答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

手が合う

2014年03月18日 | 読む(たまに)観る

 

日本人の心のかたち (角川SSC新書)
玄侑宗久著
KADOKAWA / 角川マガジンズ

 

先週末の遠征は、旅客機プラス新幹線プラス列車。

ということで、お供は多いほうがよかろうと、私が指名したのは、

『日本人の心のかたち』(玄侑宗久、角川マガジンズ)と『脳内現象』(茂木健一郎、NHKブックス)。

題名に平仮名が多くやさしげな感じを受けるほうから読んでみた。

 

 この国の制度は、すでに性悪説の国の後追いに終始しているのではないか。そうとしか思えないことが、とても悲しいのである。

 しかしどんな政治や制度が行われていようと、そう簡単に変わらないのがこの国の人々の「心のかたち」だろうと思う。私はこの本で、古来の日本人の心の基本ソフトのようなものを抽出してみたい。制度が変わり、政治が不安定でも、そればかりはそう簡単には変わらないと思えるからである。(P.29)

 

という趣旨のこの書を読みながらも、

冒頭近くにあるこんな文章に引っかかり、

 

 思えばこの国の自然は、放っておいても「ひとりで」に生えてくる草木に満ちている。そしてその「ひとりで」に生えてくるものが古代には「ケ」という同じ音で呼ばれていた。主に「木」「毛」「気」の三つがそれである。

 しかもこの「ケ」が枯れることを「ケガレ」と呼んで忌み嫌った。生産性の枯渇こそ最も忌み嫌うべきこと。しかしそれでも、春になればまた生えてくる草のように、この国の自然は際限なく「ひとりで」にまた蘇ると信じられたのである。(P.44)

 

本文の内容とは関係なしに、「ケ」「ケが枯れる」「生えてくる」という言葉が気になって気になってしようがない私。

事程左様に、「読む」にしても「聴く」にしても、受信者というやつは、いつもいつでも発信者の思いどおりに受け取るものではなく、その場そのときの自分勝手な思い込みとリンクさせつつ理解しようとするものではある。

などとこれまた勝手な理屈をつけて読み進める。

 

 一つ二つと礼法を習い、新たなことを学ぶのはいいが、稽古を重ねることの意味はただ一つ、最終的には「身につける」ことである。

 繰り返しによって習熟し、無意識にも動作ができるようになることで、我々は自らの自然を拡張できる。(P.149)


素人とはいえ太鼓打ちの端くれである私にとって、このセンテンスの、なんと響きのよいことか。


 この場合もまずは「私」の勝手な思い込みをはずし、心を初期化してみることだ。初期化とは、物理的にはいわば対象と距離をとり、俯瞰的な視点を獲得すること。心のほうは、とにかく二次元的な判断は「私」の勝手な分別と心得て、未練なくそれを脱ぎ捨てることだ。(P.149)

 

「おお、メタ認知」

 

環境と自己が別にあるのではなく、それは常に一体なのだから、自分のほうから変わり、やがて環境も変えていくしかないのだ。(P.157)

 

「オルテガやんか!」


とかなんとか色々さまざま勝手な感想を抱きつつ、一気に読了。

初めての玄侑宗久さん、どうやらこの人、手が合いそう。

「手が合う」

おそらくこんなシチュエーションで使う言葉ではないのだろうが、「手が合う書き手」という自らの思いつきが気に入った私は、すぐさま同じ著者の『しあわせる力~禅的幸福論~』(角川SSC新書)をAmazonに注文。今度はKindle版である。

こっちはまた(ワタクシ的にみると)胡散臭げな題名で、普段の私なら手もつけないような本ではあるが、

なんだか乞うご期待な気分でさっそく「はじめに」を読む。


 和語としての「しあわせ」は室町時代には「仕合わせ」と書いた。「さいわい」は「咲き(にぎ

わい」のことで、勝手に「幸」という文字の訓読みにしたのである。

 二つの和語に共通しているのは、相手がいて、その人間関係力によってしか実現しないのが日本人の「しあわせ」や「さいわい」だということだろう。西欧的な「幸福」はむしろ「幸(さち)」という物質的豊かさのことだ。(位置No.26)


やはり「手が合う」、かな?

 


しあわせる力~禅的幸福論~ (角川SSC新書)

玄侑宗久著

KADOKAWA / 角川マガジンズ



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