小説: 湘南ラピスラズリ

湘南、鎌倉を舞台にした純情ラプソディー/絵を書くことが大好きな高校生の、甘く切ない恋の詩

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第5章 ラピスラズリ

2012年02月17日 10時42分27秒 | 小説

第5章 ラピスラズリ

 翌週の月曜日。
 純太は、昼の弁当を急いで食べてから、美術室に直行した。
 美術室と教官室の間に、美術準備室という部屋があり、そこが、美術部の部室になっていた。
 秦はいつも、昼食後に教官室でコーヒーを淹れて飲むのが日課なので、岳実は、準備室で、秦がくるのを待った。

 後輩部員の海老名が、今春、新発売されたゲームウオッチを持ってきて遊んでいた。
 液晶画面に出てくるキャラクターをボタンで動かして遊ぶゲームだった。
「おい、海老名。ちょっとやらせてくれよ」
「仁科さん、ゲームに興味持つなんて、意外っすね」
「じゃ、僕は何に興味を持ったら意外じゃないんだよ」
「美術か、エロ本ぐらいっすかね?」
 海老名は、卑猥に笑った。
「僕は、絵一筋だから、エロ本なんて読まないよ」
「そんなこと言っても、知ってますよ。机の引き出しの一番奥に、こっそり買ったエロ本を隠してること」と微笑んだ。
「お前、いつの間に、勝手に人の部屋に入ったんだ」
 純太は声を荒げた。
「本気にならないで下さいよ。当てずっぽうに決まってるじゃないっすか。でも、仁科さんも、結構、好きもんすね」
 海老名が、そう言うと居合わせた後輩たちがドッと笑った。

 準備室には、女子の部員が数人いて、弁当を食べていた。
 彼女たちは、下品な者を見るような目付きで純太たちを見た。
「ヌ、ヌードを頼むわけにも行かないだろう。エロ本も美術のために、しょうがなく買ったんだよ」
 純太は、言いつくろった。
「俺も仁科さんと同じっすよ。股間の倅(せがれ)が、美術のために買ってくれって騒ぐんで、しょうがなく買ったんすよ」
 海老名は、わざとらしく女子の方を向いて、股間を手で誇張して大きな声で言った。
「はー。何で、うちの部の男子はこんな下品なのしかいないのかねぇ」
「野球部の根岸さんみたいな、ハンサムな人がいればなぁ」
「美術部に入れば、ヌード描けると思って入部してくるような馬鹿ばっかりだもんねぇ」
 女子部員は、一斉に男子に軽蔑の眼差しを向けた。
「ねぇ、そこのプリマドンナたち。仁科さんが、どうしてもヌードを描きたいらしいから協力してあげてよ。仁科さんなら、ボッティチェルリの『ビーナスの誕生』の女神のように描いてくれると思うよ。あっ、でもモデルが、『アヴィニョンの娘たち』みたいな女しかいないから駄目か」
 海老名は、皮肉を言ってゲラゲラ笑った。
「ひどい、アヴィニョンの娘ですって。最低。行きましょう」
 女子たちは準備室から出て行った。

  


「おい、海老名。調子乗って言い過ぎじゃないか。謝ってこいよ」
 純太は、言った。
「いいんすよ。あれぐらい言っておいた方が、男に免疫が付くんですよ」
「でも、さっきのは言い過ぎだろう」
「分かりましたよ。後で、謝っておきますよ。でも、最初に、俺たちを馬鹿にしたのは、あっちの方っすよ」
 海老名は、釈然としない顔をしていた。
「お互い様だな。まあ良いや。取り合えず、その液晶のゲームやらせてくれ」
「液晶って何すか?これはゲームウオッチですよ」
「その画面が液晶っていう材料で作られているんだ。僕の父さんが、会社で液晶の開発をしているんだ」
 純太は自慢して言った。
「へぇ、仁科さんのお父さんって、エンジニアやってるんすね。それで、この液晶はどういう原理で動くんすか?」
「えっ、そうだね…僕は、文系だから、よく分からないな」
 純太は、頭をかきつつ、今度、父親に聞いてみようと思った。

 純太が、海老名から借りてゲームをしていると秦が来た。
「先生、話があるんですけど良いですか?」
「良いよ。じゃあ、教官室で聞こう」
 純太は、秦の後ろに続いて教官室に入った。
「先週もちょっと話したんですけど、クラスデコで敦煌の壁画を描くことになったんですよ。それで、先生が敦煌の本を持っているって言っていたのを思い出したんです。参考にしたいんで、どんな本か見せてもらいたいんです」
「いいとも。壁画や塑像の写真図鑑だよ。確か、教官室の本棚の一番上に仕舞っていたはずだ」
 秦は、脚立を立てて、高い位置の本棚をガサゴソと探した。
 大きくて厚い本を出して、机上にドスンと置いた。
 先週、書店で見つけた1万5千円もする本だった。
 敦煌莫高窟写真図鑑~その1・前期と書かかれていた。

「いやぁ、灯台下暗しだなぁ」
 純太は、本を手にして言った。
「どういう意味だ?」
 秦が、不思議そうに尋ねた。
「実は、鎌倉の図書館にいい本がなくて、横浜の県立図書館に行ってもなくて、それで横浜駅前の書店まで行って本を探したんです。ようやくそこで、この本を見つけたんですけど、高くて手が出なかったんですよ。さすが、先生、独身貴族ですね」
「なるほど、そういうことか。教師は安月給だけど、たまに自分にご褒美を買わないとやってられないからな」
 秦は、苦笑した。

 純太はページを捲って眺めた。
 写真の中の壁画は、所々が剥げ落ちたり、色褪せてはいたが美しかった。
 特に、淡いエメラルドグリーンのような色彩と、吸い込まれそうな群青色が、純太の目を強く惹き付けた。

     

「青が物凄く映えていますね」
 純太は、言った。
「あぁ、この深い青はラピスラズリを使って描かれてるんだ」
「ラピスラズリですか?」
「宝石から作り出される高価な絵具だよ。アフガニスタンのバダフシャン地方でしか取れない貴重なものなんだ。ツタンカーメンの黄金の柩にもはめ込まれているし、日本にもラピスラズリで飾られた宝物が奈良時代に伝来し、正倉院に現存している。ちなみに日本では、このラピスラズリの事を瑠璃って呼んでいる」
「よく瑠璃色って言いますもんね」
 純太は、写真集の深い青色を眺めながら言った。
「西洋画の世界では、ラピスラズリから作った絵具をウルトラマリンと呼んでいて、中世の画家たちは挙ってラピスラズリを使ったんだ。ちなみに日本では、群青色と呼ばれている。今は合成顔料が開発されて群青色の絵具は簡単に手に入るが、昔は高価だったんだ。それに、この青は、そんじょそこらの絵具では出せない色だ」
「確かに市販されてるような絵具じゃ、この溜息が漏れそうな深い青色は出せないですね」
「敦煌に壁画が描かれ始めたのが、5世紀と言われているから、1500年も前の話だ。それがまだこうして、鮮やかに原色を保っているんだから、凄いことだよ」
 純太は、敦煌の壁画に見蕩れて、うっとりとした溜息を漏らした。


「敦煌の壁画っていうと、端正な仏の絵ばっかりだと思ってたんですけど、力強いタッチで何だか躍動的ですね。日本の仏画とは随分と違いますね」
「この壁画が描かれたのは、敦煌に壁画が描かれた時代の中でも、最初の頃のものなんだ。5世紀から6世紀に掛けて描かれたといわれている」
「5、6世紀って行ったら日本は、まだ大和時代の頃ですよね。銅鐸とか埴輪とかはあったかも知れないけど、ここまで美術的な絵画はなかったんだろうな」
「日本でも縄文時代の火焔型土器や土偶なんかは、工芸を通り越して芸術の域に達しているものもある。しかし、純粋な絵画はなかった。まぁ、美術品と呼べるような絵画や彫刻が現れるのは、渡来人が多くやってくるようになった飛鳥時代ぐらいからだね。飛鳥時代の日本の仏像は、アルカイックスマイルって言われる、薄笑いで細目の顔をした仏像が多いが、この時代の敦煌の仏像は、目もギョロっとしている。それに、椅子に座っているだろう」
「そうですね、普通、仏像って言えば、大仏みたいに胡坐をしてるか、地蔵さまみたいに立ってるかですよね。でも考えると不思議ですね。日本人は正座する習慣があるのに、正座してる仏像は見たことないですね」
 純太は言った。
「何故、正座の仏像がないのかは分からないが、もしあったなら、一発で日本人が造った仏像だと分かるだろうな。ちなみに、この仏像のように、足首で両脚を交差して座っている仏像は、日本では見られない特徴なんだ。これは、遊牧騎馬民族のものと言われている」



 純太は、遊牧騎馬民族と耳にして、チンギスハンを連想した。
 しかし、馬に跨って大草原を疾駆する姿と、袈裟をまとって托鉢する坊主の姿が、どうしても噛み合わなかった。
「ちなみに、この仏像は、交脚弥勒菩薩坐像(こうきゃく みろく ぼさつ ざぞう)と呼ばれている」
「何だか、舌を噛みそうな名前ですね」
「噛み砕いて言うと、脚を交差させて、座っている弥勒菩薩の像ってことだな」
「その弥勒菩薩って言うのは何者なんですか?この写真だと、東洋人離れした顔をしてますけど。何だか、ウルトラマンみたいな顔ですね。若しかして、マゼラン星雲からやってきたんですかね」
 純太は冗談を言って一人でニヤ付いた。
「実は、弥勒菩薩は宇宙人という説もあるんだ」
「本当ですか?」
 純太は、目を丸くした。
「何てね、冗談に決まってるだろう」
「だ、騙さないで下さいよ」
 純太は、膨れっ面をした。


「すまん、すまん。お前の冗談に便乗してしまったよ。それで話を戻そう。仁科は、元々、仏教の発祥はどこか知っているか?」
 秦が質問した。
「えーと、確かインドだったかな」
「インド北部のネパールが発祥の地だ。そこから、先ずはインドに広がり、ガンダーラやバーミアンに伝わった。更に、シルクロードを通って西域に伝わり、中国に広まっていったんだ。昔は、中国で西方浄土とか天竺といわれた由縁だな。つまりは、敦煌の仏像が、インド人の容貌をしているのは不思議なことではないんだ」
「なるほど、確かに、ウルトラマンと言うよりは、インド人の顔ですね」
「初期の頃の敦煌は、インドのグプタ美術の影響が色濃く出ている。この脚を組んで座っている仏像もそうだし、他の仏像もそうだ。インドの神と中国の神が渾然一体となって描かれているんだ。それに加えて、天井には、中国に古来から伝わる神仙怪異、つまり、物の怪の類いだな。雷神、麒麟、不死鳥なんかが描かれている。更にその周りを賑わせているのが、羽衣をまとって踊る飛天や、楽器を演奏する伎楽天だ。シルクロードの八百万の神、ここに見参って感じだろう」

   
「この頃の絵は、タッチが太くて図柄も大胆というか大雑把っていうか、何とも不思議な画風ですね」
「うん、見事にデフォルメされた絵になっている。20世紀初頭のパリ画壇に巻き起こったフォビスムの画風に似ているとも言われているんだ」
「と言う事は、パリの芸術を、1500年も前に先取りしていたってことですか」
「一説には、絵具が長い年月を経て変化したことで、こんな未来的な絵になったという説もあるらしいが、科学的な発展が、必ずしも芸術の発展には結びつかないということだな。芸術を表現するには道具が必要だが、最も大切なのは、表現したいという人間の魂だからね」
 秦は、したり顔で自分の言った言葉に頷いた。


「所で秦先生、さっきの質問の答えを聞いてないんですけど?」
「あれ、何だっけ?」
「弥勒菩薩は何者かって話ですよ。ウルトラマンなのか、はたまたインド人なのか」
「実はな…俺も良く分からないんだ。確か、仏教界の救世主みたいな存在だった気がするな」
「救世主だったら、早く本物として出てくれば良いのに」
 純太は、写真に向かって皮肉を言った。
「全くだ。もし現れたら、俺は、まずは生活費を救済してもらうように頼んでみるよ」
 秦は、自虐的な笑みを浮かべた。
「その後は、教師を辞めて悠々自適に絵を描くっていう訳ですね」
「よく分かったな、その通りだ」
「秦先生の夢は、タコが出来るぐらい聞かされましたからね」
 純太は、自分の耳朶を摘んでわざとらしく震わせた。


 秦は美術教師をしながら、放課後に、せっせと絵を描き続けていて、日展に応募していた。
 日展というのは、日本美術展覧会の略で、日本で最大の公募展だ。
 毎年、東京会場を皮切りに日本各地の都市会場で展覧会が開催される。
 画家を志す新人にとって、日展で入選することは、画家として自立することへの第一歩なのだ。
 秦は、画家になる夢を叶えるべく、エネルギッシュに絵筆を握っていた。
 今年で、32歳になるが、未だ嫁も貰わずに、夜な夜な遅くまで美術室に残り、キャンバス相手にデートを重ねていた。
 彼は、湘南の風景を描いては、毎年、日展に応募していた。
 

「先生、他の本はないんですか?」
「中期と後期は、別の本棚にしまってあるはずだから、後で探してみるよ」
「ありがとうございます」
「学祭に熱中するのは結構だが、秋の展覧会に向けての絵も怠らずに進めてくれよ」
「分かってますよ。実は、これから、そのモチーフを探しに行くつもりだったんですよ」
 美術部の課題として風景画が指定されていた。
 展覧会には、何の絵を出展してもいいのだが、湘南のモネを自称する秦の方針で、風景画が指定されていた。
 純太が教官室を出る際に、秦が言った。
「準備室に戻ったら、海老名に、教官室に来るように言ってくれ」
「女子に何か言われたんですか?」
「あぁ。ちょっと灸を据えてやらないといけないな」
「海老名が一方的に悪いわけじゃないと思いますけど…」
「仁科、お前も居合わせたのか?」
「はい。確かに卑猥なことを言った海老名は悪いですけど、売り言葉に買い言葉っていうか…どっちもどっちというか」
「なるほど、何となく分かったよ。喧嘩両成敗ということにしておくか。仁科、ありがとう。行っていいぞ」
 純太は、準備室でゲームに興じていた海老名に声を掛けて、秦が呼んでいるということを伝えて、教室に戻った。

 第5章 終了

 → 第6章 敦煌の歴史 へ


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