アッチはああでコッチはこうでとか、アレやってコレやってとか、なにがしらの「つもり」を持って家を出る。心の準備、と言い換えてもいい。一見、いいことのように思える。もちろん、やるべきことだと思うからそうしている。

だが、ときとしてこれがマイナスになることがある。現場の状態が想定したものと違っていたり、担当者の対応が想定どおりではなかったりしたとき、それはやって来る。

 

「ん?ハナシが違うやんか (--)」

「ん?ソレ聞いてないよワシ (・へ・)」

「ちゃうやろ、そのやり方 (*_*)」

などなど。

 

だが、ごくごく当たり前のことながら、プロジェクトに変更はつきものだ。変わらないプロジェクトはない、といってもいい。それへの対応は千差万別、正解も幾通りかある。数あるおのれの引き出しのなかの答えと他人の引き出しから出てきた答えを総合し、そのなかから取捨選択をして、問題を解き、その場そのときの正解を生み出すのがプロジェクトマネジメント、すなわちわたし(たち)の仕事である(だからこそオモシロイんですね、これが)。

少し冷静になって考えれば当たり前のそのことを、ときとして妨げるのが「想定」だ。「思い込み」と言い換えてもいい。「想定」をするのは悪いことではない。むしろ必要なことだとわたしは思っている。だが、その「想定」が「思い込み」にまでなってしまうと、ことは少し変わってくる。もっとたちが悪いのは「思い込み」の悪い方への進化形、「よかれの思い込み」だ。そして彼我の関係が上下の場合、すなわち上司と部下の場合、上司の「思い込み」は、得てして「よかれの思い込み」へと「進化」(退化だね、実際は)してしまう。

嗚呼。

と、ここでジレンマが生じてしまう。

「想定」は必要だ。しかし「思い込み」は不要だ。「よかれの思い込み」はもっと要らない。ではどうすれば良いのか。

答えは「想定を保留する」である。

デヴィッド・ボームの『ダイアローグ』(金井真弓訳、英治出版)から引用してみる。

 

想定は必ず発生する。自分を怒らせるような想定を誰かから聞いた場合、あなたの自然な反応は、腹を立てるか興奮するか、またはもっと違った反撃をすることだろう。しかし、そうした行動を保留状態にすると考えてみよう。あなたは自分でも知らなかった想定に気づくかもしれない。逆に想定を示されたからこそ、自分にそうしたものがあったとわかったのだ。他にも想定があれば、明らかにしてもかまわない。だが、どれも保留しておいてじっくりと観察し、どんな意味があるかを考えよう。(『ダイアローグ』、デヴィッド・ボーム、P.69~70)


ふむふむ、なるほどね。

なんてカッコつけてはみたが、じつを言うと、この「想定を保留する」に関しては、ボームさんを引いて何度かここで書いたことがある。だが、言うは易く行うは難しだ。わたしにとってその実践は、そんなに簡単なことではない。何よりスピードが優先される場合に、「想定を保留する」などと呑気にかまえていて問題が解決するのか、と思わぬでもない。しかし、「ちょっと待てよ」という心の持ちようは、緊急危急のときほど大切なものでもある。だから(わたしの場合)何度でも自分に問いかけてみなければならない。

 

「オマエは阿呆か」

「できもしないことを何度も言うな」

と、別のわたしが頭上45度から嘲笑う。たしかにそうだ。「バッカじゃなかろか」と思わないでもない。

しかし、いかに「できもしないこと」でも、何度も何度も唱えているうちにいつの間にか(少しは)「できる」例だって世の中にはゴマンとある。だから、たぶんこれからも折りに触れて書く。なんとなれば、良くも悪くも、それがわたしのスタイルだもの。


想定し、ちょっと待てよと保留する、それが上司の生きる道 (^o^)v



ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ

デヴィッド・ボーム著

金井真弓訳

英治出版



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夜明けを見るためには夜が明けるまで生き延びることが必要です(内田樹)

2016年01月24日 | 読む・聴く・観る

「数十年に一度の大寒波」という予報に恐れをなして、本日行う予定の柚子畑の施肥を早々とあきらめた。

フェイスブックを見ていると、各地から雪の便りが続々と届く。西日本のそれは特にひどいようだ。九州の知り合いが雪だるまを作っているのを見て、「ええ年したおっさんが・・・」と独りごちたすぐあとで、オレもたぶんやるんだろうなと思い、ついつい笑ってしまう。

ここ高知県東部は幸い降ってない。畑仕事をやろうと思えば何の問題もなくできるのだ。だが、なんたって大寒波なのである。コタツで丸くなって一日を過ごすことにした。なんのことはない、単なる怠け者だ。

だが、いかに怠けたオヤジとて、いかに丸くなって一日を過ごすとはいえ、あまりに怠惰に流されるのもどうだろう。とりあえず大まかなミッションを決めた。内田樹を読み、子どもたちの太鼓曲をつくる。そして夕方になれば、子ども向けの太鼓教室とそのあと自分たちの太鼓の稽古(けっこう盛りだくさんじゃないか)。

まずはこれ。

 

困難な成熟
内田樹
夜間飛行

 

内田節絶好調。久々に、アタリである。

 

 

 誰が報われ、誰が罰されるかはランダムなんですから、今現在「義人が苦しみ、悪人がのさばっている」としても、それが未来永劫続くということはありません。絶対にありません。必ず、ひっくり返るときがくる。

 そのときまで生き延びる。

 明けない夜はない。

 でも、夜明けを見るためには夜が明けるまで生き延びることが必要です。

 そのためには「私は運がいい」というふうに自分に言い聞かせる必要があります。

 そうでも思わないとやってられないからです。そうでも思わないとやってられないくらい厳しい状況をなお生き延びるための「方便」として「運」という言葉があるのです。(P.166~P.167)

 

 

賢明な方はお気づきのように、わたしのなかでこのテクストの引用は、きのうの拙稿とリンクしている。

書き手には申し訳ないが、本を読むという行為は、読み手の想いから完全にかけ離れては成り立たない。密接にからみ合って存在するといったほうが正しいか。書き手の意図がどうあれ、そのときその場の読み手の生活や考えとリンクしてしまわざるを得ないのだ。

そういう意味で、「夜明けを見るためには夜が明けるまで生き延びることが必要です」というセンテンスは、今日のわたしの腑のなかにストンと落ちてグッとくる。

 

 

 危機的なときほど楽観的にならなくてはならない。

 悲痛な顔をして、自分の不幸を嘆いてみせる人は、実は自分の状態をほんとうに危機的だとはとらえていないのです。

 どんなときでも「それでも、オレは運がいいほうだよ」というふうに言える人は客観的な記述をしているわけではありません。むろん、多幸症の患者でもありません。

 生き延びなければならないということを本気で考えている人です。(P.168)

 

 

うん、どこをどう考えてもオレは運がいいほうだ。少なくとも、この仕事を生業にし始めてからは運がいい。そしてそれは何も、今突然思ったことでもない。今までずっと思ってきたことだ。いや正しくは、今までずっとそう思うように努めてきた。今もまた、そうだ。


さてと・・・・

どうやら「丸くなって過ごす」時間のリミットが近づいてきたようだ。

書を置いて、子ども太鼓教室へと行くとするか。



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「震災復旧談合」のニュースから考えた

2016年01月23日 | 土木の仕事

【震災復旧談合で強制捜査へ 東京地検】

産経ニュース(2016.1.19)より

 <東日本大震災で被災した東北地方の高速道路復旧工事をめぐる談合事件で、東京地検特捜部と公正取引委員会は18日、独占禁止法違反(不当な取引制限)容疑での立件に向け、近く道路舗装各社の強制捜査に乗り出す方針を固めたもようだ。道路の復旧工事には巨額の国費が投下されている。談合は震災前から行われていたとされるが、公取委は「早期復旧」の名の下に、業界で利益を分け合っていた悪質性の高い談合だとして刑事責任を問う必要があると判断した。

 

おとといの朝、いつものように見るともなしにNHK『おはよう日本』を見ていると、飛び込んできたこのニュースに、朝からゲンナリとしてしまった。その論調をごくごくかいつまんで言うと、東日本大震災後の「談合」によって、震災以前よりも落札率が増加したことにより巨額の税金が無駄遣いされたというものだ。

つまり、落札率は低いのが常態で、それが高ければ、業者が、暴利もしくは不当な利益をむさぼっており、その結果、国民に不利益が生じているということ、そして、おのれらの金儲けのためだけに震災復旧事業を利用した「越後屋」カルテル(このような報道での建設業者への見方は、どうもそういった「悪」のステレオタイプでしかなされないようにわたしには思えます。つまり「おぬしも悪よのお」という)に鉄槌を下すために、「正義の味方」(「悪」が越後屋なら、「正」はさしずめ大岡越前守か遠山の金さんか)、ご存知東京地検特捜部と公正取引委員会が起ち上がった、てな按配である。

この場合、論点は2つに分けなければならないとわたしは思う。

まずひとつは、震災復旧(復興)事業での「談合」は悪か、という点。

もうひとつは、落札率が上がることによって本当に納税者の利益が損なわれているのか、という点にである。

もちろん、今という時代の「なにがなんでも談合は悪い」論の重要な根拠のひとつが、「談合による納税者利益の毀損」である以上、この2つを厳密に区別することなどできないのだが、両方を混同して、論点があっちへ行ったりこっちへ行ったりするのを避けるため、2つに分けてみる。

ひとつ目は、大震災という非常事態が発生したという危急緊急のときに、平時と同様の「公共入札」をやっているような余裕があるのか、という問いだ。もちろんわたしは、はっきり「No!」と答える。だが、今回の件に関しては、冷静に事実関係を整理する必要もある。なぜならば、わたしたち業界の内の人、あるいは与する人のなかには、今回の件を発災「直」後と混同してしまい、ヒートアップしてしまっている方々がけっこう存在するからだ。産経ニュースのつづきを引用する。

 

 <談合の疑いがもたれているのは、東日本高速道路(NEXCO東日本)東北支社が発注した岩手、宮城、福島県内などを通る高速道路の復旧舗装工事計12件。震災で東北地方の高速道路は各地で被害を受け、震災後の平成23年8~9月に復旧工事の入札が行われた。道路舗装業者12社が1件ずつ落札。落札総額は約176億円に上り、工事は当初の計画通り1年3カ月で完了した。

 

今回の談合容疑案件は、東日本大震災から約半年後に行われた入札に関してである。少なくとも発災直後ではない。

そういう事実関係を踏まえたうえで、「越前守」と「金さん」は乗り出したのかもしれないと推測することもできる。だがわたしはその時間を「まだまだ半年」と見る。ステージは復興にすら届いておらず、復旧、しかもまだまだ応急復旧といったような段階ではなかったろうか。その時点において、迅速な復旧のために、各業者の地域性などなどを考慮して仕事を振り分け調整することが「談合」という犯罪に相当するか。わたしはむしろ、健全至極な「話し合い」だと考える。当たり前の話だとも思う。だが、辺境の土木屋がそういきりたったところで、(ことの是非はともかくとして)事実として法違反と言われればおっしゃるとおり。まことに残念ながら、容疑のとおりであれば「クロ」としか言いようがない。

問題はふたつ目だ。落札率が上がったことによって納税者の利益は損なわれたか、言い換えれば、この件は国民の税金を不当に収奪した犯罪なのか、という問いだ。

低い落札価格で受注してもそれ相応の利益を上げることができる現場もある。いっぽうで、たとえ予定価格100%であっても応札する業者がなく入札不調が連続する工事もある(つまり、予定価格では赤字になってしまうもしくは適正な利益が出ないので入札辞退が相次ぎ「不調」となる)。またそのいっぽうでは、適正な利益が出ないとわかっていても、低い札を入れなければ競争に勝てず、結果として受注できないためやむを得なく最低制限価格もしくはそれに近い低価格で受注するのが全国各地で常態となっている。そういう現実から導き出されるのは、落札率のアップと国民の利益の損失に相関関係はないという、(わたしにとっては)当たり前の結論でしかない。

わたしたちにとってはいたしかたのないその事実をして、最低制限もしくはそれに近い受注価格が適正な税金の使われ方と捉え、予定価格に近くなればなるほど、その落札価格の差額は不正な利益あるいは暴利であり、結果として国民の税金の無駄遣いとなっているという論調やそれを元にした空気が、それを流すマスコミのみならず、広く一般市民にまで浸透しているという現実(そのターゲットをこともあろうか震災復旧工事に向ける (*_*))。わたしが冒頭、「朝からゲンナリとしてしまった」と書いたのは、まさにこれが原因なのである。

おとといのNHK『おはよう日本」に話を戻す。

「おのれらの金儲けのためだけに復旧事業を利用した建設業者たち」という(たぶん)虚偽のイメージづくりを受けて紹介された、いわゆる「まちのこえ」はこうだった。

「自分たちだけが得をするのは許せない!」と怒りに打ち震えるオジさん。

そして「それだけのお金があったら、もっと他に使わなきゃならないことがいっぱいあるのに」と嘆くオバさん。

わたしがもっともショックだったのは、この「まちのこえ」だった。

この人たちの意見のソースとなるのはマスコミの論調を元にした「空気」である。こんな感じが代表的か。

 

【震災復興を「食い物」 不正に利益分け合う】

産経ニュース(2016.1.19)より

 <東日本大震災で東北地方の道路は、路面が陥没したり、ひびが入ったりするなど大きな被害を受けた。道路は被災地の復興を支える重要な動脈だが、その復旧工事の裏で、談合が繰り返され、利益を不正に分け合っていた疑いが強まった。間もなく震災から5年の節目を迎えるが、復興を「食い物」にした事件に、また捜査のメスが入る。(中略) ある検察幹部は「価格を下げ、品質を向上させるという競争原理が談合で阻害される。結局、自分たちで自身の首を絞めていることに気づいていないのだろう」と指摘する。

 

わたしはこれを、悪質な世論誘導としてニュースを見、そして読んだ。だが、色いろな報道に接するにつけ、その考え方をあらためた。あれは「正義」感が発露したものではないか、あるいはこれは「正義」を行使しているつもりなのではないかと思われてならなくなってしまったのだ。それは、世論誘導などという、ある意味で単純なものではなく、もっともっと根が深いものではないか。ことほどさように「公共事業悪玉論」と、それをベースにした建設業者バッシングの「空気」が浸透しきっているのだとしたら・・・・

「正義」の思い込み、もしくは思い込みの「正義」、ときとして、これほどやっかいなものはない。

う~ん。

敵は大きくて強い。強すぎて何がなんだかわけがわからないぐらい強く、そして大きい。

もちろん、(たぶん)NHKの担当者が恣意的に登場させた(であろう)あのオジさんとオバさんは敵ではない。この国を隅々まで覆った「越後屋おぬしも悪よのお」という「空気」が、市井の老人をして怒り嘆かせているのだとわたしは思う。その「空気」が敵となれば、とてもとても辺境の土木屋風情が太刀打ちできるものではない。

などと思い始めると、ゲンナリを通り越して暗澹とした気分になってしまう。

それでもオマエは「ゆうこさんを探せ」と説くのか?

「一人ひとりが自分の持ち場で、笑顔でたたかえ、えぶりばでぃ」なんてキレイ事を言うのか?

と別のわたしが問いかけてくる。その答えは・・・

「ムリムリ」である。


ふ~、ちょっとひと息。

じつをいうとこの稿、ふた晩おいて寝かせている。直後だと、どうしても怒りや嘆きや諦めなどのネガティブな感情に支配されすぎてしまうからである。(きのうはお城下で、とある委員会のあと呑み会だった、という事情もあるが ^^;)

結果、アップすることにした(大幅に加筆修正はしている)。

これは、敵が強すぎると同時に、情報を発信してこなかったというわたしたちの行為が招いた現実だ。であれば、我と我が身の境遇を嘆き、他責の念を強くするよりもしなければならないことは他にある。わたしは、「ゆうこさんを探せ」と言いつづける。そうすることが「沈黙の螺旋(※)」を逆に回すために必要だと信じているし、何よりそれは、誰に頼まれたわけでもなく、わたし自身が自分で引き受けた「責任」だからである。


ふと、こんな俳句が思い浮かんだ。

ヤセガエル マケルナイッサ コレニアリ

ヤセガエルはわたし自身であると同時に貴方たちであり、イッサもまた、わたしであり貴方である。

であれば、カラ元気であれなんであれ、この稿の締めくくりはこうでなければならない。


一人ひとりが自分の持ち場で、笑顔でたたかえ、えぶりばでぃ!

でわ \(^o^)/

 

 

いつになく長々と書いてしまいました。御用とお急ぎでないかたは、このブログ内の関連記事もどうぞ

↓↓

『(現場人的)情報発信のすすめ』

http://blog.goo.ne.jp/isobegumi/e/3c076f97243e0a42ae138349e4d45d59

『ゆうこさんを探せ』

http://blog.goo.ne.jp/isobegumi/e/5ad51a357fe8eb0b8f8805c5e896732d


 

※沈黙の螺旋理論

マスメディアを通じ、個人が多数派と認識する世論が形成され、そのような世論が同調への圧力を持つという理論。

人々は自分の意見が世の中で多数派か少数派かを判断する直接的統計能力を持ち、少数派だと思う人々は孤立を恐れて沈黙を保ちたがる。そのため多数派の声が、螺旋が収束するようにますます増大するというものである。

(Weblio辞書より)

 

世論と呼ばれるものは、人々の冷静な意見の集積というよりはむしろ、こうした「こわばった風潮」にしか過ぎない、と考えるのが沈黙の螺旋理論である。(『強靭化の思想』藤井聡、扶桑社、P.101)


伝統に裏打ちされた良識を携えた庶民が残されていることを信じ、彼らに向かって正当な論理を発言し続けること以外に、沈黙の螺旋を逆に回す術はない。(同、P.104)




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責任というのは、人に押しつけられるものではありません。自分で引き受けるものです。(内田樹)

2016年01月21日 | 読む・聴く・観る

 

困難な成熟
内田樹
夜間飛行

 

 

私たちが責任について思考できることは、ひとつだけです。

どうすれば「責任を取る」ことを求められるような立場に立たないか、ということ、それだけです。

勘違いしてもらっては困りますが、それは何についても「私は知らない。私は関与していない。私には責任がない」という言い訳を用意して、逃げ出すということではありません。まるで、逆です。

(P.23)

 

きちんと機能している社会、安全で、そこそこ豊かで、みんながルールをだいたい守っている社会に住みながら、かつ「責任を取ることを人から求められないで済む」生き方をしようと思ったら、やることはひとつしかありません。

それは「オレが責任をもつよ」という言葉を言うことです。

(P.24)

 

集団構成員の全員が人を差し置いてまで「オレが責任を取るよ」と言う社会では、「誰かが責任を取らなければならないような事故やミス」が起きても、「誰の責任だ」と言うような議論は誰もしません。そんな話題には誰も時間を割かない。だって、みんなその「ひどいこと」について、自分にも責任の一端があったと感じるからに決まっているからです。

(P.25)

 

責任というのは、誰にも取ることのできないものです。にもかかわらず、責任というのは、人に押しつけられるものではありません。自分で引き受けるものです。というのは、「責任を引き受けます」と宣言する人間が多ければ多いほど、「誰かが責任を引き受けなければならないようなこと」の出現確率は逓減してゆくからです。

(P.25~26)

 

 

恥ずかしながら白状してしまうと、不覚にも胸が詰まり、込み上げるものあり。何を思ってか、何を思い出してかは言わない。「秘すれば花、秘せずは花なるべからず」だ(とかナントカかっこつけてみたが、これほど日々晒しつづけておいて「秘すれば」も何もないもんだ (-_-;))。器用そうに見えてこれでもけっこう不器用なんです、とだけ書いておこう。

というのはさておいて、わたしにとっては久びさの内田本だ。帯には「14歳から読みたい自由と勇気の本」と書いてある。かくいうわたしは辺境の土木屋58歳。「14歳から」だったら、上はいくつでもいいじゃないかと、ボチボチ読み始めるのだ。

(引用文の太字注釈はアタシの独断ですので悪しからず)

 

 

 

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人は「自分がいかに気の利かない人間か」を知ることができない(池谷裕二)

2016年01月20日 | 読む・聴く・観る

 

つまり、人は「自分がいかに気の利かない人間か」を知ることができないのです。ところが、他人が気が利かないことはすぐに気づき、指摘したり憤慨したりすることができますーー私がこんなに気を利かせているのに君はけしからん!


がび~ん!

このくだり、なんと衝撃的なテクストか。

載っていたのは『現代ビジネス』(2016年1月19日)、『なぜ能力の低い人ほど自分を「過大評価」するのか』。書いたのは池谷裕二さん。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47416

わたしはといえば愛妻弁当を食いながら読んでいた。



 

 

「つまり」までのシチュエーションはこうだ。

電車で中学生くらいのかわいい女の子をチラチラ見ていたら、彼女がお年寄りに席を譲った。著者は気が利かない自分に深く恥じ入ったという。

そのことを踏まえて、テクストはこうつづく。

 

彼女は気が利く人です。一方、私は気が利かない人です。これは明らかです。でも、ここで問いたいのです(決して言い訳のためではなく)ーー気が利かない人は、その時、自分を「なんと気が利かない人間だ」と残念に感じているでしょうか。

きっと感じていないでしょう。なぜなら、そもそもそのお年寄りが困っているという事実に気づいていないからです。気づいていてわざと席を譲らなかったら、それは気が利かないとは言いません。単に意地悪なだけです。

 

そして冒頭わたしが引いた結論が導き出される。

しつこいようだが、もう一度引く。

 

つまり、人は「自分がいかに気の利かない人間か」を知ることができないのです。ところが、他人が気が利かないことはすぐに気づき、指摘したり憤慨したりすることができますーー私がこんなに気を利かせているのに君はけしからん!

 

これまたしつこいようだが、もう一度衝撃を表現する。

がび~ん!

 

文中、「ダニング=クルーガー効果」すなわち、

1.能力の低い人は自分のレベルを正しく評価できない。

2.能力の低い人は他人のスキルも正しく評価できない。

3.だから、能力の低い人は自分を過大評価する。

を説明したあと、それをさらにわかりやすく解説してくれている。

 

この効果の面白いところは、ダニング=クルーガー効果について初めて知った人の多くが「たしかに自分を勘違いしている人はいますね。身近な人の顔が具体的に思い浮かびますよ」と笑顔で答えてくれることです。つまり多くの人は「まさに自分が該当する」かもしれない可能性に思い至らず、自分を棚に上げて、他人に例を探し始めるのです。

これこそが冒頭で説明した「気が利かない人は自分の気の利かなさに気づいていない」ことに相当します。これもまたダニング=クルーガー効果の亜型で、とくに「バイアスの盲点」と呼ばれます。

 

またまたしつこいようだが、さらに驚いてみる。

がび~ん!

ああ、なんてこったい!!

コレッテオレノコトヂャナイノカ? (-_-;)

 

愛妻弁当を食いながら、思わずむせこんでしまうわたしなのでした。



自分では気づかない、ココロの盲点 完全版 本当の自分を知る練習問題80 (ブルーバックス)

池谷裕二

講談社


脳には妙なクセがある (扶桑社新書)

池谷裕二

扶桑社


海馬―脳は疲れない (新潮文庫)

池谷裕二

新潮社


大人のための図鑑 脳と心のしくみ

池谷裕二

新星出版社


 

 

 

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