徳 之 島 の 風
南の島から東京に移り住んで24年。ずいぶん遠くまで来たものだ。目の前につづく道、このまま歩みを進めてよいのだろうか。
 



さきほど、書類の整理をしていたら、以前とっておいた新聞の切り抜きが出てきた。
今年の6月6日付け日本経済新聞の朝刊の記事だ。

「 脳梗塞、期待の新薬発売 」

要約すると、次のような内容だ。
協和発酵と三菱ウェルファーマが共同で開発した「 t-PA 」という本格的な治療薬で、現在、国に承認の申請をしていて来年度にも発売されるらしい。
発症後3時間以内に使用すれば、後遺症軽減や早期回復につながるという特効薬だ。
欧米ではすでに各国の承認が下りており、脳梗塞の標準治療薬としての地位を確立しているらしい。日本でも、早期承認による今年度中の発売を期待したいところだ。

脳梗塞といえば、先般、巨人軍元監督の長島茂雄さんが倒れた記憶が新しい。
ただ、私にとっては、実は、もっと身近な問題だ。

20年ほど前、徳之島に住む母が突然たおれ、精密検査を受けた結果、蜘蛛膜下に動脈瘤が発見された。幸い大事にはいたらなかったが、その後もいろいろな症状を繰り返している。ここ数年来は、小さな脳梗塞がいくつかあって、突如として、部分的に浅く新しい記憶が喪失する。

生活環境の見直しと薬の服用で対処しているが、根本的な不安が本人ばかりでなく親族一同につきまとう。
東京に住む私には、特に気にかかる。実家から携帯電話の着信があるたびに、「 もしかして 」と、胸が騒ぐ。

この新薬が実用化されれば大いに助かる。
発症後3時間以内に服用すれば間に合うというものだから、常時、母に携帯させてさえいれば、大事にいたる懸念はほぼ解消されそうだ。

ただし、私は専門家ではないので、あくまでもこの新聞の記事の範疇でしか考えられないし、医療関係者から見れば、いろいろな異見があるかもしれない。

ところで、このような情報は、すべての医療機関にきちんとゆきわたっているのだろうか。
いくら医学が進歩していようと、それが活用されなければ、まるで意味のないことだ。
研究が日々進化している一方で、患者の病状も刻一刻と進行する。
医師の技術向上と研鑽も、変化の激しい情報速度に負けないほどに勉励してほしいと願う。

だが、何にもまして大切なのは、患者がわに立つ私たちの心がけであろう。
医師と患者の信頼関係がもっとも肝要であることは言うまでもないが、医師に頼りきるばかりでなく、患者や家族がもっと治療法に関心を寄せ、最新の医学情報を収集することは、さらに重要な要素だとは言えまいか。


母は、大切な人だ。かけがえがない。
いつまでも元気で、長生きしてほしい。心配ごとは、できるかぎり取りはらってあげたい。
おいしいものをたくさん食べて、家族の笑顔にたっぷりつつまれて、楽しく愉快な気持ちで、一日があっという間に過ぎてしまうぐらいがちょうどいい。

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家族観、ことに親子の関係は、年齢をかさねるほどに変遷してゆくものだ。

個々の生い立ちやそれにより培われたパラダイム、さらには学術的に掘り下げてみれば多岐にわたる議論が必要になりそうだが、ここでは私の目線で分析し、体験や心境にまかせて、私の場合にかぎって考えてみたい。

幼少期から少年時代にかけては親の庇護のもとでゆるりと暮らし、自我の目覚めから青年期までは、みなぎるエネルギーにまかせ奔放に時をやり過ごし、家族にはあまり目を向けることがなかった。
結婚したての、社会的に大人の仲間入りを果たした揺籃期(ようらんき)には、夫婦間の考え方、ものごとの捉え方のすれ違いに戸惑ってばかりいた。

そして新しい家族を形成し果たすべき役割がはっきり自覚できるいま、成熟期を迎えたのであろうか、私の家族観は大きく変容していることに気がつく。

私の立ち位置であるが、年老いた両親との関係にあっては「 子 」である一方、愛妻の「 夫 」であり二児の「 父親 」という両面を持ち合わせている。
どちらも大切な「 親族 」である。

さて「 親族 」と書いた。
「 親族 」と「 家族 」の違い、これこそが私の家族観の変容を明らかにするキーワードといえそうだ。

「 子 」の私にとって、親は庇護と抱擁をさずけ生きる力を与えてくれた、かけがえのないバックボーンである。
決して豊かとはいえなかった環境のもと、生み育ててくれた親の労苦やさまざまな苦悩は、いま「 父親 」を生きる私にも身にしみて理解できる。

老いた両親の限りあるいのちを思うとき、報恩の念があふれる。
ましてや、故郷につながる道のりは遠く、まるで別々の宇宙に住んでいるかのような錯覚にさえおちいる。
ときに、遥か南の島に思いをはせ、触れ合えないもどかしさに気が変になるのでは、と悶えるほどだ。

いま、「 子 」の私の心は、親子の情愛というより、報恩と懐かしさと慈愛の目で両親を迎えている。
そこにはもう、親に甘えすがりつく「 子 」の影は想い出にすぎず、現実の世界に飛び出すことはない。
懐かしい旧友に再会するような、おとな同士の関係に似た一面もある。

天秤にかけることはできないが、「 夫と父親 」の私は、いま明らかに「 子 」の私を超越している。
連れ添って12年の星霜をへた妻は、いまの私にはこの世の中でもっとも大切な存在だ。

紙幅がかさむので詳しいところは割愛するが、数年前、「 子 」の私の‘ 親族 ’と「 夫と父親 」の私の‘ 家族 ’とどちらを取るか、という究極の選択を迫られる出来事があった。
親族間の大きなトラブルにみまわれ、どん底は過ぎたものの解決の道が見当たらないまま、苦悩の日々は何年も続いている。

身を挺して極限まで耐え、実に献身的だった妻の姿を、真正面から目撃していた私には、迷う必然性はなかった。
‘ 親族 ’と‘ 家族 ’のどちらをとるかという選択も、実のところは究極ではなかったのだ。
妻と子どもたち‘ 家族 ’より大事なものなど、この世に存在しないという真実を全身で実感した。

‘ 親族 ’であるいじょう、これはこれでいろいろな要素があるわけで、いまでも適度な関係は保っているが、トラブルの直接の原因をつくった個々との関係は完全に絶っている。そこには未練など、かけらすらない。血縁に囚われていてはあまりにも愚かであろう。
肝要なのは、真実なのだから。

子どもに対する愛情はいうまでもないが、真実を知るがゆえに、私にとって妻ほどいとおしい人間は全宇宙を探し回ったとしても存在し得ない。

自身の命に代えても守るべき大切な‘ 家族 ’といっしょに暮らせる喜び。
揺籃期(ようらんき)の私には、まったく予想することはできなかったことだ。

愛する子どもたちもいつかは、それぞれに新しい‘ 家族 ’とともに新たな人生の帆をはるときが必ずおとずれる。
私がこうあるように、子どもたちにも、かけがえのない‘ 家族 ’とともに暮らす喜び、この世の中で、自身の親よりいとおしい伴侶、‘ 家族 ’をもつ日がきっとくるだろう。
離れゆく子どもを前に、親としての寂しさはひとしおであろうが、そのときには私の思いを伝えてあげたい。

おめでとう、と。

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「 かじんきゃ ひきゃんごい ゆう きいちきてぃや 」

電話の切りぎわに、口ぐせのように私のことを気づかう、母のお決まりの台詞(せりふ)だ。

これは故郷、徳之島の方言で、

「 風邪など 引かないように よく 気をつけるんだよ 」 と訳せようか。

遠い南の星のもと、母がいつまでも電話の声のひびきを惜しみ、私を抱擁してくれているような温かい言葉だ。

ひと月ぶりに聞こえてくる母の語り口は、いつになく元気そうでほっとしたが、元々体は丈夫な方ではなく72歳ともなると、年を追うごとに老いゆくか細さに、せつなさがこみ上げる。

熱い産土(うぶすな)をたって、はや24年になる。東京での暮らしも、故郷ですごした年月をゆうに超えてしまった。
高校生まで母とともに過ごした18年の日々はあまりにも短い。

家族を持ついま、仕事に追われ思いのほか休暇はとれない。往復の航空券が10万円近いこともあり、母のふところがいっそう遠く感じられる。


「 みちのくの 母のいのちを一目見ん 一目見んとぞ ただにいそげる 」

斎藤茂吉の母の歌が、悲しく胸に染み入る。


今日から師走。
寒風ふきすさぶこの季節、ひときわ母のいのちが恋しい。

がんばって、夕食のひとときを母といっしょに過ごそう。

もうすぐ帰るよ。

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仕事で遅くなり、深夜に帰宅した。
起きて待っていた妻と、しばらく一日のできごとを話し合ったところ、子どもの習いごとの送迎時に、あるトラブルを目撃したという。

いつものように妻が車で国道を走行していた。
信号で停止したところ、妻の車の2台前方の車とその前に連なる3台目の車の運転手同士がいさかいを起こしていた。

3台目の運転手の男がとつぜん降車して、2台目の車の前にに立ちはだかり大声で怒鳴りつけた。
殺意さえ感じられるほどの剣幕に、2台目の車の運転手と同乗者は扉をロックして、ただじっと耐えていたらしい。

夕方のラッシュで道路はかなり混雑していたが、興奮してわめき散らす男は、道路の中央に堂々と車を停め、後方の大渋滞などまったく気にも留めていない。
妻を含め周囲の人たちは、誰ひとりクラクションをならすこともなく、ことの次第を遠目で見つめているだけだった。

10分ほどたって、男は2台目の車をやり過ごした後、その車を追うようにして走り去ったらしい。


このところ、凶悪な事件が相ついでいる。
きっかけは、ほんのささいなイザコザから、大事件につながっているケースが少なくない。
トラブルにみまわれ困っている人に手を差し伸べたくなるのは人情であるが、最近は安易に行動を起こすことはためらわれる。


20代のころ、よく喧嘩の仲裁に入ったものだ。
なぜかトラブルに遭遇することが多かったことと、あと先を考えず正義感にまかせて行動できる若さのせいもあったろう。
私の場合、幸いにして被害を受けることはなかった。


結婚したのちの30代前半のできごと。

会社帰りにJR上野駅前を、会社の部長と2人で歩いていた。
すると私たちのすぐ目の前に、40代ぐらいの細身のサラリーマンが顔から血を流して転がり込んできた。

その背後からは、体格のがっしりした50才前後の男がそのサラリーマンを追いかけてやってきた。
男はさらに被害者に殴りかかった。

私のすぐ目の前である。
見すごすことはできず、私は男を後ろから羽交い絞めにして、「 やめろよ 」と制止をかけた。
男は、「 何だお前は 」と私に声を荒げた。
がっちり腕をかけていたが、男は暴れ始める。

「あなたは早く逃げなさい」とサラリーマンに叫んだが、ふらふらしていてなかなか立ち去らない。
周囲を会社帰りのサラリーマンが大勢ゆきかっていたが、誰ひとり助け船を出してはくれなかった。
同行していた部長も遠巻きに私たちを眺めているだけだった。

誰かが通報してくれたらしく、しばらくして2人の警官があらわれ、事件は収まった。
私と部長は交番まで同行を求められ事情聴取を受けた。


帰宅して、ことの次第を妻に話した。
私は子どものように、正義感と勇気ある行動を褒めてもらえるものとばかり思い込んでいた。
ところが妻からは思いがけない言葉が返ってきた。

「 その男がナイフを持っていたらどうなっていたと思う? 」
「 あなたはこの世から消えていたかもしれないのよ! 」
「 そして私と2人の子ども(0歳と3歳)はどうなっていたの? 」

猛省した。
正義感に自己満足している場合ではないことに気がついた。

もちろん、あの状況で知らないふりをすることは、とてもむずかしかった。
だが、対処法はほかにもあった。
すぐに警察に通報すればよかったのだ。

私には家族がある。
愛する妻とかけがえのない子どもがいる。
自身の役割をもっと深く認識しなければならない現実にハッとさせられた。


会社に、とても正義感の強い先輩がいる。
その方は喧嘩の仲裁をして、興奮した当事者のひとりに小指を噛み切られた。
救急病院で縫合しどうにか接着することはできたようだが、その指はいまでも不自由なままらしい。
もちろん、私と同様に家族がいる。


年を追うごとに社会は変化している。

これからの世の中、助け合い精神や正義をどう受けとめてゆけばよいのだろうか。

未来をになう子どもたちに、どう教えてあげればよいのだろうか。

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