日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で | |
水村美苗 | |
筑摩書房 |
4年前に読みかけていた本の続きを読む。
4年前というのをしかと覚えていたわけではない。
本のタイトルをブログ内で検索してみると、2009年8月24日の稿にあったので、ほぼ4年前だということがわかった次第である。
痕跡をたどってみると、どうやら半分ほどまで読んでいたらしいのだが、
いくらなんでも、これだけ放ったらかしにしていたら、そのまま読み進めてもよくはわからないだろうと、
前半部分を超飛ばし読みしたら、なんとなく雰囲気がよみがえってきた。
よみがえってくると、「なんで途中でほっぽりだしたんやろ」と、読み止めた理由がよくわからない。
が、まあいい。今となっては詮無いことである。
水村さんは、「すべての非英語圏の国家が、優れて英語ができる人材を」育てるという目的を達するために、「原理的に考えれば、三つの方針がある」として、
1は、〈国語〉を英語にしてしまうこと。
2は、国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと。
3は、国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと。
を、挙げた上で、こう結論する。
もし、私たち日本人が日本語が「亡びる」運命を避けたいとすれば、3という方針を選び、学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいいという前提を完璧に否定し切らなくてはならない。そして、その代わりに、学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという当然の前提を打ち立てねばならない。英語の世紀に入ったがゆえに、その当然の前提を、今までとはちがった決意をするとともに、全面的に打ち立てねばならない。
日本語を〈母語〉とする私たちには、「あれも、これも」という選択肢がないというだけではない。〈普遍語〉のすさまじい力のまえには、その力を跳ね返すぐらいの理念をもたなくてはならないのである。そして、そのためには、学校教育という、すべての日本人が通過儀礼のように通らなければならない教育の場において、〈国語〉としての日本語を護るという、大いなる理念をもたねばならないのである。(p.284~285)
小さな村で少なからず「教育」などというものに携わらせてもらっている私は、
この論に全面的に同意するものである。
だが、残念なことに、この辺境の小さな村においてさえ、
「学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいい」という世論は、じつに根深く浸透している。
かねてより、そしてただ今はなおさら、その風潮を苦々しく思う私はしかし、
ことさらそれを、他人さまに吹聴することはなかった。
受け容れてもらえない意見だと、そう思い込んでいたからである。
だが、まったく影響力がないにしても、ただただ沈黙しているばかりでは面白くない。
とかなんとか思う、2014年ゴールデンウィーク。
快晴の5月4日なのである。
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