答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

自覚(または勘違い)

2011年10月04日 | 三方良しの公共事業

 この人と知り合ったとき、この人は私の先生格で、今この人は私のことを「先生(のひとり)」だと広言してくれている。

  私が「先生」と呼ばれる資格があるのかどうかは、この際おいとこう。この人のWebサイトは、何回か拝見していたのだが、この文章は何故だかやり過ごしていた。

 

 建設業界の方々と長年お付き合いをさせていただき、一人一人が持つ信念、技術力に裏づけされた自信、仲間意識、惜しまぬ努力、明るさ、意外なほどの純粋さ、そして底知れぬ優しさを知ることができました。マスコミでは公共事業や建設業界の問題ばかりをクローズアップされがちですが、現場で働くほとんどの人たちは住民の安全を守り、生活、基盤を整え、社会の発展のために信念を持って仕事をしていることを私たちは忘れてはなりません。公共工事削減、価格の低減化、入札制度改革の中で生き残りをかけてもがき苦しみ続けている建設業界と、そこで汗水たらして地域住民のために働く人々を、われわれはもっと理解する必要があり、そこで働く人々に感謝しなければならないと考えています。そして、建設業界には自らの力で将来へ続く道を切り開いていく力を持ち、さらなる飛躍を実現していただきたいと願っています。

建設未来フォーラム代表ディレクター佐藤士朗)

 

 じつにイイ。(酒を)飲んで読むともっとイイ。この場合、何がイイってアナタ、

 「建設業界には自らの力で将来へ続く道を切り開いていく力を持ち」という締めくくりなのであって、それを持たなければいけないのだという自覚、それこそが致命的なほどに私たち業界人から欠けているものだからである。

 そして、たいていの(業界)人はそれに気づかないか気づいていても何をしていいのか解らないかで、「そこで汗水たらして地域住民のために働く人々を、われわれはもっと理解する必要があり」なぞと言われると、涙がチョチョ切れんばかりに喜ぶのであるが、「あとは~しょおちゅう~を、あおるだけ~」(『山谷ブルース』岡林信康)なのである。

 「宮内さんみたいな書いたり喋ったりできる人が、一般の人たちに向かってどんどん主張してくださいよ。オレたち、何か悪いことしたか?一所懸命世のため人のために頑張ってるじゃないかって」

 面と向かってそう言われたこともある。わからないではない。私だって、こうやってエラそうなことを書きながらいてじつは、しょっちゅう途方に暮れているのだ。しかし、他責の念から前向くチカラは生まれない。そう思う。

 そして私は唐突に、この文章に触発されてこんなふうに考えてしまうのだ。冒頭の「先生」云々である。

 「先生を決める」ということは人それぞれの気持ちの持ちようである。それこそ(※1)張良と黄石公のエピソードのとおり、受け取る(学ぶ)側が思い込みさえすれば、いつでもどこでも「学びは起動する」(※2)からである。

 

※1 張良と黄石公

 内田樹が好んで引用する「学びのメカニズム」についてのエピソード。

 張良というのは劉邦の股肱の臣として漢の建国に功績のあった武人です。秦の始皇帝の暗殺に失敗して亡命中に、黄石公という老人に出会い、太公望の兵法を教授してもらうことになります。ところが、老人は何も教えてくれない。ある日、路上で出会うと、馬上の黄石公が左足に履いていた沓(くつ)を落とす。「いかに張良、あの沓取って履かせよ」と言われて張良はしぶしぶ沓を拾って履かせる。また別の日に路上で出会う。今度は両足の沓をばらばらと落とす。「取って履かせよ」と言われて、張良またもむっとするのですが、沓を拾って履かせた瞬間に「心解けて」兵法奥義を会得する、というお話ですそれだけ、不思議な話です。けれども、古人はここに学びの原理が凝縮されていると考えました。『日本辺境論』(内田樹、新潮新書、P.142)

 再び引用すると要はこう。私は何回読んでも、「感動的」なほど腑に落ちてくる。

 

※2 学びは起動する

 張良の逸話の奥深いところは、黄石公が張良に兵法極意を伝える気なんかまるでなく、たまたま沓を落としていた場合でも(その蓋然性はかなり高いのです)、張良は極意を会得できたという点にあります。メッセージのコンテンツが「ゼロ」でも、「これはメッセージだ」という受信者側の読み込みさえすれば、学びは起動する。(P.148)

 

 これが内田贈与論の要、「なんだか良くわからないものを贈与されたという自覚(または勘違い)」である。

 つまり、「建設業界には自らの力で将来へ続く道を切り開いていく力を持ち、さらなる飛躍を実現していただきたい」というメッセージは、決して経営者「だけ」に向けられたものではなく、私やアナタや君やボク、公共事業の最前線であがく技術屋、そしてそのなかでも当の自分本人に向けられているのだという「(これはメッセージだという)勘違い」こそが、前向くチカラとなる。「勘違い」さえしてしまえば、「学び」も「前向くチカラ」も、一人の人間のなかで時を同じくして起動してしまう。少なくとも私は、そう「自覚(または勘違い)」している。

 

 

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