答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

木で鼻をくくるな

2011年12月13日 | ちょっと考えたこと

 

たいていの場合内田さんの文章は、私を元気づけたり目から鱗のごときものを落としてくれたりするのであって、それを読んで落ち込むなどということはめったにない。というか、なかった。

「なかった」という過去形を使うということはもちろん、「落ち込んでしまった」ということである。


自説の正しさの賛同者をひとりでも増やそうとする人間は情理を尽くして語る。知る限りの傍証を引き、思いつく限りの喩え話を繰り広げ、なんとかしてわかってもらおうとする。とりすがるように、懇請するように語る。


私はオノレのことをそう思っていた。誰に確かめたわけでもないのだが、そう思っていたし、そう努めることの先にしか私の生きる場所がないのだとも思ってきた。だがしかし、時としてというか往々にして、そうでもないことに気づいたのである。


「木で鼻を括ったような説明」が私たちを不快にさせるのは、そこで述べられていることが間違っているからではない(必ずしも間違ってはいない)。そうではなくて、そこに聴き手の知性や判断力に対する信頼と敬意の痕跡を見て取ることができないからである。「おまえが私の意見に同意しようとしまいと、私の意見の真理性は揺るがない」と耳元で怒鳴りつけられ続けていると、私たちは深い徒労感にとらわれる。それはその言い分が実践的には「おまえは存在する必要がない」という宣言と同義だからである。「おまえなんかいなくてもいいんだ」と言われ続けていると、その呪詛は私たちの生命力を酸のように浸してゆく

(『呪いの時代』内田樹、新潮社、P.274より)


「これって、もしかしてオレのこと?」。思い当たるいくつかの自分自身の言動とオノレの姿が脳裏に浮かび、なんだかガッカリとしてしまい、少々落ち込んでしまったのだ。

そりゃあ54年も生きてきたのだからして、オノレの性分に今ごろ始めて気づくものなどあろうはずがなく、それなりに把握して心のなかで折り合いをつけながら日々を生きている(つもりである)。こう言っちゃあなんだが、それらを克服しながら生きてきたという自負もある。しかし、現実に只今の自分自身はどうなのかと自問自答すると、いささか落ち込んでしまうのである。

もちろんこの年になると、出来もしないことを反省するなんてことが、裏を返した自己満足にしか過ぎないのはよ~く理解している(つもり)。「出来もしない反省」なぞという堂々巡りをいくら繰り返したところで、陰々滅々となるだけのことで意味がないのだ。だからして、いつものことではあるけれど、「ああヤダヤダ」と思いつつ、こうやって他人さまに晒すことをキッカケにして、「なんとかせねば」と前を向く。

それは、陰々滅々とした循環(閉じた円環)に「ひねりを加える」ことにより出来上がる「メビウスの帯」をもってして、現状を打開しようとする行為である。つまりそうするとき、私の「内面」は「外面」になるのであって、そうすることが出来得れば、「出来もしない反省」ではなくなる(かもしれない)だろうと、そう思う。

と、小難しく語ってみても、私の場合結局は、足掻(あが)くオヤジが自分のケツを叩いているということでしかないのだが。


技術者のためのメビウスの帯


桃知利男さんは「ただの丸い輪」を「円環モデル」と名付け、このモデルが内と外との明確な差異をつくってしまい、内は外とのコミュニケーションを遮断していることで、外から見れば「なんだかわからないもの」になってしまっていると「公共工事という産業」を位置づけた。


 円環モデル


その上で、その「円環モデル」にひねりを一回加え「メビウスの帯」とすることで、内と外との差異はあるとしても共存が可能なモデルを構築(つまり、閉塞せずに共同体性を保つ)し、共同体(公共工事という産業)と、その共同体を取り巻く世界とが(モデルとしては)共存可能なんじゃないかと書いている。


 メビウスの帯


つまり「なんだかわからないもの」でしかない建設業という共同体にとって、円環の中で繰り返す会話だけでは、もはや「私」も「われわれ」も救えないのである。


モモログ2008年6月、『技術者のためのメビウスの帯をハサミでチョキチョキと・・・・・・』より

http://www.momoti.com/blog2/2008/06/post_266.php


少々飛躍が過ぎたかもしれない。

今日の私は、あくまで個人の心象のことを語ろうとしたに過ぎず、「公共工事という産業」なぞという大それたテーマを俎上にしたわけでもなんでもないのだが、この「一回ひねり」論に少なからずとも同意して行動をしてきた人間が、それがどなたに対してであれ、「木で鼻をくくる」ような態度をとることは、自らを「閉じた円環」の中に押しこめてしまうのと同義なのだと、書きながらそう考えたのが飛躍した理由である。

とはいえ、それ(冒頭の問い)に向きあうことが、今の私にとっていささか荷が重いのも現実であるが、ボチボチとやるしかない。あと2週間で50と4才、まだまだ発展途上人(のつもり)。



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