答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

第二の矢

2017年03月02日 | ちょっと考えたこと

ブログの開設から3,179日。これだけのあいだ駄文を書きなぐりつづけてくると、色々さまざまなことを俎上にあげてきた。そのときどきで「いいね、コレ」と心の底から感じ、腑に落ちた考えがあったとしても、忘却の彼方へ飛んでいったものは数知れない(たぶん)。だが、そんななかでも、わたし自身の身体に浸透し、「お気に入り」となっていくものもある。近ごろでは「第二の矢」がそうだ。

「第二の矢」「第二の矢」・・・

一週間のうち何度、そう心に言い聞かすことがあるだろう。もちろん数えてみたことはないが、けっこうな頻度で、わたしの頭のなかを行きつ戻りつしている今日このごろなのである。


「お釈迦さまの第二の矢」については何度か書いた。

「第二の矢」とグーグルで検索すると、アベノミクスの「第二の矢」がズラズラっと出てくるのだが、わたしが言う「第二の矢」はもちろんそっちではない。曹洞宗関東管区教化センターが行っているラジオ法話、『禅のこころ』(文化放送)平成22年4月第3週放送『お釈迦さま2』の解説がわかりやすいので引用してみる。

 

第一の矢とは、身体で感じるということである。

第二の矢とは、執着する心である。

正しい教えを聞きそれを学ぶ事がない為に、 喜びを感じればそれに執着する心が生まれ、また、苦しさを感じれば怒りの心が生まれ、結果、煩悩に囚われてしまう。

だが、正しい教えを聞きそれを学ぶ人は、第一の矢を受けるが、第二の矢を受けることがないのである。

喜びを感じても、それに執着する心が生まれることがない。

また、苦しさを感じても、怒りの心が生まれないので、結果、煩悩に囚われ ることがないのである。


かといって、煩悩の塊であるこのオジさんのこと。「喜びを感じても、それに執着する心が生まれることがない」かといえば否。「苦しさを感じても、怒りの心が生まれない」かといえば、これもまた断じて否。執着しないようにするためのパワフルワードとして、「第二の矢」という言葉を活用しているというだけのことでしかない。

そしてそれを、方法として採用しようと思ったのは、清水克衛さんの『非常識な読書のすすめ』を読んでからである。そこにはこんなふうに書かれている。

 

 重要なのは、第二の矢は現実ではない。非現実だということです。第二の矢はあくまで脳内でつくり出されるバーチャルなものに過ぎません。

 ですから、第一の矢は避けられませんが、第二の矢は避けられます。苦痛を感じても、それに対する嫌悪感が生じるのを遮断できればいいのです。快楽も苦痛もただのデータだと受け止められれば、心が動じることはありません。

 

非常識な読書のすすめ ―人生がガラッと変わる「本の読み方」30
清水克衛
現代書林


いやいや、「快楽も苦痛もただのデータだと受け止められ」るほど人間ができてはいないし、たぶん生きているうちはいつまでも、「心が動じる」おのれと向き合っていかなければならない定めのわたしです、と独りごちながら、身の上に起こった例で話を進めてみる。

月曜、週初めの朝、ゆえあっていつもより50分ほど早く家を出ようとするわたし。ところが、その日どうしても必要なものの在り処がわからない。探すこと30分あまり。結局自力では見つけられず、女房殿の助けを借りて探し出したが、時すでに遅し。マッタクナンテコッタイと舌打ちして車を飛ばす道すがら、歓迎せざるその出来ごとに心が執着しないように「第二の矢、第二の矢」と心のなかで反芻していた。

大切なものの所在が不明になったのは事実だ。それをわからなくしてしまったのはわたし自身だ。「それは避けられる現実でしょ」という指摘は、とりあえず却下する。近ごろとみにもの忘れが激しい自分自身をどうやって御するかは大きな問題だが、この話においては、そこは問題とならない。問題はそこからだ。週の始め、張り切っていこうという出鼻をくじく問題発生。しかも自分自身の落ち度から。腹立たしいやら悔しいやらで、「コイツはどうにも幸先悪いスタートだわい」と、しばし引きずり他のことにまで影響を与えるのがこれまでのパターン。

しかし、冷静になって考えてみれば、月曜朝の問題発生というのは厳然とした事実だが、そこから先はわたし自身がつくり上げた妄想でしかない。それを自分に理解させるために、「今の気分は第二の矢ではないのか」「今オマエは第二の矢に左右されてないか」と問いかけ、「第二の矢」「第二の矢」と自分自身に言い聞かせる。

またたとえばその何日か後、あるひとつの事象を目の前にして、どうしても思いどおりにならない現実にイライラモヤモヤし、「一事が万事、すべからくそうなんだよな」と、これまでなら陰々滅々と負のスパイラルにおちいってしまいそうなそのとき。自分自身を俯瞰して、バッドニュースとしての事実は「それはそれ」、だがそこから先は執着しようとする自分の心が生み出そうとしているものではないか、と自問自答。「今の気分は第二の矢ではないのか」「今オマエは第二の矢に左右されてないか」と問いかけ、「第二の矢」「第二の矢」と自分自身に言い聞かせてみる。

簡単至極ではあるが、これ、今のわたしにとってはじつに有用な方法となっている。

とはいえ、ややもすれば、さんざんグジグジしたあげく、「あっ、第二の矢だったわい」と気づいても後の祭り、なんて笑えない話はよくあることで、そこはそれ、煩悩が服を着て歩いているようなオジさんなれば致し方のないことではあるのだが、だからこそ、「第二の矢」「第二の矢」と心のなかで唱えてみることが有用なのだと信じている。

 

第一の矢とは、身体で感じるということである。

第二の矢とは、執着する心である。


執着する心を客観的に見つめ、執着する心を余裕を持って受け流す。

「それがデキりゃ苦労はしないよ」

別のわたしは、そう言って頭上斜め45°で嘲笑うのだが、いやいやこれがなかなかどうして、意外とできてみたりもする。余裕を持って受け流すまではいかなくとも、「第二の矢」と唱えることで、少なくとも、執着する心とファイトすることはできる。

「第二の矢」

近ごろとても、お気に入りなのである。


 

 

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