この写真を見て、
「美しい作業現場を写真で残すことも仕事」
「今しかとれない光景は貴重だから写真を撮りましょう」
と言ってくれたかたがいる。
私はといえば、あれやこれやの「工事写真」(つまり役所提出用)とは別の、役に立つか立たないか、多くの(狭義の)土木技術屋さんになら、「そんな余計なものを」と鼻で笑われてしまうかもしれないような写真を撮る、という行為がほぼ習い性となっていて、
それに対して何の疑いもない日々なのであるが、
冒頭の言葉を受けて思い出したのが、昨年の9月。
私ほか数名が、この現場で生き埋めになりかかった時のことである。
昼食をとろうと現場を離れたわずか15分ほどの間に山側が崩壊。
見ている間にどんどんと、その崩壊は上へ上へと規模が大きくなるのだが、
こんな時、現場の指揮官たる私が写真なんか撮ってる場合じゃなかろうと自主規制(というかそれどころじゃない)。
終息したそのあとで、「アホやなあ、誰かに指示するかお願いするかして写真なり動画なりを撮影してもらえばよかったのに、いや、もらうべきだったのに」と後悔した。
どういう形で役に立つか、あるいは役には立たないかもしれないが、
いわゆる「工事写真」以外の記録として写真を撮る(たまには遊び心もまじえて)。土木の現場とその周辺を撮る。
それは多分に、自己満足の世界にとどまるだけになることが多いのかもしれないが、
つぎの文脈からいえば、それもまた重要な「土木のしごと」につながるのだし、それが出来得るのが私たち土木技術者だけ(たぶん)だからこそ、私はこれからも撮ろうと思うのだ。
つまり「おぼんのような世界」は自ら情報を発信(物語=プレゼンテーション)できないことで、好き勝手に解釈されている。つまり自ら情報を発信しない限り「なんだかわからないもの」は「なんだかわからないもの」のままなのであり、それは好き勝手に解釈されるものでしかないのである。
(『桃知利男の浅草的ブログ』より)
http://www.momoti.com/blog2/2008/06/post_251.php