答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

わからなく「ても」歩いて行け

2011年08月18日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

此の道を行けば どうなるのかと

 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし

ふみ出せば その一足が道となる

その一足が 道である

わからなくても歩いて行け 行けばわかるよ

                 (『道』、清沢哲夫)

 

 何度も書いているように、これが私が拠って立つところである。

 しかしだ。そういう一方で私は、他人さまにはこうとも言う。

 わからない「から」歩いて行かないアナタは、じつに正しいと。分別のある大人は「わからない」を方法にすることも、「わからなくても歩いて行く」ことも、そんなリスクのあることはしないのだと。

 再びしかしだ。そんなリスクのあることはしないのが分別のある大人のやることだとしても、今という時代を生きるということは大抵の場合、イコール過去の延長線上に未来はないのだと考える私は、だからこそ、「わからなくても歩いて行け」を是として生きていこうとしている。

 考えてもみてほしい。仕事を覚えたて若しくはまだ覚えていない若者がだ。「オレわからんきん、やらんもんね」などと言えるはずがないではないか。若者だったアナタやアタシも当然のように、「わからなくても歩いて来た」。それを忘れてしまい、「わからないから歩いて行かない」のは、「なにものかになってしまった」という勘違いのなせる業なのだと、私は(自戒も込めてだが)言い切ってしまう。

 いくつになっても「わからなくても歩いて行くよ」と、時にはそれがやせ我慢であっても、宣言して行動してしまえば、成果はあとからついてくる。現実には、「行けばわかるよ」とはいうものの、「行ってもわからない」ことも多々ある。しかし、「行ってもわからなかったから、次はルートを変えるんだもんね」というぐらいのことは、少なくとも「わかる」のである。それだって立派な成果のひとつ、なのであるな。

 

 

 「わからない」は、思索のスタート地点である。そこから始めればこそ、「わからない」は思索の「方法」となる。「わからないからやーめた」であきらめれば、そこは挫折のゴールである。「わからない」が「方法」になるかどうかは、それを「方法」として採用するかどうかの、決断にかかっているのである。

         (『「わからない」という方法』、橋本治、集英社新書、P.13) 

 

 

 

 

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