上機嫌の作法 (角川oneテーマ21) | |
齋藤孝 | |
角川書店 |
「どなるな、いばるな、どくれるな」
(「どくれる」は土佐弁、フテクサレルあるいはスネルの意)
と、長いあいだ(といっても四十代以降ですが)わたしは、自分を戒めてきた。元ネタは、「威張る、怒鳴る、拗ねる」という、故橋本龍太郎を評した言葉だ。一国の総理大臣まで勤めた人と辺境の土木屋と、比べるつもりもないが、「戒めてきた」ということは、わたしがそうだったということである。
で、今のわたし。無意味に「どなる」ことは、ほとんどなくなった。「いばって」もいないと、自分では思っている。
だが、最後のやつだけはどうもいけない。折にふれ「どくれる」。というか、いつも「どくれている」ような気もする。これでもずい分ましになったと自分では思っているのだが、生まれついての性分か環境か、たぶんどっちもなんだろう、気がつけば、「どくれている」自分がいる。いい年をして、まったく困ったものである。
「どくれている」ときは、当然不機嫌だ。ということは、たいていの場合わたしは、不機嫌だということになる。こう言うと、「いや~、そんなことはないでしょう」というかたが、いるのではないか。そりゃそうだ。わたしとて伊達に齢を経てきているわけではない。営業スマイルのひとつや二つ、ボタンを押せば出てくるぐらいの修業はしている。にこやかに人と接する必要がある場合は、それなりのことはする。
ここで言うところの「いつも」というのは、家庭であり会社であり地域でありの、身近な場所でのことを指して言っているのだ。
基本的に、素は不機嫌な人間です。他人に対する罵詈雑言を最も得意技とする私が、とてつもない不機嫌な時代を乗り越え、実際に自分で上機嫌を技として身につけた。だからこそ、人前での不機嫌には意味がないと言い切れるのです。(位置No.100)
わたしが言っているのではない。『上機嫌の作法』の冒頭で著者齋藤孝さんが書いているのだ。
またまたAmazon Kindleの商売にまんまと引っかかり、著者つながりで出てきたこの本を、半ば衝動的に購入したわたしだが、「かく言う私自身、実際に上機嫌を技化(わざか)したのです。」という齋藤さんの言葉に期待はふくらむばかり。
もとより、本の一冊や二冊読んだとて、おいそれと「変わる」ことができるもんではないのは、百も承知二百も合点。 だいいち「為にする読書」をするなど、本読みの風上にも置けない(よくやってますが・・・)。
まあいい。肩肘張らずに読んでみよう。
と、『上機嫌の作法』(齋藤孝)のページをめくる。
齋藤孝
角川書店
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