石遊録

石本泰雄のブログです。

転倒

2011年01月12日 | Weblog
正月の2日のことだった。まだ明けやらぬ早朝、トイレに行きたくなって起きた。手探りで、椅子などつたいながらよろよろ歩いた。トイレと言っても、部屋の中に付属しているのだから遠い距離ではない。トイレのドアをあけるとセンサーで電灯がともるしかけになっている。ようやくドアにたどり着いて、灯りがついた。どういうわけかその時にバランスを崩し、転倒した。そのはずみで。柱に顔をぶつけた。右前頭部である。それでも用を足して再びベッドへたどり着き、ヘルパーをコールした。「どうしました?」「助けてくれー」仮眠中のヘルパーが2人とんできた。「先生しっかりしてっ!」。彼らは応急のオキシフルやアイスノンを持ってきて私を介抱してくれた。ほとんど出血はなかったようだ。その痛みよりも、私は、これがきっかけで寝た切りになりはしないか、ひょっとすると、これがもとで死ぬのではなかろうかとう不安でいっぱいだった。血圧は最高が200を超えている。ヘルパーは、「頭を冷やすから、頭を動かさないように、安静にしてないと駄目よ。9時半には看護師が出勤してくるから」と云って私を励ました。
9時半にきた看護師は、早速医師に電話連絡して指示を仰いだ。救急搬送するほどの容体ではないが、近くの脳神経外科で脳の検査をしてもらうことになった。看護師の付き添いで、私は病院でCTスキャンを12枚も撮った。病院の女医さんは、その写真を仔細に見ながら、「不幸中の幸いです。今のところ脳に異常はみられません。」本当は今日は検査してもあまり意味はないのですよ。」ともいう。ほっとしながらも、いくらか張り合いのない診断だった。「脳の萎縮は進んでいますが、年齢相応だから、これはしかたがないですね。」これは、さほど衝撃的ではなかった。というのは以前にも、私は、別の病院で脳の検査を受けたことがある。そのさいには「年齢のわりに脳が萎縮している」と言われた。萎縮は進む一方にちがいない。しかし年齢も進むからついに年齢相応の萎縮にまで年令のほうが追いついたのだ。私は、そう思い、半ば安堵した。女医さんは、「1ヶ月後に症状が出るのは10%の率です。異常を感じたら、また検査しましょう。傷のあたりの腫れは1週間でひきます。」」とつけくわえた。

傷は右前頭部の長さ3センチの裂傷である。ちょうど江戸城の松の廊下で浅野内匠頭の刃傷を受けた吉良上野介と同じ部分である。もっとも、内匠頭が切りつけたのは右手を使ってだったから、吉良が左へ逃げないかぎり、傷は左前頭部だったろう。そこまでは調べる気もないが、そのとき応急手当はどうなったのだろう。江戸城に外科医や看護師はいたのだろうかなどと考えた。吉良は、傷の痛みのほかに、世間の批判にさらされ、赤穂の浪人たちの復讐の可能性におびえなければならぬ。それがないだけ、私の傷はたいしたことではない。むしろ、それ以来、私は行動が慎重になった。歩くときは必ずなにかに、少なくとも片手はつかまるようになった。

それにしても、なぜ吉良はわが子の米沢藩会津中納言の上杉家のひごを受けなかったのか。江戸はにぎやかであり、それに比べて田舎暮らしは嫌だったといわれているが、いくら元禄の江戸だからろいって、吉良が毎晩芝居見物やバーの飲み歩きできるわけはない。せいぜい、茶の湯か俳諧の集まりを自宅で催す程度だったろう。これをしも江戸の賑わいというのはいかがなものか。私ならもちろん安全度の高い米沢に行くと思うが、吉良は江戸で大丈夫とかんがえてえいたのだろうか。刃傷事件にはまだ謎が残されている。「最後の忠臣蔵」は、まだこのさきである。(2011年1月12日)

謹 賀 新 年

2011年01月08日 | Weblog
「謹賀新年 ご健康とご多幸をお祈り申し上げます 旧臘86歳の誕生日を迎えました 老衰は極度に達しましたが 粘りに粘っています これは栗山写真館で写した私の人生最初の写真です 弁慶縞のネルの着物が盛装でした 多くの女性たちが私を抱きたがったそうです」 これが、私の今年の賀状の本文である。ここで 1925年撮影の乳児時代の私の写真がはいるのだが 私の技術ではここにその写真を取り込むことはできない。クリヤマ写真館は、故郷の当時の田辺町のほとんど唯一の写真館で、私の父の遠縁でもあった。当時は写真はプロの写真屋で撮るもので、素人写真が普及するのは、かなり後のことであった。ともかく父に抱かれて写真館に行ったのだが、まだ椅子にひとりでは坐っておれない。父が背後から支えていたのだという。

 ところで、年賀状であるが、古今集をもじって、「世の中にたえて賀状のなかりせば 暮れの心はのどけからまし」と冗談をいうほど、年末年始は賀状が難事業だった。そこで、2年ほど前に「これが最後の年賀状で、以後は失礼する」という趣旨の年賀状を出した。いわば最後通告である。これが功を奏して頂く年賀状は半減した。職業がら卒業生などが多く、現役最盛期の頃は1000枚の年賀状だったが500枚にはなった。それでも「先生は年賀状をやめる」と言われるけれど、私はやめません。という人もいるし、「ちょうど私も年賀状が無理になってきたところです」という人もいて、反応はまちまちだった。私の年賀状のファンもいて、なかには喪中挨拶で、自分は年賀状は遠慮するといいながら、1枚残しておいて、あとで頂きたいという熱心なコレクターもいるのである。私は、妥協として、「返事主義」を採用することにした。せっかく年に一度出してくれる年賀状だ。もらったら返事を出すほかはない。むしろ返事をさしあげたくなるのもある。

 ところが、返事主義には思わぬ難点があった。返事を出すとなると、あまり遅くなっては意味がない。寒中見舞いという「格下」の挨拶状になってしまう。その結果、正月は年賀状の返事で大げさにいえば命を削る思いになる。おまけに正月はインターネットの回線が混むのか、年賀ソフトの使用が集中するのか、電圧が低くなるせいか、正常化は9時すぎになってしまう。ほとんど寝ていられない。「寝正月」というのは、年賀状と縁のない人のことであろう。そこで、さらに一案を考えた。ここ数年、いや長い人は数十年、毎年必ず年賀状をもらう「常連」の「上客」がいる。この最も大切な人々には年内にゆっくり出してしまう。それだけで正月の集中作業はかなり緩和される。今年もこの方式にした。ところが、これにも難点があった。「もう年賀状は頂けないものとおもってしまい、出さなかったため、遅れてしまった」という苦情がかなりあった。なまじきっぱりとやめてしまわない私の未練がなせる業である。来年はどうするか。来年のことをいうと鬼が笑うというが、自分が鬼籍に入る率はかなり高い。おそらく来年も折衷主義になるだろう。なかには「来年はどんな趣向の年賀はがきか楽しみです」などとお世辞を言う年賀はがきをもらっては、独房にいる身にとっては、これこそ孤独感から救われる唯一の窓とも思われるからである。(2011年1月8日)

ほととぎす

2010年12月16日 | Weblog
 長い間、ブログを中絶していた。ひとつには私の体調がすぐれなかったせいである。そのくせ昔書いた原稿の電子化や、新しい原稿の依頼やら、それぞれのっぴきならない約束が山積しているためでもある。しかし決定的にはパソコンが不調だったためだ。その昔、戦国の英雄たちの性格をあらわすために、こんな表現がもちいられた。織田信長については「鳴かずんば殺してしまえほととぎす」」。豊富秀吉については、「鳴かずんば鳴かしてみしょうほととぎす」、、そして徳川家康については、「鳴かずんば鳴くまで待とうほととぎす」。それぞれの性格・人となりを端的に表現していると思う。もちろん、これらは彼らが自分で云った言葉ではない。後世の人が、あてはめた一種の「川柳」であろう。ところで私自身はどうなのか。私なら「鳴かずんば鳴くのと代えようほととぎす」といったところである。私はパソコンを取り替えることを決心した。試みに中古の大きいノートパソコンを買った。数日間、好調だったから、私は久しぶりに満足感を味わい、そろそろブログも再開しようかと思ったその矢先だった。「中古」は再び起動しなくなった。電器屋の話では「バッテリーを外して電源に直接につなげばよいということだったので、停電を心配しながらも、バッテリーを外して使うことにした。30年前、私は北軽井沢の山荘でワープロを使って作業していた。雷が天敵だった。近くに落雷があり、データは一瞬にして失われた。もう一度同じデータを打ち込むほど情けない作業はない。なんどこのふいんをあじわったことか。最近はこの地区を含めて東京の多摩地区で大停電があった。しかし昔とちがって、停電は社会問題になる。昔は日常茶飯事で、新聞にでることもなかった。ことほどさように停電はなくなった。これでよしと思っていたが。そうこうするうちに、再び起動せず、使用できなくなった。やむを得ず修理に出すと「古い型なので修理部品がない」といってことわられてしまった。幼い頃から、祖母は「安物買いの銭失い」のことわざを実践し、いつも分不相応の「高級品」を買っていた。そのことが今更のように思いだされた。「世の中にたえて賀状のなかりせが暮の心はのどけからまし」と自嘲しながらも、ともかく私はこんどは「新品」を買うことにした。ついでに修理部品も買い溜めしたい気持ちだったが、何処が悪くなるかわからないので、買い溜めは非現実的である。もっぱら「保証書」に頼るほかはない。「いつまでも鳴き続けろよほとぎす」。「絶対に鳴くのをやめるなほととぎす」という心境である。こうして恐る恐るブログの再開に踏み切ったのであった。 (2010年12月19日)


覚醒剤

2009年08月10日 | Weblog
しばらくブログの更新を休んでいたが、その間に世の中にはいろんなことが起きた。休み癖がつくと、体調もよくないのに、苦労する必要もないと思い、ずっと寝ていた。突如として「覚醒」したわけではないが。久しぶりに一筆書くことにした。今後は定期的というわけでなく、パソコンの「体調」とも相談しながら、随時書くことにした。引き続き読んでいただきたいと願っている。

今夜は、テレビは、酒井法子=高相法子さんが警察施設に出頭したというニュースで持ちきりである。私は、この「国民的アイドル」を知らなかった。タクシーの運転手も、ホテルの従業員も、失踪している彼女が現れればすぐ判るというほど知名度の高い女優だそうである。私は、昔からテレビもよく見ていたから、そんなに有名なタレントなら、名前くらいは知っていて不思議ではない。それが、まったく知らないなんて。今までの自分はなにをしていたんだろうと首をかしげてしまった。私は、世間のほんの一部しか知らずに生活してきたのだ。つまり平均的な常識を持っていないことになる。不安がよぎったのは当然である。

私は、この事件を知って、いくつかの感想を持った。まず,彼女の夫の高相氏が、東京は渋谷で職務質問されたことから事件は始まる。私は、これまで職務質問というものを受けた経験がない。職務質問というのは、警察官が、なんらかの理由があってするものだろう。世の中の善男善女のすべてを、常に職務質問していたら、どれだけ警察官がいても足りないはずだ。そんなことをしていたら、他の重大事件に手が回らなくなってしまう。だから、なんらかの疑いがあって「職質」するのであろう。広辞苑をみると、「警察官が警察官職務執行法に基づき、異常な挙動その他の事情から判断し、犯罪に関係があると疑われる人物などを街頭などで呼びとめて行なう質問」とある。この事件で云えば、警察官が高相氏を見ただけで、覚醒剤の所持を見破っていたとすれば、その眼力に感心する。見破っていなくても、すくなくとも不審に思ったのだ。そうではなくて、かねて怪しいと考えていて、狙いをつけていたのだとすれば、その情報収集力に感心する。それに比べるとメディアの情報収拾などたいしたことはないとさえ思った。彼女の弟が暴力団員で、やはり覚醒剤犯罪に関係していたという「情報」などは派生的で、事件の核心に迫るものではない。

それよりも、彼女は、その清純派イメージを裏切り、実は覚醒剤の常習者であったことが推測される事態に展開したことが問題である。プロの捜査当局のことだ。これを突破口に芸能界の覚醒剤汚染があぶりだされるかもしれない。何故に覚醒剤はそのように「芸能界」蔓延するのか。(余談だが、世の中には、政界。官界、学界、経済界、相撲界、出版界、スポーツ界そして芸能界などさまざまの「界」が存在していて、多くの人がそれらの「界」に所属している。私もかつては学界に属していた。今は所属する「界」もない。「冥界」に入るのが近いことは予感されるが、それまでは無所属である。)

実は、私も若い頃に錠剤の覚醒剤・「ヒロポン」を服用したことがある。1943年頃から戦後にかけてだ。当時は、薬局で合法的に売られていて誰でも自由に買うことができた。医師の処方箋も必要でなく、氏名を届ける必要もなく、風邪薬を買うのと同じようなものであった。今日では覚醒剤を「吸引」すると言うから、気化させて吸うのであろう。実際に酒井さんも大量に吸引用とみられるストローを自宅に置いていたという。しかし昔は小さい錠剤であったから、「服用」だった。高等学校の生徒であった当時の私にとっては、ほとんどの友人たちと同じく、試験前夜の「一夜漬け」勉強には不可欠の薬だった。頭がパンパンになった感じで睡魔から解放される。おまけに頭脳が冴え渡る感じがする。「自分はこんなに透明な頭脳を持っていたのか」と陶酔するほどであった。エクスタシーを味わうほどの作用はなかったが、能率はあがった。なによりも、昂揚感が呼び起こされて、あらゆる精神的圧迫から解放された。そのかわり。あとでは睡眠不足という債務を支払わねばならない。試験が済むと、たちまち眠りこけた。前借りしていた睡眠を返済するようなものであった。

学生が使うだけではない。軍需工場では徴用されて集められた工員たちに服用させて、夜間作業をさせた。限られた生産設備を昼夜フル稼働させるには、夜間作業は不可欠であり、ヒロポンは、その有力な補助手段だったのだ。その副作用や害悪は聞かされなかった。おそらく覚醒剤は、その後に「進化・改良」されたのであろう。戦後は、常習者や依存症患者を生むようになり、禁止・取締りの対象になった。いつの頃からか、薬局で簡単に買える時代ではなくなった。私たちも、それとともにヒロポンのことを忘れるようになった。

芸能界で、覚醒剤汚染が蔓延していたとしても不思議ではない。売れっ子のタレントは、ほとんど眠る時間がなく、移動の車の中で眠るか、休憩時間に仮睡するだけだという。売れないタレントは、十分に眠るのだろうが、人気者のタレントは眠れない。常時「覚醒」を求められる。そうなると、ひとたび覚醒剤を経験すれば、それに依存するようになることは必然的である。「売れないタレントこそ幸いなるかな」である。彼らは覚醒剤に依存する必要はまったくない。

メディアの用語法によれば、酒井法子は、もはや酒井法子さんとは呼ばれず、酒井法子容疑者と呼ばれる。これまでは、清純な「女性」だったが、今や「女」になった。新聞は、神経質に、「よい女」は「女性」といい、悪い女は「女」といい、評価を加えない場合は「女子」という。このホームで「本日の入浴は女性の方から」というのが、よい女の例である。女子200メートル自由形とか、女子差別撤廃条約は、評価を加えない「女子」の用語の例である。「容疑者」は「女」であって「女性」ではない。「女子」でさえない。なんたる「屈辱」。酒井さんが、夫が逮捕される場で、「この屈辱をどうしてくれるの」と叫んだのも無理ではない。私は、まだ無罪を推定すべき酒井さんを、呼び捨てにさえしないで「酒井容疑者」と呼ぶ用語法には抵抗を感じるから、あえてここでは酒井「さん」と書くことにした。彼女はまだ若い。「清純派女優」に戻ることは、もはや無理かもしれないが、今後は睡眠をよくとって、「演技派女優」として大成されることを祈ってやまない。(2009年8月10日)

正田彬君を悼む

2009年06月03日 | Weblog
6月1日に、最も親しい友人の一人であった正田彬君が昇天された。本来ならば参上してお別れすべきところだが、歩行もままなら身のこととて、弔電を出させてもらった。ブログに記録して、改めて弔意を表しておきたいと思う。以下は、弔電の全文である。



「正田彬君

お元気だとばかり思っていて油断していました。今日新聞を拝見して君が突然に召されて帰天されたことを知りました。まことに痛恨の極みです。私と君とが初めて会ったのは、君がまだ和歌山大学におられた頃でした。私は大阪にいて、毎週のように君と会っては議論したものでした。思えば二人の青春時代でした。それ以来、後期高齢者になるまで、それはそれは、長いおつきあいでした。縁あって、上智大学では同僚として職場をいっしょにすることができました。私が上智を退職した後は、君が先に部長をしていた神奈川大学に、すでに定年を過ぎていた私を『特例』として特任教授に招いてくれました。おそらく私は、君の重い荷物になったことだと思います。君は嫌な顔一つみせず、なにからなにまで面倒をみてくれました。仕事が済めば馬車道のカラオケに誘ってくれるのもしばしばでした。申すまでもなく、君は、わが国の経済法や消費者法の開拓者であり、権威でありました。学界だけでなく、社会的にも大きな貢献をされたことは、多くの人の知るところです。しかし、私にとっては、それ以上に、情に厚い無二の友人として絶対に忘れることのできない人です。ほんとうに長い間お世話になりました。今はただひたすらに御霊の平安を祈るばかりです。安らかに正田君。

2009年6月5日

    友人    元上智大学教授 

          元神奈川大学教授    石本 泰雄

                  (2009年6月5日 号外)

ウィルス

2009年05月18日 | Weblog
新型インフルエンザの患者が、あちこちに出てきた。このホームには今のところ進入していないが、いずれは入ってくるだろう。これまで私はウイルスに雌雄があるとは思わなかった。細胞分裂のように、分裂して増殖するのかと思っていた。ところが、豚インフルエンザと鳥インフルエンザや、人インフルエンザが交雑するのだという。いわば国際結婚みたいなものだ。してみればウイルスも恋をするのだ。まことにロマンチックでいいが、結果、強毒性のウイルスが生まれては困る。この年になると、インフルエンザにかかると、かなり死亡率が高いことを覚悟しなければならない。

それだけではない。実は私のパソコンがウイルスの危険にさらされているのだ。「ウイルスバスターを有効にしてください」というメッセージは常時表示されているのだが、私には「有効化」の技術がない。いわば無効のままなのである。

やむをえない。ウイルス防備ができるまで、当分ブログを無期限に休載させていただくことにした。毎週、読まれる読者には申し訳ないが、ウイルスを撒き散らかすのは、それこそ許されない「大罪」だからである。いずれ防備ができたら再開することにしているから、そのさいはまた愛読していただきたい。(2009年5月18日)

国連国際法委員会

2009年05月10日 | Weblog
畏友 村瀬信也君が、去る5月4日に、国連国際法委員会の委員に選出された。近頃の慶事である。心から祝意を表したい。

学者が、教え子や友人のことを自慢するようになると、おしまいだとよく云われる。私は、とっくの昔に「おしまい」になっているからかまわない。村瀬君を友人に持っていることを大いに誇りにしている。

国際法の専門家には、いまさら説明するまでもないことであるが、そうでない読者のために、少し解説することにする。

国際連合憲章をみると、その第13条に、国連総会の任務及び権限の一つとして、こう書かれている。

「1. 総会は、次の目的のために研究を発議し、及び勧告をする。

  a 政治的分野において国際協力を促進すること並びに国際法の漸進的発達及び法典化を奨励すること、」

 こうして国際法の発達の奨励は、国連総会の任務とされているのであるが、とりわけ、わざわざ「法典化」の奨励が明示されている。国際法は国内法とはちがって慣習法の形で存在することが多い。慣習法には、あいまいな部分も多い。国際法の発達のためには、法典化が不可欠である。言い換えれば圧倒的な多数の当事者による一般的な条約を締結することが必要である。そのためには、たたき台ともいうべきその草案が、どこかで作成されなければならない。そうは云っても、どこかの政府や、国連の事務局が作成するのは、かならずしも適当ではない。もっと権威のある専門家集団の協力が不可欠である。そこで、国連発足後間もなく、1947年に、国連総会は、国連加盟国が指名した候補者の中から「国際法に有能として著名な個人で、かつ全体として世界の主要な文明と法体系を代表する」ことを考慮に入れて、任期5年で選出される委員(現在は34名)から成る国際法委員会を設け、この任務を遂行するための補助機関とした。日本からは、国連への加盟が認められて以来、1957年から今日まで、引き続き委員が選出されている。横田喜三郎(元最高裁判所長官)、鶴岡千仞(元国連大使)、小木曾本雄(元駐タイ大使)、山田中正(元駐インド大使)が、代々その任務を果してきた。山田委員は、1992年から最近の2009年まで17年間その任にあり、このほど勇退・辞任された。本来は、委員は、国連総会で選出されるべきところだが、任期途中での辞任の場合は、残りの任期について、委員会で選挙が行なわれるものとされている。今回は、結果的には村瀬君の独走、無風選挙になり、みごと満票で選出された。一つには、これまでの日本の委員が、真摯に任務を果してきた実績があればこそ、日本から引き続き委員を選出することが支持されたものと思われる。しかし、同時に村瀬君の国際的な活動や、その優れた個人的能力と閲歴が認識・評価された結果でもあることはいうまでもない。

 村瀬君は若い頃に、国連法務局法典化部の職員を務めた。いわば法典化の「申し子」である。最近では、アジア開発銀行行政裁判所裁判官、気候変動政府間パネル(IPPC、このパネルはノーベル平和賞を受賞した)第4次報告書の主要執筆者などを歴任、国際法学術機関として世界の最高権威を誇るハーグ国際法アカデミーの理事でもある。日本国内の国際法学会や国際法協会でも中心的な活動をしている一人であることはいうまでもない。その主要著作「国際立法」は、国際的にも評価され、中国語訳が中国で出版されている。それは、中国がこの分野での発言をするための「必読文献」と認識していることを意味するように思われる。してみれば、日本でも適任者は多数いるが、なかでも村瀬君は最適の人だと思われる。当選の知らせが伝えられた日、私は、早速、彼にお祝いのメールを送ったが、久しぶりに学界から国際法委員が選出されたことを「地下の横田先生」も喜んでおられるだろうし、「地上の私」も喜んでいると書いておいた。縁あって私は、彼とは上智大学では同僚として、後には講座の「後継者」として交際し、かねてからその非凡な学識に敬服し、その多彩な能力に賛嘆している。ほんとうにおめでとう。(2009年5月11日)

師と士

2009年05月03日 | Weblog
このホームには看護師が6人いる。すべて女性だ。昔は、看護婦と云って、看護は女性の独占職場だった。電話局の交換嬢と看護婦は、男の入れない聖域だった。最近は、男性の看護師もみられるようになった。「看護婦」という呼び名は「看護師」という呼び名に変った。「看護婦長」ではなくて「看護師長」と呼ぶ。私は、初めの頃には看護士だと思っていたが、どうやら看護師の方らしい。そこで、看護師の一人に聞いてみた。「看護師と看護士はちがうのかね?」。その答えは、「教える人」が「師なのよ。教師だって医師だって、教えるでしょ」だった。たしかに教師は教える職業だ。牧師も教誨師も、調教師もわかる。しかし医師、看護師、薬剤師は「教える」のが本業ではない。教えることもあろうが、そんなことを云えば世の中の職業のほとんどは、後輩や弟子に教えることを伴う。弁護士や博士だって、教えることのある人々である。私は、皆に想像されるほど暇をもてあましているわけではないが、拘束の少ない身ではある。実際に暇のあるときに考えてみた。もともと、「士」は武士の士だったに違いない。赤穂「浪士」、忠臣「義士」、勤皇の「志士」などは武士そのものだ。「騎士」、「戦士」、「兵士」、「剣士」などもその系列にあるのであろう。「闘牛士」や「策士」もなんとなくその雰囲気ではある。しかし、武士とは関係のない「士」もたくさんある。運転士、操縦士、消防士、救急救命士など、そういえば制服を着ている職業に「士」が多いのだろうか、でも、制服とは関係のない「士」もいっぱいある。弁護士、司法書士、会計士、税理士、計理士、弁理士、測量士、鑑定士、社会福祉士、整備士、それに博士、修士、学士もある。資格を持つ人々なのかとも思うが、看護師や薬剤師、調理師、美容師、理容師、鍼灸師、助産師にも立派な資格があるが、士ではない。逆に文士、弁士や棋士などは、士ではあるが、国家に公認された資格ではない。

 それに対して、「師」は、必ずしも教育とは関係なく、技術や芸をもつ人々の呼称のようである。占い師、技師、漁師、猟師、花火師、能楽師、俳諧師、演歌師、講談師、能面師、振付師、植木師、調教師、絵師、彫師、刷り師、塗り師、調律師など数えればきりがない。乗り物専門のスリの「箱師」もあれば、葬式のリーダーは「導師」である。最近有名になった「納棺師」もある。

そういえば、私は、長い間「教師」を職業としてきた。そのためか、ホームでは「先生」という綽名で呼ばれている。しかし「士」になったのは、博士や学士を別にすると、軍隊時代の「兵士」だけである。

眠れぬ夜は、「羊が1匹、2匹」と数えよというが、「師と士」の使い分けを考えるのも一案。ますます眠れなくなるかもしれないが。「師と士」、その使い分けの法則をご存じの方は、是非メールを下記まで。(2009年5月4日)

  ishim@msg.biglobe.ne.jp

監督

2009年04月26日 | Weblog
新聞で見たのだが、20日に兵庫県西宮署の取調べ室から、窃盗容疑で逮捕され、取調べを受けていた容疑者が逃走したという。市内で、車からバッグを盗んだのだという。巡査部長と巡査の2人で取り調べをしていたが、部長が席をはずした10分ばかりの間に、巡査が居眠りをしてしまい、その隙に容疑者が逃げたのだそうだ。きっと、居眠りを妨げないように、そっと逃げたのであろう。野球の盗塁みたいなものである。幸い、やがて容疑者は警察に出頭し、もう一度逮捕されなおしたから、大事には至らなかった。窃盗くらいで、一生逃げ回ることは負担が大き過ぎる。その計算からだったのだろう。逃走した容疑者や居眠りした巡査はもちろん第一次的責任を負わねばならないが、上司にも監督の責任があることだろう。

監督といえば、私が思い出すのは試験の監督である。さすがに入学試験では、不正行為が現場で行なわれることは、聞いたことがない。しかし、学内の定期試験などでは、学生の不正行為はざらである。昔は、監督しながら、読書したりもしていた。しかし、だんだん世知辛くなったせいか、不正行為も多くなった。目を光らしていなくてはならなくなった。さながら、スーパーの万引き監視員みたいである。しかし、私は、スーパーの監視員のような職業的な監視員ではない。摘発したからといっても、手柄になるわけではない。ただ、正当に受験している者との間に不公平が生じないよう、そして一定の学力に到達した者に単位を認定するという「単位制度」が崩壊しないようにという使命感から、カントクしているに過ぎない。しかし、仮定の話だが、仮に私が監督している試験で、受験生が不正行為をしたにもかかわらず、私が発見できずに、見過ごしたとしよう。それが後日、採点の段階で不正が発覚したとする。私の経験では、不正を発見するのは、ほとんど採点の時である。ちょうど一度見た顔が、しばらくは記憶にあるのと同じように、答案にもそれぞれの顔があり、一度みた答案は、しばらく記憶に残る。同一の答案や類似の答案は、たとえ、離れて提出されていても、必ず発見できる。まして、なにかの本を写したというような答案は、もちろんすぐにわかる。学生の読むような本は、限られているから、どの本が写されたのかもわかる。うまくやったと思われるのが癪だから面倒だけれど呼び出すことになる。ところで、不正が発覚して単位がとれずに、卒業できず、そのために、就職の内定もフイになったとする。その学生が、私の監督がもっと厳しくて、不正をすることができなかったら、このような悲運にあうことはなかった。私のカントクが甘いから結果的にとんでもないことになったのだと云って、私に損害賠償を求めたとしよう。そんな請求に応じることは、到底できない。身から出た錆なのだ。むしろ私のほうが慰謝料でも請求したいほどである。私は、その処理のために労力を費やし、不快な思いもさせられたのだ。

6年ほど前になるが、姉歯さんという一級建築士が、ビルの耐震強度を偽装したため、それがばれてホテルやマンションが補強工事を余儀なくされたケースがいくつかあった。群馬県のホテル「エクセルイン渋川」もその1つである。ホテルの運営会社など(つまりホテル側)が、建築確認した群馬県を相手取り、総額約2億4000万円の損害賠償を求めた訴訟があった。それについて最近、前橋地裁が、訴えを棄却する判決を言い渡した。ホテル側の言い分は、姉歯事務所が構造計算したホテルの確認申請書を県に提出して営業を始めていたところ、構造計算書の改竄がみつかり、休業に追い込まれた。県が、構造計算書の欠陥を見抜けず、建築をしたために補強工事や休業などで損害を受けたということである。この言い分が退けられたのだ。私は、さきに述べたように、「身から出た錆」理論で、この判決はきわめて当然と思った。

ところが類似の事案で、名古屋地裁は、去る2月に、愛知県が注意義務を怠ったとして、県に賠償を命じる判決を言い渡しているという。私には、今のところ、これらの判決の全文を入手するすべがないから、簡単な新聞報道を通じて全容を推察するほかはないが、前橋地裁の判断は、「県の建築確認は、申請に含まれる設計が、関連する規定に適合するかどうかを形式的に審査すれば足りるもので、その意味では、今回もそのような審査は、尽くされている」というもののようである。それに対して、名古屋地裁の判断は、「行政の役割は、危険な構造物を出させないように監視する『最後の砦』になることだから、県の審査は実質に立ち入るべきである。その意味では、今回の審査には、設計上の問題を実質的に突き止めなかった点で、過失がある」というもののようである。

構造物の一般の利用者の立場からみると、徹底的に厳密な審査を尽くしてもらいたいという気がする。しかし、それには県に膨大な負担がかかることになる。審査のためには、すくなくともインチキを見破る力量を備えた専門家を用意しなければならない。しかも、かなりの時間を費やすことになる。ぎりぎりの人員や予算では急の間にあわないだろう。資格のある建築士の計算を信用して、内実までは立ち入らないというのも、現実的には、一概に退けられるべき考えではない。医師の死亡診断書や、出産証明書も同じである。いちいち実質を調べていては、膨大な人員と費用、それになによりも時間がかかる。このように判断は分かれる可能性がある。実際に地裁によって判断がわかれている。しかし、いずれの判断をとるにしても、申請者がインチキの計算をもとに申請しておきながら、審査した当局に賠償を求めることは認められるべきではない。身からでた錆である。ローマの昔から言うではないか「Ex injuria jus non oritur (不法からは、いかなる権利も生じない」。



〔あとがき〕 最近、畏友 宮崎繁樹(元・明治大学総長)から「ローマの法・格言・法諺抄〕(法律論叢第81巻第4・5合併号)が送られてきた。その中にも、この法格言は含まれている。宮崎君のこの作品は、そのまま彼の生涯の真摯な研鑽の軌跡を示すものであるが、われわれにとっては座右に置いて参照すべき辞典の役割を果たすとともに、「読み物」としても興味の尽きない含蓄と魅力を持っている。それはローマの人々の知恵の結晶でもあるからだ。私は、思わず引き込まれて読むのをやめられなくなった。改めて、筆者に敬意と感謝の意を表し、かつ、同学の諸君に一読、いや熟読を勧めたいと思う。(2009年4月27日)

アイディア

2009年04月19日 | Weblog
漢字ブームだそうだ。そういえば、最近テレビで漢字のクイズを時々見るようになった。新聞によると、財団法人「日本漢字能力検定協会」が、公益事業では認められない多額の利益を上げて文部科学省から指導を受けたという。要するに儲けすぎたのである。受験生から検定料1500~5000円を取っていたというから、コストの割りに利益も多かったのであろう。「坊主丸儲け」というが、坊主が、限られた檀家の葬式でお布施を貰う分には、たいした稼ぎではないであろう。漢字検定の対象は、不特定多数だから、丸儲けの桁がちがう。公益法人は、法人税や所得税がかからないかわりに、利益をあげることは許されない。儲かってしかたがないから、「メディアボックス」とか、「文章工学研究所」などの一族支配下の会社に業務を委託して利益を分配するという手法で、わが世の春を謳歌していたのだ。

英検があるのだから、漢検もあり得るとは、理事長のアイディアであった。みごと、そのアイディアが的中したのである。確かに、「検定」には、魅力がある。単に漢字を覚えるのでなくて、目標を与えられるというのは、励みになる。観光案内能力まで「検定」の対象になっている時代だ。今からでも遅くはない。マラソンが流行っているから、「マラ検」でも始めて、市場に参入するのも世のため、人のためになるであろう。アイディアである。漢検も「公益法人」でさえなければ、稼ぎ放題だったはずだ。アイディア賞というべきである。

私が、残念に思うのは、今から40年ばかり前のこと、私は、好きな歌の伴奏テープの作成を思いついた。伴奏もなく、単純に歌うのとちがって伴奏があると、下手な歌でもひきたつであろう。誰よりも私自身が欲しいものなのだ。私は、このアイディアを、教え子に伝えた。彼が、大手の音響メーカーに勤めていたからである。「そんなのは、レコードの歌手の歌っている周波数の部分を消して伴奏だけを残せばいいのだから簡単なことですよ」と彼は言って、とりあわなかった。思いきや、それから数年、誰が考えたのか、それとも私のアイディアが漏れたのか、「カラオケ」が、一世を風靡するにいたった。カラオケは廃るどころか、隆盛の一途を辿っている。それは、ハードが変らなくても、ソフト、つまり歌のほうがたえず新しくなるからである。厭きられることはない。今世紀中は、改良・進化はあるとしても、なくなることはないであろう。核兵器廃絶が実現しても、カラオケは生き残るであろう。あのとき、私のアイディアが事業化されていれば、私も、今頃は、左団扇、右扇風機の生活だったろうと残念である。

それにつけても、最近、思いついた新しいアイディアがある。私は、今年から、日めくりカレンダーを採用した。ホームの独房にいると、今日が何日なのかわからなくなることがある。毎晩寝るときには、日めくりカレンダーを1枚破いて寝るのが習慣になっている。しかし、数字は遠くからでも見えるのだが、曜日の文字は小さくて、近寄らなければ見えない。例外は土曜と日曜である。土曜は菫色、日曜は赤色だから、よくわかる。私のアイディアは、虹の7色を月曜から順番に配分するのである。そうすると月曜日は橙色、火曜日は黄色、水曜日は緑色、木曜日は青色、金曜日は藍色、土曜日は菫色、日曜日は赤色になる。そうすると、色だけでひと目で曜日がわかる。日めくりだけでなく、普通のカレンダーもカラーにすればよい。こうすると、幼児の頃から、色と曜日が不可分に記憶されるだろう。まるで虹の「七色」は、そのためにあるようなものだ。そのうち普及すると、月曜日は橙色のTシャツやセーターを着ることを奨励する。水曜日は緑の日になるから、全国で緑色が充満することになる。不況にあえぐ衣料業界を活性化する効果は、はかり知れない。公的資金を!
無制限に注ぎ込む景気対策しか、策のない政党には、頂門の一針ともなるであろう。

このアイディアを事業化する人はいないか?成功すれば、私は、ほんの少しの「アイディア料」を頂くだけでよい。(2009年4月20日)

新兵器コンプレックス

2009年04月13日 | Weblog
毒ガスが実戦で用いられたのは第一世界大戦が最初である。イープルス戦線で、ドイツ軍が塩素ガスを用い、その威力を見せたのが始まりだった。連合軍もたちまちホスゲン・ガスを開発して対抗した。それは、塩素ガスをはるかに上回る猛毒だった。兵士は防毒マスクをみずから剥ぎ取って死ぬといわれたほどである。ドイツの将軍をして「ホスゲンに比べれば、わが軍の塩素ガスなどは、まるでオーデコロンみたいなものだ」と嘆かしめという。世界大戦は、空気よりも重いにもかかわらず、空中を飛行できる航空機が実戦に登場したことでも、画期的だった。それまでは、気球が用いられるにすぎなかった。こうして、古典的な戦闘形態から近代的な戦闘形態へと脱皮する時代が来たのである。その毒ガスが、諸国間で禁止されるようになったのは、既に19世紀末のことであった。1899年の第1次ハーグ平和会議で、いわゆる「毒ガス禁止宣言」(窒息セシムヘキ瓦斯又は有毒質ノ瓦斯ヲ散布スルヲ唯一ノ目的トスル投射物ノ使用ヲ禁止スル宣言)が採択されたのが、それである。以来、毒ガスは「進歩」の一途をたどった。第2次世界大戦の中で、ドイツのバイエル製薬会社によって、殺虫剤の副産物として開発された神経ガス、その一種のサリンの威力は、すでにわが国内でもテロの武器として実証済みである。この強力なガスを暴虐で知られるナチスがなぜ使用しなかったかは、いまだに解けない謎である。ここでは、毒ガスについてはこれ以上立ち入らない。その禁止が国際社会で問題にされるようになった時。米国の有名な戦略家マハン大佐は、「海戦では、撃沈された軍艦の乗組員の多くが溺死する。彼らは、海で溺れて窒息する。ガスで窒息するのが非人道的で、海水で窒息するのが人道的だということは根拠がない。ガスを禁止しようというのは、一種の新兵器コンプレックスである。」と笑った。ガスばかりではない。同じ頃に、機関銃も開発された。日露戦争では、ロシア軍がこれを使用したという。私の祖母の弟は、日露戦争に従軍したが、わが軍には機関銃がなかったから、兵士が並んで順番に小銃を撃って対抗したこともあったと笑い話をしていた。イギリスの議会では、機関銃を非人道的兵器として禁止すべきものとする議論が行なわれたようである。新兵器コンプレックスというべきであろう。今では、ひとかどの暴力団なら常備するまでになった「通常兵器」である。

今から40年余り前になる。私は、その頃大阪市立大学の教務部長を務めていた。当時、大阪市も行政事務に電算機を利用することを試行する時期にあった。各部局に、電算機利用の可能性を申告させていた。私は、職員と相談して入試事務の一部に、これを導入することを決心した。教務部の職場では、すっかり電算化への空気が支配し、「インプット」と称して、夕方には、おでんで一杯やったものである。

それまでは、入試では採点はもちろん、その集計や表の作成まで、教員や職員の手作業で行なわれていた。私は、幼いころに、算盤塾に通っていて、かなり上達していたが、まさかそれが実用に役立つとは思わなかった。毎年、入試になると、私は合計の計算に珠算の能力を発揮していた。それは、私を助けるというよりは、私を苦しめる技術になった。電算化と云っても、今とちがって、採点はやはり教員の手仕事である。その結果をコンピューターにインプットし、表にして判定資料にするだけであった。それにしても、教員からは不安や危惧の意見が多かった。採点をコンピューターにインプットするのは、キーパンチャーの単純作業である。それが間違えると致命的なことになる。そこで、同じ作業を2人のパンチャーが行なう。その2人が同一の誤りをする確率はきわめて少ない。ほとんどゼロである。2人の作業結果が一致しなければいずれかがミスしているのであるが、一致している限り、ほとんど誤りはない。少なくとも、手作業による誤りに比べて、けっして多くはない。長年の間、教員は、手作業を過信してきた。しかし、コンピューターによって、採点ミスを指摘されることさえ絶無ではない。たとえば、配点以上の点数が記入されていることもある。従来は、このようなミスも、相互点検で発見するほかはなかった。しかし、コンピューターは、この手のミスの発見は最も得意とする。生身の人間は、コンピューターに頭を下げざるをえないのだ。こうして、次第に新兵器コンプレックスは克服されていった。

新兵器コンプレックスと、アレルギーとはべつものである。広島と長崎の被爆以来、われわれは、全国民的規模で核アレルギーを持つにいたっている。それは、花粉症とも、新兵器コンプレックスとも、基本的に異なる次元の問題である。同列に論じるには、惨害の質も量も異なりすぎる。

同じように、ワープロが日常的につかわれるようになったときにも、学生がレポートや論文を提出するのに、ワープロの使用を認めるべきでないという議論が教授会で行なわれたことがある。ワープロでは、同一内容の複製が容易であるというのが、その論拠であった。私は、反対した。読みにくい学生の手書きの文字を読むのに閉口していたからである。今ではインターネットの利用が普及しているから、それを利用して、編集して、レポートにするなどは、茶飯事であろう。しかし、書物を利用することは許されるが、インターネットの利用を許さないというのは、新兵器コンプレックスの典型である。学生が、素材を消化して自分の意見の中に取り入れたか、それとも丸写しや盗作の作業にとどまるかを見極めるのは、教員の力量の問題であって、ワープロやパソコンの問題ではない。

去る3月19日のことだ。日本弁護士連合会(日弁連)の理事会は、弁護士に依頼者が支払う報酬(弁護士報酬)について、クレジットカードで支払うことの是非を議論していたが、これまでに引き続き、各弁護士にカードでの支払いの自粛を求めていくことを決定したという。(朝日新聞3月20日)。今では、わが国でもカードによる支払いは、かなり普及している。私自身は、なおアナログ世界の人間であり、カードも、キャッシュカード以外はほとんど利用したことがない。しかし、時代はカード社会に向けて確実に進んでいる。ケータイとカードがなければ生活できない社会が目の前に迫っている。

実際に、1回払いの場合には、カードは、現金に代替する支払手段として機能するから、さほど弊害があるとは思えない。しかし、クレジットカードの場合には、「支払の繰り延べや分割払いなど利便性が強調され、弁護士業務がビジネス化しかねない」「カードの利用が発端となる多重債務問題が解決をみていないのに、今カード会社と提携することへの懸念がある」という慎重論も弁護士会内部にはある。こうして、日弁連では近く会員に次のような文書を送ることにしているのだそうだ。 ①カード会社がカード会員に対し、積極的に弁護士を紹介する。②カード会社に依頼者の事件内容を知らせる。 ③依頼者の支払能力がないことを知っていながら、弁護士費用をカード払いさせる。 以上の場合には、その弁護士は、懲戒処分の対象になることがある。という内容のようだ。新兵器の欠点をカバーしようとする試みのあらわれと評すべきであろう。(2009年4月13日)

後手有利

2009年04月06日 | Weblog
8月25日のブログ「将棋」で、私は、将棋の先手と後手のことを書いた。約7ヶ月前である。将棋は先手と後手の差が比較的に少ないゲームではあるが、それでも先手の有利さは争いようがない。後手番は、いかにその不利を克服するかに苦労するのだ。私は、その不利をカバーする方法として、後手の持ち時間を長くする方法を提案してみた。せめて後手の苦労に報いる方法は、ほかにはないからである。

ところが、先手有利の定説を覆すデータが朝日新聞に掲載された。4月1日の同紙は次のように伝えている。

「将棋のプロ公式戦で08年度の先手勝率が、日本将棋連盟が統計を取り始めた1967年度以降、初めて5割を切った。先手有利とされてきた将棋界の常識を覆す事態だ。67年度から07年度までの41年間で、先手の平均勝率は0.526、最高は04年度の0.554、最低は68年度の0.505で、数字の上では「先手若干有利」が定着している。ところが、08年度は、勝負のついた2340局のうち、先手は1164勝1176敗、勝率は0.497であった。」なんと、後手の方が僅かながら、有利だったのである。羽生善治名人は「大きな理由は後手の作戦の幅が広がったこと。先手が主導権をとりやすいのは変わらないが、的をしぼりにくくなった。後手側のいろんな創意工夫が実を結んだということでしょうか」と云う。

後手側の研究が進んだのであろう。しかし、棋士のすべてが先手組と後手組にわかれているわけではない。先手になることもあれば、後手にまわることもある。後手の棋士がよく勉強し、先手の棋士は怠けているということはありえない。何故、後手の勝率が先手よりよくなったのかは、私にとっては謎である。そんなに後手がほんとうによいのなら、先手は第1着をあまり悪影響の少ない1八香か9八香と指し、あとは「後手になった心算」で指せばよい。おそらく後手は、先手の第1着が悪手になるように指すであろうが、それでも先手は、「後手の利」を先取りする分だけ有利のはずである。後手の勝率がよいというのは、まことに不思議なことだ。「昔では考えられない。これも将棋の難しさか」と西村一義専務理事が驚きをかくさないのは、むしろ当然である。私は、2008年度に、後手の勝率が先手を上回ったのは、「100年に1度あるかないか」の出来事であって、一時的な現象だと思う。やがて、先手0.510位の勝率に落ち着くのではあるまいか。

 不均等発展は、どの世界にもある。国際法学界をみても、戦後、飛躍的に進歩を遂げたのは、海洋法研究であった。国連の立法作業が、この分野で進んだこともあって、小田滋、中村洸、高林秀雄らの先達に率いられて、多くの俊秀が、この分野の研究水準を高めた。それにひきかえ、戦争と社会的に決別した戦後は、戦時法の研究は低迷した。私の時代では宮崎繁樹の業績が先端的で、竹本正幸、藤田久一らの出現はしばらく後のことである。しかし最近では、武力紛争法や国際人道法の研究者も増え、研究水準も飛躍的に上昇した。

将棋の研究の不均等発展もそのうちに解消されることだろう。なにしろ、勝負に生活をかける多くのプロたちが日夜研鑽しているこの世界のことだから。(2009年4月6日)。

休載

2009年03月30日 | Weblog
前号の「あとがき」に書きましたように、インターネットがたちあがらないトラブルに見舞われました。これを読んだ読者の1人(業者ではないので、特に名を秘すことにします)から、書簡を頂き、懇切に対処法を教えていただくことができました。対処法は、応急措置なので、毎回手間がかかりますが、とりあえず危機を脱することはできました。しかし、パソコンも体調も好調とは申せません。とりあえず今週は、休載させていただきます。来週、またアクセスしてみて下さいますよう、お願い申し上げます。(2009年3月30日)

無神経力

2009年03月23日 | Weblog
自民党の大分県連の年次大会の特別講演で、同党の笹川尭・総務会長が、「学校の先生には、鬱病で休養している人がたくさんいらっしゃる。国会議員には1人もいませんよ。気が弱かったら,務まりませんから。」と発言したという。「苦しいときこそ智恵が出るものだ」などと続けたのだそうだ。(3月15日朝日新聞)。鬱病患者への理解のない発言として批判を受けそうだ」と同紙の記者はコメントする。総務会長の発言についての記者のコメントとしては貧弱の感がないではない。的外れとさえ思う。

確かに、国会議員で気の弱い人は、絶無ではないにしても、少数であることは、指摘の通りである。細かいことに神経を使っていては国会議員は務まらない。都合の悪いことは「記憶にございません」と突っぱねる神経、いや無神経力こそ国会議員=政治家の不可欠の資質である。この資質は、しばしば「世襲」によって、遺伝子で継承されるから、ますます「無神経力」が、すぐれた政治家の不可欠の一般的条件となる。ちょうど歌舞伎の役者の世襲と同じで、幼い頃から身に付いた教育や環境から、この資質は形成されるのであろう。笹川会長自身が、このような資質に恵まれていることは、はしなくも、この発言の中に現れている。笹川会長の発言は、鬱病への偏見として評価すべきものではなく、国会議員に対する皮肉として評価すべきであろう。その限りでは、その発言は、あたっている。

国会議員=政治家は、特殊な職業であり、無神経力が不可欠の資質であるにしても、そのような人々が、その職業を選べばよいだけの話である。しかし、教員に政治家並みの無神経力が必要だということになると捨て置けない問題だ。普通の神経を持った人々が務まらない職業にしてよいはずはない。教員を「無神経な人々」だけで構成される職業集団にすることは、教育現場の崩壊につながる、あるいは既に教育現場が崩壊していることのあらわれである。

大学紛争の頃に、私は「鬱病」のような症状を経験したことがある。幸い、周囲の友人たちの支えで、大事にいたらず回復することができた。そのときに痛感したのは、時として人間が難題に遭遇することは避けられないことだが、一つの難題だけなら、なんとか解決して乗り切ることができる。二つの難題までは、なんとかなりそうである。しかし、同時に3つの難題を処理しなくてはならなくなると、処理能力の限界を超え、ついにはノイローゼや鬱病にかかることになるということであった。おそらく教員は、多くの非常識な子供たちを指導し、時としては干渉過多の保護者に接し、職場の人間関係にも悩み、かくて、3つと云わず、抱えきれぬほどの多くの難題を処理しなければならなくなるのであろう。対応能力を超えれば、鬱病になる。個人の対応・処理能力や資質=無神経力に依存することは、無理である。それを無視して、「特殊な資質」の政治家と比較しても説得力はない。

総理大臣が、途中で職責を放棄し、「投げ出す」ことが多いのも、難題が3つ以上そこに集中するからである。並みの大臣が、「投げ出す」ことは、稀である。時として、自殺に追い込まれることもないではないが、それは、めったにない。難題の数が、限られているからであろう。年金、雇用、医療の3難題を引き受ける厚生労働相などは、超人的な「無神経力」を持っていなければ、務まるわけはない。さしあたり、その権限と責任を複数の大臣に分散すべきだと思う。いくらか暇そうな大臣に分けてもよい。まずそれまでは、ご苦労ながら、升添大臣の自愛を祈るほかはない。



[あとがき]  これに関連して、「日本生物学的精神医学会」のホームページを閲覧した。それによると、国会議員が鬱病にかからないという根拠はないという。「朦朧会見」で国際的に知られた中川前財務相の父・中川一郎が自殺した例。安倍内閣で農林水産相だった松岡利勝や、安倍・元首相などの例もあげられている。(精神科医・和田英樹のブログ)。鬱病は誰でもかかる可能性がある。厚生労働省の調査によると、鬱病などの気分障害にかかる割合は、5~6人に1人で、かかりやすいのは、「几帳面で真面目、責任感が強い」「考え方に柔軟性が乏しい」「開き直りができない人」だが、特別な人がかかる病気ではないと説明されている。してみると、鬱病にかかりにくいのは、「几帳面でなく、不真面目、責任感が乏しい」「考え方に柔軟性がある」「開き直りができる人」ということになる。なんとなく、笹川会長のいうように、たしかに政治家には「かかりにくい人」が多いように思われる。



[あとがきのあとがき] ここまで書いた時点で、私のパソコンが反逆し、突如インターネット機能が働かなくなった。「迷惑メール」は、数百通も順調に到着するのに、インターネットをつなごうとすると、「パスワード」や「ユーザー名」を、理不尽にも、「安全ではない」方法で送信せよと要求され、つながらないのである。私は、ブログの管理を、上智大学の院生に依頼しているので、彼女に連絡するメール送信が可能なかぎり、ブログも継続する心算だが、もし途絶えるとすれば、もっぱら機械的な原因である。私自身は私のブログを閲覧できない状況になる。読者で、この難題を解決してくれる方はいないだろうか?私を「鬱」から救い出して欲しい。(2009年3月23日)

朱鷺(とき)の焼き鳥

2009年03月16日 | Weblog
東京中央郵便局の建て替えをめぐって、鳩山総務相が、「朱鷺を焼き鳥にして食うようなものだ」と反対し、さらに、「朱鷺が焼き鳥になってはいけないが、剥製になって文化財として残る方法で再開発してもらう」と記者会見で発言した。結局、この線で、事態は収拾されるようである。ところが、自民党の大島理・国会対策委員長は、この件について鳩山国務相を注意したという。大島委員長が、11日の自民・公明両党の幹部会合で報告した。なんでも与党内からは、鳩山国務相の発言について、「鳥獣保護の観点から不快に思う人がいるのではないか」との指摘がでていた。

これについて、私のコメントは2点に及ぶ。第1は、朱鷺を焼き鳥という表現である。私は、この総務相の発言を最初に聞いたときには、新鮮な共感を覚えた。珍しく「鋭角的な」表現だと思った。まことに私好みの表現である。しかし、それだけに摩滅も早い。テレビは何度でも、この言葉を繰り返し、繰り返し放映する。「またか」と思うと、本来は朱鷺を焼き鳥にする話ではなくて、焼き鳥にする「ようなものだ」という譬えが、ほんとうに朱鷺を食べる場面さえ連想させるのか、「鳥獣保護の観点から不快に思う人」から「揚げ足」を取られることになるのであろう。こんなことに目くじらを立てる人々は、本来の表現に無神経な人々である。いかにして、ことの本質を訴える適切な表現はないものかと苦心することなく、退屈な表現に安住する人々である。

総務相の比喩に快哉を覚えた私も、朱鷺を「剥製」にする云々の比喩には、抵抗を感じる。「剥製」にすると云っても、死んだ朱鷺を剥製にするのと、生きた朱鷺を殺して剥製にするのとは、まったく異なる。「死ぬのはいたしかたない。せめて剥製にして保存しよう」という比喩ならわかる。世の流れはとめることはできない。死ぬものは死ぬ。歴史的建造物の東京郵便局も、永遠にこのまま生きながらえることはできない。死んだものは死んだのだ。小手先の保存は諦めるほかはない。総務相の「朱鷺」発言も、いつまでもこだわるべきではない。そろそろ剥製にして保存しておくべきである。

第2のコメントは、自民党の国対委員長の地位である。これまでも官房長官が、他の閣僚に「注意」をする場面は、しばしばあった。私は、それについても違和感を覚えていた。官房長官は、他の閣僚と同列であって、上位になるわけではない。注意をするのは、総理大臣や党総裁であって、同位者の官房長官ではない。せいぜい、総理・総裁の『注意』の意思を伝達するのが限界である。ましてや党の国対委員長が、せっかくの閣僚の苦心の表現に対して「あまりに常識的な」注意をするのは、いかがなものか。注意すべきは、「朱鷺発言」より他に一杯あるのではないか?それさえも国対委員長の分を超えるものと思われる。(2009年3月16日)。