函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む50代店主の趣味と感じたことの
日記です。

真田丸、挑発したのは豊臣かも??

2016-10-17 | 歴史

幸村が九度山を抜け出したという情報が広まっている中、

大阪城に入る幸村は老け顔メイクでしたね

14年もの隠遁生活ですっかり老け込み、杖を突きながら

入城する姿を見て周りはさぞかし驚いた筈です

片桐且元を追放した後、豊臣家を牛耳っていたのは大蔵

卿の息子・大野治長ですが、誰の目から見ても若輩過ぎ

ますよね

「豊臣には全軍を率いる武将がいない。血で血を洗う戦

にはなるまい!!」と言っていた信之ですが、まさか!!弟の

幸村が入城するとは思わなかったでしょうね

どうやら家康も信之と同じ思いの様です

しかし、烏合の衆を束ねるのは至難の業。

一騎当千の武将も含め10万もの兵を束ねるのは不可能です

流石の幸村でも荷が重そうですね

ところで

関ケ原の戦いが終わると家康は、西軍に味方した大名達の殆

どを取り潰し東軍の大名達に恩賞として与えます

そればかりではありません。

豊臣家の直轄地も秀頼からの御褒美として分け与えてしまっ

たので豊臣家としては普通の大名並みの領地しかなくなって

いたのです

秀頼様からの御礼と称し気前よく分け与えたのですから豊臣

家としてはたまったものではありませんよね

しかし、領地が減ったとはいえ財力では徳川と比べても見劣

ってはいません

当時の日本の首都・大坂には商人は勿論ですが、浪人達も溢

れていた筈。

財力にものを言わせ軍事力を増強するには格好の状態だった

訳です。

 

冬の陣の発端は有名な方広寺鐘銘事件ですが、家康が難癖を

つけ豊臣を挑発したと言われていますが、本当なのでしょう

か??

清韓が書いた文章の中に(国家安康)家康と(君臣豊楽)豊臣の

字が有るのは事実ですし、後に清韓が「祝意を込めて家康

の名を入れた!!」とも言っています

問題なのは豊臣は姓で家康は名前だという事です。

建前上豊臣家の家臣とはいえ現実的な天下人は家康だと誰も

が思っていた筈

これはかなりの非礼にあたります

しかも家康の名前だけがという文字で分断されているので

すから、確信犯だと言われても仕方ありません

見方を変えれば徳川が挑発したのではなく豊臣が挑発したと

見る事も出来るのです。

清韓一人の考えなのか?豊臣家の誰かの指図なのかは分かり

ませんが…

単に徳川に一泡ふかせてやろうと思った事が大きくなっただ

けなのかも知れませんが、策士策に溺れた感じもします

何れにしても、この事を逆手に取られ滅亡に向かったのです

から、豊臣家からすれば清韓の書いた書は悔やんでも悔やみ

きれません

ペンの恐ろしさはこの時代にもあったという事でしょうかね??




ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 真田丸、且元の裏切り?? | トップ | 真田丸、真田フランコ!! »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。