答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

『紅龍にて』から

2014年07月17日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

 

最近、ヒゲBorderManさんが紅龍に出没しているらしい。

といっても向こうはれっきとした現地人、

私なんぞよりはるかに「元祖冷やし中華」の紅龍は身近だろうし、

私は、(大切きわまりない思い出がこの周辺にあるという)過去形の人にしかすぎない。

そんな私の紅龍(いや正しくは紅龍のとなり)との縁については、

ヒゲBorderManさんの最新ブログ『紅龍にて』に、その詳細を譲るとして、

今朝の私は、そのなかで紹介されていたおのれのブログを読み返し、

「へ~、オッサンけっこうエエこと言うやんか」

と感心しきりなのである。

題して『(現場人的)情報発信のすすめ』。

書いたのはまだそんな昔ではない。

日付を見れば今年の3月、雪まだ融けぬ新潟上越市から帰ってきたあと、すぐに起こした稿である。

さて、今の私は、この思いを持続できているだろうか?

と考えたとき、少々長くはなるが引用して自戒としたい。

 

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現場の人間が現場のことを現場から発信する。

 

それこそが、すなわち情報発信なのである。

うん、ここまでは繰り返し書いてきたことだな。

では、「ゆうこさんを探す」こと以外に、何ゆえそれが必要なのか。

誰であれ彼であれ現場にリスペクトを持たない人間が、君やアナタや私の現場のことを、

ああでもないこうでもないと論評するのを看過する日々に、

そろそろクサビを打ち込みましょうや、と私は言いたいのである。


現場の人間(たる自分)が(自分の)現場のことを(生身の自分が存在する)現場から発信する

 

「工事だより」にしても「現場情報ブログ」にしても「完成検査プレゼンテーション」にしても、

結局は、やってきたことやろうとしたことを伝える場所であり、その想いを発露する場所であり、その反復訓練の場所なのである。

自ら物語を紡ぐ。

と言えばエエカッコしいが過ぎるのかもしれないし、「物語を紡ぐ」が「虚構をつくる」につながるのだとしたら、それは私の本意ではない。

だが私はそれでもあえて、「自らの物語」を紡いでみましょうやと言いたいのである。

現場の人間(たる自分)にも、

(生身の自分が存在する)現場にも、

そこに関わった人間の数だけの物語がある。

たしかに、「物語を紡ぐ」ことなど誰でも彼でもが出来得ることではない。

「あなたのような発信できる人がオレたちの想いを伝えてくださいよ」

と何年か前に私に訴えた北の国のベテラン技術者の気持ちは、痛いほどわかる。

だが、自ら語らないものは好き勝手に解釈されてもしかたがない、のが今という時代の基本であることを忘れてはならない。

 

「おぼんのような世界」は自ら情報を発信(物語=プレゼンテーション)できないことで、好き勝手に解釈されている。つまり自ら情報を発信しない限り「なんだかわからないもの」は「なんだかわからないもの」のままなのであり、それは好き勝手に解釈されるものでしかないのである。(『桃知利男の浅草的ブログ』より)

http://www.momoti.com/blog2/2008/06/post_251.php

 
 
という桃知さんの言葉を、繰り返し引用してきた私はこれを、桃知さんの教えどおり(面と向かってご教示いただいたことは一度もないが ^_^;)公共建設工事という業界の構成員に対して使ってきた。

そしてそれは、これからもたぶん使っていくのだろうと思うのだが、

これからは対象をもっと限定し、

 

つまり自ら情報を発信しない限り「なんだかわからないもの」は「なんだかわからないもの」のままなのであり、それは好き勝手に解釈されるものでしかないのである。

 

という、この受け売りのメッセージを発していきたいと思うのである。

つまりそれを、

 

現場の人間(たる自分)が(自分の)現場のことを(生身の自分が存在する)現場から発信しない限り、それは好き勝手に解釈されるものでしかないのである。


という言い換えで、対象を現場に生きるアナタや君や彼や彼女に限定することで、「(現場人的)情報発信のすすめ」という私からのメッセージとしたいのである。

もしアナタが「そんな余計なものを」と思い拒絶してしまうのだとしたら、アナタや君や彼や彼女の「現場」が浮かばれないと私は思うし、

何より、現場を語れない(あるいは現場を語る言葉を持たない)そのことが、

現場に対するリスペクトを持たずして公共建設業の周辺で利益を上げようとする人たちのなすがままになっているかもしれない現実の、ひとつの要因だとしたら、


現場の人間(たる自分)が(自分の)現場のことを(生身の自分が存在する)現場から発信する

 

それを行わずに他責の念をのみ抱くことが、良かろうはずはないのである。


公共建設工事の情報発信については、何より経営者が、そして建設業協会が、もっとも真剣かつ戦略的に考えなければならないことだと常々私は思っているし、切にそれを願っている。

だが、だからといって、一人ひとりの現場の人がそれをやらない理由にはならないし、経営者や建設業協会が動かないからという事実は、現場人が情報発信をしないことの免罪符とはなり得ない。

拠って立つ現場があるくせに語る現場がない、または、現場に拠って立つ自分がいるくせして現場を語れない、そういう現場人の不幸にそろそろ気づいてほしいのである。

だから、皆んなが何気なしにいつも通る道や渡る橋は、オレやあたしがこうしてああしてつくったのだと、そう発信してほしい。

たとえ発信したとして、受信者側の思い込みで如何ようにも解釈され得ることには違いない。

だが、指をくわえて沈黙する前に、焼酎をあおってくだを巻くまえに、

せめて、自らが拠って立つところの現場を「好き勝手に解釈され」ないためのアクションは起こすべきである。

そうでなければ、アナタや君や彼や彼女の、何より私の「現場」に申し訳ないではないか。

と私は思うのである。


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読み終えて、「あゝ」と嘆息する。

先日の土木施工管理技士会主催のセミナーを思い起こしたのだ。

こうやって言えばよかったのだと、

いやたぶん、このような内容で語ってはいるはずだ。

なんとなればこれは、一朝一夕の思いつきで出てきた言葉ではないし、

少なくとも私にとっては、かなりの熟成期間を経て、やっと紡ぎだしたテクストだからである。

だが、言葉としてアウトプットするのと、文章で出力するのとでは違う。

生身の口から吐き出した言葉で聴き手に納得してもらう、というのは、

時の状況、場の状況、色々さまざまな要素がからみ合い、

ことほどさように難しい。

「だから、普段からちゃんと考えてろよ、と言ってるだろうが」と、

別の私が頭の真上で笑うのだが、まあいい。

とりあえずは、私のなかで埋もれてしまったかもしれないテクストを掘り起こしてくれ、

梅雨明けの蒸し暑さにやられた私のボウズ頭にガツンと一発、

気合を入れてくれた杜の都の同志、ヒゲBorderManさんに感謝である。

 

近ければ、蒸し鶏でも肴にビールなど呑みながら、紅龍の元祖冷やし中華でもご馳走したいのだが・・・


紅龍大町本店

〒980-0804

宮城県仙台市青葉区大町2丁目7-15



 

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