正月の2日のことだった。まだ明けやらぬ早朝、トイレに行きたくなって起きた。手探りで、椅子などつたいながらよろよろ歩いた。トイレと言っても、部屋の中に付属しているのだから遠い距離ではない。トイレのドアをあけるとセンサーで電灯がともるしかけになっている。ようやくドアにたどり着いて、灯りがついた。どういうわけかその時にバランスを崩し、転倒した。そのはずみで。柱に顔をぶつけた。右前頭部である。それでも用を足して再びベッドへたどり着き、ヘルパーをコールした。「どうしました?」「助けてくれー」仮眠中のヘルパーが2人とんできた。「先生しっかりしてっ!」。彼らは応急のオキシフルやアイスノンを持ってきて私を介抱してくれた。ほとんど出血はなかったようだ。その痛みよりも、私は、これがきっかけで寝た切りになりはしないか、ひょっとすると、これがもとで死ぬのではなかろうかとう不安でいっぱいだった。血圧は最高が200を超えている。ヘルパーは、「頭を冷やすから、頭を動かさないように、安静にしてないと駄目よ。9時半には看護師が出勤してくるから」と云って私を励ました。
9時半にきた看護師は、早速医師に電話連絡して指示を仰いだ。救急搬送するほどの容体ではないが、近くの脳神経外科で脳の検査をしてもらうことになった。看護師の付き添いで、私は病院でCTスキャンを12枚も撮った。病院の女医さんは、その写真を仔細に見ながら、「不幸中の幸いです。今のところ脳に異常はみられません。」本当は今日は検査してもあまり意味はないのですよ。」ともいう。ほっとしながらも、いくらか張り合いのない診断だった。「脳の萎縮は進んでいますが、年齢相応だから、これはしかたがないですね。」これは、さほど衝撃的ではなかった。というのは以前にも、私は、別の病院で脳の検査を受けたことがある。そのさいには「年齢のわりに脳が萎縮している」と言われた。萎縮は進む一方にちがいない。しかし年齢も進むからついに年齢相応の萎縮にまで年令のほうが追いついたのだ。私は、そう思い、半ば安堵した。女医さんは、「1ヶ月後に症状が出るのは10%の率です。異常を感じたら、また検査しましょう。傷のあたりの腫れは1週間でひきます。」」とつけくわえた。
傷は右前頭部の長さ3センチの裂傷である。ちょうど江戸城の松の廊下で浅野内匠頭の刃傷を受けた吉良上野介と同じ部分である。もっとも、内匠頭が切りつけたのは右手を使ってだったから、吉良が左へ逃げないかぎり、傷は左前頭部だったろう。そこまでは調べる気もないが、そのとき応急手当はどうなったのだろう。江戸城に外科医や看護師はいたのだろうかなどと考えた。吉良は、傷の痛みのほかに、世間の批判にさらされ、赤穂の浪人たちの復讐の可能性におびえなければならぬ。それがないだけ、私の傷はたいしたことではない。むしろ、それ以来、私は行動が慎重になった。歩くときは必ずなにかに、少なくとも片手はつかまるようになった。
それにしても、なぜ吉良はわが子の米沢藩会津中納言の上杉家のひごを受けなかったのか。江戸はにぎやかであり、それに比べて田舎暮らしは嫌だったといわれているが、いくら元禄の江戸だからろいって、吉良が毎晩芝居見物やバーの飲み歩きできるわけはない。せいぜい、茶の湯か俳諧の集まりを自宅で催す程度だったろう。これをしも江戸の賑わいというのはいかがなものか。私ならもちろん安全度の高い米沢に行くと思うが、吉良は江戸で大丈夫とかんがえてえいたのだろうか。刃傷事件にはまだ謎が残されている。「最後の忠臣蔵」は、まだこのさきである。(2011年1月12日)
9時半にきた看護師は、早速医師に電話連絡して指示を仰いだ。救急搬送するほどの容体ではないが、近くの脳神経外科で脳の検査をしてもらうことになった。看護師の付き添いで、私は病院でCTスキャンを12枚も撮った。病院の女医さんは、その写真を仔細に見ながら、「不幸中の幸いです。今のところ脳に異常はみられません。」本当は今日は検査してもあまり意味はないのですよ。」ともいう。ほっとしながらも、いくらか張り合いのない診断だった。「脳の萎縮は進んでいますが、年齢相応だから、これはしかたがないですね。」これは、さほど衝撃的ではなかった。というのは以前にも、私は、別の病院で脳の検査を受けたことがある。そのさいには「年齢のわりに脳が萎縮している」と言われた。萎縮は進む一方にちがいない。しかし年齢も進むからついに年齢相応の萎縮にまで年令のほうが追いついたのだ。私は、そう思い、半ば安堵した。女医さんは、「1ヶ月後に症状が出るのは10%の率です。異常を感じたら、また検査しましょう。傷のあたりの腫れは1週間でひきます。」」とつけくわえた。
傷は右前頭部の長さ3センチの裂傷である。ちょうど江戸城の松の廊下で浅野内匠頭の刃傷を受けた吉良上野介と同じ部分である。もっとも、内匠頭が切りつけたのは右手を使ってだったから、吉良が左へ逃げないかぎり、傷は左前頭部だったろう。そこまでは調べる気もないが、そのとき応急手当はどうなったのだろう。江戸城に外科医や看護師はいたのだろうかなどと考えた。吉良は、傷の痛みのほかに、世間の批判にさらされ、赤穂の浪人たちの復讐の可能性におびえなければならぬ。それがないだけ、私の傷はたいしたことではない。むしろ、それ以来、私は行動が慎重になった。歩くときは必ずなにかに、少なくとも片手はつかまるようになった。
それにしても、なぜ吉良はわが子の米沢藩会津中納言の上杉家のひごを受けなかったのか。江戸はにぎやかであり、それに比べて田舎暮らしは嫌だったといわれているが、いくら元禄の江戸だからろいって、吉良が毎晩芝居見物やバーの飲み歩きできるわけはない。せいぜい、茶の湯か俳諧の集まりを自宅で催す程度だったろう。これをしも江戸の賑わいというのはいかがなものか。私ならもちろん安全度の高い米沢に行くと思うが、吉良は江戸で大丈夫とかんがえてえいたのだろうか。刃傷事件にはまだ謎が残されている。「最後の忠臣蔵」は、まだこのさきである。(2011年1月12日)