答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

インターネットの向こうにいる見えない受け手へ現場の情報を伝えるということ

2015年06月26日 | オヤジのIT修業

きのうの朝、『土木のしごと-(有)礒部組現場情報』を更新しようとキーボードに向かい、


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国道493号小島桟道橋、

張り出し桁を設置しました。



ちょうど1週間前の画像と比べるとよくわかります。

橋ができあがってしまえば見ることができないので

ある意味、貴重な画像です。


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と、ここまで書いて、キーを打つ手を止めた。

 

「ん?」

「ということは・・・」

 

「現場情報」やFacebookページに載せているいつもの画像も、ある意味とても貴重なものなんではなかろうか?ということに、思いが至ったのである。

「何をいまさら」

と笑わないでほしい。

ふだん、「見えないから見せる、いや見てもらう」などと大見得を切りながら、おのれがしていることがよくわかってないなどとは、ざまあない。まったくもって迂闊なオヤジだ、という反省文(のようなもの)である。


そういえば・・・

先日、とある男性から、工事にともなう道路の通行制限について問い合わせがあった。それを受けたわたしが、工事の進捗状況などなどの説明をしていると、「ある程度のことはホームページを見たのでわかりました。知りたいのは今後の予定なんです」とのこと。

 

「現場情報、見てくれたんや」

少々ビビりつつ受け答えをつづける。「ビビった」のには理由がある。字義どおり現場の情報を得るために『礒部組現場情報』を見てくれている人がいるなどということは、想定してなくはないが、「生身の人間」としての存在をイメージすることがふだんほとんどないからだ。


話はチト変わる。近ごろのわたしは、こんなふうなプロローグからプレゼンテーションを始めることが多い。

 

音波は知覚されることで音となる

 

もちろん、独自の知見ではない。ドラッカーだ。引用する。

 

【コミュニケーションは知覚である】

 仏教の禅僧、イスラム教のスーフィ教徒、タルムードのラビなどの神秘家の公案に、「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」との問いがある。今日われわれは、答えが「否」であることを知っている。音波は発生する。だが音を感じる者がいなければ、音はしない。音波は知覚されることによって音となる。ここにいう音こそ、コミュニケーションである。この答えは目新しくない。神秘家たちも知っていた。「誰も聞かなければ、音はない」と答えていた。

 この昔からの答えが、今日重要な意味を持つ。

 コミュニケーションを成立させるものは、受け手である。コミュニケーションの内容を発する者、すなわちコミュニケーターではない。彼は発するだけである。聞く者がいなければ、コミュニケーションは成立しない。意味のない音波しかない。

(位置No.2129)

 

「発する者」であるわたしは、インターネットの向こうにいる受け手の顔が見えない。受け手がどんな情報を欲しているのかもわかっていない。必定、その情報発信は、自分が発しやすい情報、あるいは自分が伝えたい情報に偏る傾向がある。だが、そこで大切なのは、この向こうには生身の人間がいて、その人たちが「どんな情報を必要としているのか」に思いを至らせ、発信することなのではないだろうか。


いやはやどうも、である。

他人さまにエラそうに講釈をたれているわりには、わたしの情報発信はわたし自身のなかで、気づかぬうちに惰性に陥っていたようで、「何のために」しているかを見失いつつあったようだ。


(今さらながら、「つづける」のはムズカシイね。でもがんばっていきましょう!)

 



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