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小商いのすすめ 「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ |
| 平川克美 | |
| ミシマ社 |
小商いとは、「いま・ここ」にある自分に関して、責任を持つ生き方だということです。(P.193)
グローバリズムという考え方が全盛ですが、生きている人間はどこまでいってもローカルな存在でしかありません。
誰もが、偶然に「いま・ここ」に生まれてきて、そこで育ってきたのです。(P.212)
さて、わたしは、日本という国民国家のメンバーとして、自らの意思とは無関係に「いま・ここ」に偶然に産み落とされました。わたしは、「いま・ここ」に対してなんの責任も負っていない。
それでも、わたしは責任のない「いま・ここ」に責任を持ちたいと思っています。
そうすることでしか、わたしの偶然を必然にすることができないからです。
わたしがひとつの時代に生きていたという確かな証(あかし)は、わたしが自分の偶然を必然に変えたのだというところに生まれるものだとわたしは思っています。(P.214)
受け売りばかりに終始して、自分自身の知見を披瀝できない私は、いつもながらのヘタレでしかないのだが、
今日のこの記事を、「三方良しの公共事業」のカテゴリーに入れることで己とリンクさせ、かつ、読み手に解釈をゆだねる。
申し訳ないが、いくらなんでも「日本という国民国家のメンバーとして」責任を持つことまでは(今のところ)私には出来ない。
だがしかし、「地場中小零細公共建設業のメンバー」と読み替えるならば、
(なんだったらもっと小さく置き換えてもいい)
「いま・ここ」に責任を持つことが出来得るのだ。
なぜなら、
問題の回答は、人の数だけ、会社の数だけあるが、この震災によって、問いの数はほとんどひとつに絞られた(P.225)
その問いとは、わたしたちはこれまでのやりかたの延長上に未来を描いていけるのか、それとも別のやりかたを見出すべきなのかということです。(P.225)
と私も思うからであり、何より、
「生きている人間はどこまでいってもローカルな存在」でしかないというその言葉は、
辺境の高知のそのまた辺境で、土木を生業(なりわい)として生きる私が、拠って立つに値する言葉だと思うからである。














