答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

内弁慶

2015年01月30日 | ちょっと考えたこと

「イマイチ心に届かない」

とかナントカ言いつつ、一昨日のつづきを書く。

してみると、ひょっとしたらこの私も書中の「青年」のように、

否定しようとすればするほどアドラー哲学に絡めとられていってしまうのか、

と思わぬでもないが、

真面目なようでいて、自分でも呆れてしまうほどのいい加減さが同居している私のことだ。

ま、(たぶん)そんなことはないだろう。

 

引用するのは、

「自己肯定ではなく、自己受容」について書かれた部分の冒頭である。

 

哲人 まず、先ほどあなたがおっしゃった、「自意識がブレーキをかけ、無邪気に振る舞うことができない」という話。これは多くの人が実感している悩みかもしれません。では、もう一度原点に立ち返って、あなたの「目的」を考えてみましょう。あなたは無邪気な振る舞いにブレーキをかけることで、なにを得ようとしているのでしょうか?

青年 笑われたくない、馬鹿なやつだと思われたくない、その一心ですよ。

哲人 つまり、あなたは無邪気な自分、ありのままの自分に自信を持てていないということですね?そしてありのままの自分による対人関係を回避しようとされている。きっとあなたも、部屋のなかにひとりであれば、大声で歌ったり、音楽に合わせて踊ったり、威勢のいい言葉を発したりできるはずですから。

(中略)

青年 では、どうすればいいのです?

哲人 やはり、共同体感覚です。具体的には、自己への執着(self interest)を他者への関心(social interest)に切り替え、共同体感覚を持てるようになること。そこで必要になるのが、「自己受容」と「他者信頼」、そして「他者貢献」の3つになります。

(Kindle版 位置No.2841/3760)

 

ということで、まずは「自己受容」から説明となり、

一昨日の引用、「自己肯定ではなく、自己受容です」につながっていくのだが、 

 

このくだりを読んですぐ、少年のころいつも、

母が私を評して言っていた、あの忌々しい言葉を思い浮かべた。

いわく、

「アンタほんまに内弁慶やねえ」

言われるたびに少年は、

「そんな簡単な表現でオレの胸の内を表さないでくれ~!」

と心のなかで叫んでいた。

(かどうかは、今は昔のこととて記憶にない)

 

ところが私の場合、皆さんご存知のようにひとひねりした性格なので、

「自意識がブレーキをかけ、無邪気に振る舞うことができない」という自分を認識しつつ、

「笑われたくない、馬鹿なやつだと思われたくない」という心情を打破するために、

どうみても「笑われたい、馬鹿なやつだと思ってほしい」と考えているようにしかみえない、

倒立された行動に出ることによって一点突破を図ってみる。

なんていう暴挙にうってでる少年で、

その繰り返しの果てに今の私、

つまり、「バカと言われることを顧(かえり)みない度胸」があるとまではいかないにしても、

「バカと言われてもいいじゃないか」ぐらいには開き直れる自分がある(たぶん)。

 

そもそも、 

「無邪気な自分、ありのままの自分に自信を持てていない」から

「ありのままの自分による対人関係を回避」する人間なぞ、

かつてのM少年を含め、世の中にはゴマンといるはずだ。

(私だって今でもその因子を抱えて生きている)

「ことさらポジティブになって自分を肯定する必要はありません。自己肯定ではなく、自己受容です」

という言葉は、「自分の無能を認めて許せよ」を肝に銘ずる今の私なら身にしみてよ~くわかる。

まったくおっしゃるとおりだと思う。

だが、「ことさらポジティブになって自分を肯定する」ことも、

何かを克服する段階においてはまったく悪くないと私は思うのだ。

でき得れば、まずは自分の弱さを「認め」て「許す」。

できなければ、「ことさらポジティブになって自分を肯定する」もよし。

そのうえで、

一人ひとりが自分の持ち場で笑顔でたたかえエブリバディ。

 

内弁慶、エッラそうにかく語りき、なのであるがネ ^^;

 

 

  

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