函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む50代店主の趣味と感じたことの
日記です。

真田丸、何故?斬首だったのでしょうか!!

2016-09-19 | 歴史

徳川軍に大勝利を収めた昌幸ですが、西軍が半日で負けた

事が中々理解できない様です。

年齢からしても最後の大戦に掛けた昌幸の無念さが滲み出

ていましたね

信繁に諭され後を信幸に託しますが、開口一番「この役立

たずが!!」と信幸の微妙な立場も考えず罵声を浴びせます

直後に「済まぬ!!」と頭を下げる昌幸ですが、犬伏での約

束を思い出したのでしょうかね?

頭では分かっていても心がついて行かなかったのでしょう

か?

自分達は勝ったのに敗軍の将として流罪になる事を受け入

れるにはもう少し時間が掛かりそうです

 ところで…

関ケ原の後、逃亡していた石田三成・小西行長・安国寺恵

瓊は捕まり引き回しの上処刑されましたが、何故?切腹で

はなく斬首だったのでしょうか??

関ケ原の戦いは豊臣VS徳川ではありません。

家康はあくまでも五大老筆頭であり秀頼の後見人

豊臣政権の筆頭として処分を下した事になります。

建前上、三成ら三名は秀頼の名を騙って騒乱を起こし、豊

臣政権を混乱に貶めたという理由で処刑されたのです

五大老で表面上西軍の大将だった毛利輝元や上杉景勝も減

封にはなりましたが、処刑はされていません

関ケ原で西軍の主力として戦った宇喜多秀家ですら島流し

の処分で済んでいます

自害した長束正家は別として家康の目的は大々名を潰す事

ではなく、豊臣家への忠誠心が強すぎる原理主義者達の一

掃が目的だったのではないのでしょうか??


通説では…信幸が自身の恩賞と引き換えに昌幸・信繁の助命

を嘆願したとされていますが、流罪になったのにはそれなり

の訳があった様です。

関ケ原の戦後処理では首謀者以外で処刑された武将はいませ

二回にわたって徳川軍を翻弄した昌幸ですが、関ケ原の戦い

では西軍に加担した一武将にすぎません。

そもそも二度の上田合戦では昌幸に運が味方しただけの様な

気もします。

第一次では石川数正の出奔、第二次では戦局が思ったより早

く動いたため局地戦の上田城攻めに関わっている時間が無く

なっただけ…

絶妙なタイミングのお陰で昌幸は命拾いしたとも言えます

長期戦になれば間違いなく真田家は滅亡していた筈。

昌幸は強運の許に生まれたといっても良いのかも知れません

しかし、その強運も長くは続かなかった様ですね

昌幸は西軍が負けたのを知ると東軍に恭順の意を表し投降し

ます

首謀者でもなく投降した武将を豊臣政権筆頭の家康が処刑す

る筈がないからです

昌幸の強運は二回の上田合戦で使い果たしてしまったのでし

ょうかね??



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