答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

学びを起動させるために必要なもの

2016年03月02日 | ちょっと考えたこと

何度か紹介したことがある「張良と黄石公」の逸話、「受け取る側が思い込みさえすればいつでもどこでも学びは起動する」という例の話だ。

何度も読まされている方には申しわけないが今日も引く。内田樹『日本辺境論』からだ。

 

張良というのは劉邦の股肱の臣として漢の建国に功績のあった武人です。秦の始皇帝の暗殺に失敗して亡命中に、黄石公という老人に出会い、太公望の兵法を教授してもらうことになります。ところが、老人は何も教えてくれない。ある日、路上で出会うと、馬上の黄石公が左足に履いていた沓(くつ)を落とす。「いかに張良、あの沓取って履かせよ」と言われて張良はしぶしぶ沓を拾って履かせる。また別の日に路上で出会う。今度は両足の沓をばらばらと落とす。「取って履かせよ」と言われて、張良またもむっとするのですが、沓を拾って履かせた瞬間に「心解けて」兵法奥義を会得する、というお話です。それだけ、不思議な話です。けれども、古人はここに学びの原理が凝縮されていると考えました。(『日本辺境論』、内田樹、新潮新書、P.142)

 

このあと内田先生は、この逸話の奥深さをこう説明している。

 

 張良の逸話の奥深いところは、黄石公が張良に兵法極意を伝える気なんかまるでなく、たまたま沓を落としていた場合でも(その蓋然性はかなり高いのです)、張良は極意を会得できたという点にあります。メッセージのコンテンツが「ゼロ」でも、「これはメッセージだ」という受信者側の読み込みさえあれば、学びは起動する。(P.148)


はい、本題(本文が引用より短かったらゴメンナサイ ^^;)。

つまりこれは、教わる側の心がまえについて説いている話だ。

極端な言い方をする。

「この人が師匠だ」「この人から教わるのだ」と決めたそのときから、教わる側は、教える側の方法や手法、もっと平たく言うと口調や態度などなどについて不平不満を持ってはならない。

と言ってはみたものの、いくらなんでもそいつは極端に過ぎる。教え方が悪いから学べない、あるいは伝え方が悪いから伝わらない、と考えるのはそれは人情だもの、仕方がない。だがその考えを極力排するよう努力しなければ、人から教わることなどできないとわたしは思っている(当然「この人から教わるのだ」と思ってない場合はこの限りではありません)。

「あなたの教え方が悪い(から私は学べない)のだ」という考えを先生に対して持ってしまうと学びが起動しないからである。

そうかといって、教える側や伝える側に立つ人間が、「受信者側が読み込みさえすれば学びは起動するからワシの教え方や伝え方の良し悪しは二の次で、理解できないほうが悪いんだもんね」などといって高をくくった態度を取ることを、わたしは肯とするものではない。「教える側」が教え方をよ~く考えて、伝え方に工夫を凝らして実行に移さなければ、教えたいことが伝わりにくいのは当たり前のことである。

とはいえそれはそれとしても、「学びが起動するかしないか」はやはり、ひとえに学ぶほうの心持ちと身構えにかかっているのだ。

メッセージのコンテンツが「ゼロ」でも、

というのはいかにも内田樹さんらしい表現で、「そんな極端なことはあれへんやろ」と懐疑的に受け取る方もいるだろう。だが現実にわたしは、何度もそんな場面にお目にかかっている。メッセージをレベルアップさせるかさせないかは、あくまでも発信側の事情によるものであり、受信する側が要求するたぐいのものではないのだ。

「これはメッセージだ」という受信者側の読み込みさえあれば、学びは起動する。

逆もまたしかり。

「これはメッセージだ」と受信者側が読み込まなければ、いつまでたっても真の意味での学びは起動しない。

断言する。間違いない。

(たぶん)

 

 

 

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