答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

あおによし 奈良の都は 咲く花の

2013年04月28日 | 読む(たまに)観る

 

古代道路の謎―-奈良時代の巨大国家プロジェクト(祥伝社新書316)
近江俊英
祥伝社

 

推測される総延長が6300キロメートルにおよび、「どこまでも直線で、巨大な幅を有していた」という古代道路「駅路」。

以前NHKで特集を放映したのを観たとき、私の頭の隅っこに引っかかったままになったのは、

「なぜつくられた?」ではなく、

そんなけっこうなものが「なぜ(ほぼ)跡形もなく無くなってしまったのか?」だった。

ということで、『古代道路の謎ー奈良時代の巨大国家プロジェクト』を読む。

で、「なぜなくなったか?」であるが、近江さんによれば、

 

駅路は、律令国家の建設という政治的な必要性とともに誕生し、政治形態が変質すると、駅路も形を変えた。そして、駅路を生み出した律令国家が崩壊すると同時に、その役割を終え、姿を消した。(P.217)

 

もっと平たくいえば、

 

幅の広い道路は、中央の権力を示すという重要な役割を担っていた。しかし、それらを維持・管理していたのは、国司や郡司の命を受けた沿線住民であり、駅路の維持には、大変な負担が伴った。しかも、そうまでして維持したところで、地方にとってはあまり重要ではない道路だった。(P.215)

 

つまり、「都へと向かう」ことのみを指標としてつくられた道路が駅路であり、

「律令」後の権力者(あるいは人々)は、地方拠点へのアクセスと維持管理の容易さから、迂回しつつ幅も狭いという身の丈にあった道路に変えていった(あるいは駅路を無視した)。

高知県安芸郡北川村大字長山字田上という辺境に生きてはいるが、紛れもなく今という時代の土木技術者の末席に座っている私は、だからどちらが良いとか悪いとか、そんなことを言うつもりなぞはない。

事ほど左様に、「道」というモノには様々な機能や使い途や、人々の思いが詰まっているものだと、そう思う。

はるか1300年前の土木技術に畏敬の念を覚えながら、そう思うのだ。

 

 

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