小説: 湘南ラピスラズリ

湘南、鎌倉を舞台にした純情ラプソディー/絵を書くことが大好きな高校生の、甘く切ない恋の詩

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第6章 敦煌の歴史

2012年02月17日 10時42分14秒 | 小説

第6章 敦煌の歴史

 純太は、昼一の授業が終わってから、亜美に話をした。
「亜美ちゃん、朗報だよ。先週、横浜の本屋で見つけた敦煌の写真図鑑を、秦先生が持っていたんだ」
「本当、良かった。皆にお金の相談しなきゃいけないと思って、先週末からずっと憂鬱だったんだ。はー、肩の荷が降りたわ」
「今日の放課後に一緒に見に行かない?」
「うん、お願いするわ」
 亜美が答えた。
「仁科くん、私も一緒に見に行って良いかな?」
 亜美と一緒にいた知佐子が聞いた。
「うん、もちろんだよ。知佐子ちゃんは、美術を選択してるし、絵も上手だから期待してるよ。是非、一緒に来てよ」
 純太は答えた。

 放課後、クラスデコのメンバーでミーティングをした。
 亜美のアイデアで、教室を、あたかも敦煌莫高窟のように造りあげるという事は決まっていたが、どう実現するか意見を出し合った。

 議論の途中で、かったるそうにしていた根岸が席を立って言った。
「みんな随分と気合入ってるな。壁に絵なんか描かなくても、でっかい写真を貼っておけばいいじゃん。そっちの方が、楽だし綺麗だしさ。まぁ何れにしても、俺は、そろそろ部活の時間だから失礼するよ」
「ちょっと、ケン。みんな、一生懸命、話し合ってるのに、そんな言い方はないでしょ」
 亜美が、諌めた。
「何だよ。合理的な方法を提案しただけじゃないか。それに、お前が一緒にやろうっていうから、仕方なく、デコに付き合ってやったんじゃねぇか」
 と面倒くさそうに答えた。
「だって来年は受験が控えてるから、二年の今が、みんなと一緒にできる最後の学祭なんだよ。ケンも一緒にやろうよ」
「あのな、前にも言ったけど、学祭には興味ねぇって言ってるだろう。それに、シルクロードだかコットンロードだが知らねぇけど、俺には、どうでも良いんだよ。悪いけど、俺は野球で忙しいんだよ。壁画がどうだ、天井がどうだっていう不毛な議論をしてるほど暇じゃない。それに、俺はエースだから、学祭の準備如きで休む訳にはいかねぇんだよ。甲子園の切符を手にするって目標があるからな」
「私だって部活あるし、みんなも部活はあるけど、残ってやってくれてるんだよ」
 亜美は、あからさまに不機嫌な顔をした。

「悪いけど野球部は、山岳部のトレーニングみたいに、各自が走れば良いってもんじゃねぇんだよ。それに他の連中は、美術部とか文化系の部活だろう。別に、ちょっとぐらい休んでも良いじゃん。俺には甲子園という、でかい目標があるから一日たりとも休む訳にはいかねぇんだよ」
「ちょっと、ケン。あんた、さっきから聞いてれば、言いたい放題じゃない。山岳部はただ走ってるだけじゃないのよ、ちゃんと頭も使ってるんだから」
 山岳部の知佐子が、文句を言った。
「分かったよ、二人してそんなに目くじら立てるなよ。まぁ、何れにしても。俺は、ここで抜けさせてもらうわ。絵を描くのは美術オタクの仁科に任せておけばいいじゃん。仁科、後はお前に任せたからな。じゃ、宜しく」
 根岸は、悪びれる様子もなく教室を出て行った。
「全く、あの野球馬鹿」
 亜美は、根岸の背中に寂しそうな視線を投げかけた。


 根岸が去ってからも、話し合いは続けられた。
 教室の四面に壁絵を立てかける事になったが、どのようにして壁絵を作るのかを議論した。
 紙に描いてから、ベニヤ板に張るのか?
 ベニヤ板にキャンバスのように厚紙を貼ってから絵を描くのか?
 という議論が交わされた。

 純太は、より本物の壁絵に近付けたかったので、板裏を補強したベニヤの上に薄く漆喰を塗って、その上から絵を描こうと提案した。
 そうすれば、敦煌莫高窟の壁画により近いものが再現できる。
 きっと教室に足を踏み入れた人は、本当に石窟の中に迷い込んだと錯覚するに違いない。
 他のメンバーは、漆喰まで塗る事に抵抗があるようだったが、純太は、よりリアリティーのある莫高窟が再現できると力説した。
 熱心な純太の説明を聞いているうちに、亜美が、純太の言葉に頷いた。
 リーダーの亜美が納得したことで、他のメンバーも了承してくれた。

 結局、その日の打ち合わせでは、ベニヤ板をどういう大きさで何枚作るとか、描いた壁画をどういう風に固定するかという話に終止した。
 絵よりも先ずは、それを飾るための土台作りについて話し合った。
 
 クラスデコの打ち合わせが終わってから 純太は、亜美と知佐子と一緒に美術室に向かった。
「へぇ、ここが美術室かぁ。この匂いって何かな?」
 亜美は、鼻をくんくんさせて尋ねた。
「これは、油絵の絵具の匂いだよ」
 純太は、教えた。
「そうか、これが油絵の匂いなんだ」
「亜美は芸術科目で書道を選択しているから、美術室に入るのは初めてなんだね」
 知佐子が言った。
「とっても新鮮な感じの良い匂いね」
「じゃあ、今回が亜美にとって、油絵の匂いの初体験だね」
 知佐子が、悪戯っぽい微笑を浮かべながら亜美を見た。
「そうだ、思い出した。先週、図書館に行く時に、江ノ電の中で嗅いだ匂いと同じだわ。そうか、あれは、仁科くんに付いた油絵の匂だったんだ」
 亜美は嬉しそうに言った。
「じゃぁ、油絵の匂いの初体験の相手は、仁科くんってこと?」
 知佐子は、ふざけて言った。
「そうね、初体験の相手は、仁科くんね」
 亜美も悪ふざけに乗って笑った。

 隣で耳をそばだてていた純太は、大人びた二人の会話にドキッとした。
「僕は、この匂いに慣れちゃってるけど、ちょっと臭いでしょ?」
「私は好きよ、この匂い」
 亜美は、鼻をクンクンさせて、美術室の空気を吸った。
「油絵の匂いが好きなんて、さすが匂いフェチの亜美ね」
 知佐子は苦笑いをした。
「何よ、人を変態みたいな言い方して」
 亜美は唇を尖らせた。
「亜美の匂いフェチ振りは、変態みたいなもんでしょ」
「もう、酷い。知佐子の意地悪。仁科くんも何か言ってやってよ」
 亜美が言った。
「僕、変態は、そんなに嫌いじゃないよ」
「酷い。仁科くんも、私を変態扱いするのね」
 亜美が唇を尖らせた隣で、知佐子が笑いを堪えていた。
「いや、そういう意味で言ったんじゃないんだけど…」
「もう良いわよ。変態で結構です」
 膨れっ面をした亜美の隣で、知佐子が腹を抱えて笑っていた


 亜美と知佐子には美術室で待機してもらって、純太は一人で教官室のドアをノックした。
「仁科ですけど、先生いますか?」
「あぁ、いるよ。どうぞ」
 教官室に入ると、山口百恵の歌が流れていた。
 秦は、音楽に耳を傾けながら、窓を開け広げて煙草を燻らせていた。
 窓の彼方には、湘南の青い海と空が広がっていた。
 壁には、秦が敬愛してやまない印象派の巨匠モネの作品が二つ飾られていた。
 [ジュアン=レ=パンの海辺]という地中海の風景を描いた作品と、
 〔エプト川のポプラ並木]という作品だった。
 勿論、本物ではなくレプリカだが。


「昼休みに見せてもらった本を見せて欲しいんですけど、宜しいですか?」
 純太は聞いた。
「うん、いいよ。ただし、絶対汚すなよ。高価だし、お気に入りの本だからな」
「ありがとうございます。クラスメートを美術室に呼んで来たんで、借りて行っても良いですか?」
「ああ、いいよ。そうだ、2巻と3巻も見つかったから、一緒に持って行きなさい」
「さすが、先生。頼りになりますね」
「まあな。三冊持って行くのも大変だろうから、俺も一緒に持って行ってやるよ。色々とシルクロードについて薀蓄(うんちく)も語りたいしな」
「すいません、じゃあ、お言葉に甘えて」

 純太は秦と一緒に、写真集を持って美術室に戻った。
 亜美と知佐子は、秦が来たのを見て、殊勝な態度で頭を下げた。
「ありがとうございます」
「良いんだよ、大いに利用してくれ。それにしても敦煌を選ぶなんて、随分と壮大なテーマに挑戦したもんだな」
「私、シルクロードが物凄く好きなんです。正直言って、思い付いた時は、出来るかどうか不安だったんです。でも美術を選択している知佐子に相談してみたら、仁科くんが、めちゃくちゃ絵が上手いって聞いたんで、行けるかもって思ったんです」
 亜美が、純太に目を向けて微笑みかけた。
「仁科、お前、随分と期待されてるじゃないか、責任重大だな」
「そうですね。頑張ります」
 純太は、後頭部を掻きつつ、耳を赤くした。

 秦の解説を聞きながら、三人は食い入るように写真集を眺めた。
「敦煌莫高窟と言うのは、鳴沙山と呼ばれる巨大な砂山の岸壁に造られているんだ」
 秦が、写真を指差しながら説明した。
「でも砂山なのに、穴を開けられるんですか?」
 亜美は、興味深そうに質問した。
「砂山と言っても全てが砂で出来ているわけじゃないんだ。表面は砂だが、深い地層は岩石になっているんだ。ここら辺の山だって、表面は土壌で草木が生い茂ってるけど、その下は岩石だ。それと同じだよ」
「なるほど」
 純太たちは頷いた。


「壁画は、岩石の表面にそのまま描かれているんですか?」
 亜美は、尋ねた。
「敦煌の岩石の成分は、礫岩と言って壁画や彫刻には適してないんだ。砂が長い時間をかけて固まったものだから脆いんだ。だから、まずは内部を土で塗り固めてから、その上に漆喰で化粧壁を造って、それから描いているんだ」
「なるほどね。だから、仁科くんは、漆喰を塗ってから描きたいって言ってたんだね。さすがだね、仁科くん」
 亜美は、尊敬の念に満ちた目線で純太を見た。
「仁科、漆喰を下地にしてやるつもりなのか?」
 秦が尋ねた。
「はい、そっちの方が、より実物に近い物が出来ると思ったんです」
「当然良いものは出来るだろうが、大変だぞ」
「承知の上です。それで、先生に相談なんですけど。漆喰ってどうやって造るんですか?」
「何、そんな事も知らないでやろうとしてたのか」
「はい。先生に聞いてやれば何とかなるかなと思って…」
「この野郎、ちゃっかりしてるじゃねぇか。簡単に説明すると、生石灰に水を加えて捏ねれば出来上がる。化学的に言うと、一酸化カルシウムに水を反応させて、水酸化カルシウムを作るという訳だな」
「作業は難しいんですか?」
「いや、そんなに難しくないよ。市販されている漆喰粉を買ってきて、水と混ぜれば出来るはずだよ」
「じゃあ、簡単に出来るんですね」純太の心にパッと安堵の灯りが点った。
「作業自体は単純だが、捏ね上げる作業とコテを使って平らにするのは重労働だ。それに、漆喰は強アルカリ性だから、肌に触れるとかぶれる危険がある。だから、飛び散った漆喰が付かないように気をつけないといけない。女の子の顔に付着したら、一大事だから、できるだけ男がやった方が良いな」
「じゃ、男子総動員で、やらなきゃいけないな」
「それじゃ、漆喰の件は、仁科くんに任せていい?」
 亜美が、仁科を見た。
「うん、任せておいてよ」
 仁科は、力強くうなずいた。


 その後も、秦の敦煌解説は続いた。
 亜美は、熱心に解説を聞きながら、食い入るように写真を眺めた。
「この仏像は、西洋風の堀の深い顔立ちですね?」
「インドの影響を強く受けているからなんだ。元々、仏教はインド近くのネパールが発祥の地だ。日本では仏教の教祖は、お釈迦様と呼ばれているが、古代インドの小国の王子だった人なんだ」
「ゴーダマシッダールダ、いわゆる、ブッダですね」
 亜美は、したり顔で答えた。
「よく知っているね。敦煌莫高窟が開かれたのは、四世紀と言われている。その頃は、西域出身の絵師が、シルクロードを渡って盛んにやって来たんだ。この絵もグプタ様式を学んだ絵師が描いたと言われている」
「中国で、四世紀というと、五胡十六国時代ですね。あの大戦乱の時代に、よくこんな美しい芸術が花開きましたね」
 亜美は、興味津々な顔付きで質問した。
 

「君は、中々の博学だね。たいしたもんだよ」
 秦が、褒めた。
「私、大学で東洋史を専攻したいと思っているんです」
 亜美は、目を輝かせて言った。
「ほう、それでえらく中国史に詳しいんだ。将来は、教授を目指してるのかな?」
「いいえ、教授なんて滅相もないですよ。大学を出たら、テレビ局に入るのが夢なんです。そこで、歴史にまつわる番組を制作する仕事に付きたいんです」
「へぇ、それは知らなかったよ、亜美ちゃん。テレビ局のプロデューサーだなんて凄いね」
 純太は驚きの声を上げた。

 将来の夢を語れる亜美を凄いと思った。
 純太は、絵が好きだったが、将来は画家になるつもりはなかった。
 ただ単に、好きだから絵を描いているというレベルだった。
「でも、まだ単なる夢よ。本当になれるかどうかも分からないけど、シルクロードの番組を作りたいんだ」
 亜美は、恥じらいの微笑を浮かべながらも、凛然とした口調で話した。
「亜美ちゃんなら、きっとなれる気がするよ」
「ありがとう、仁科くん」と口許に微笑みを湛えた。


 秦は再び、大袈裟な手振りで敦煌の解説を始めた。
「さて、壁画に付いて、少し突っ込んだ話しをすると、前期のものには、原始仏教の宗教色が色濃く反映されている。仏伝やジャータカをモチーフにした壁画が圧倒的に多い」
「その仏伝って言うのは何ですか?」
 純太は、質問した。
「仏伝というのは、ブッダの伝記だ。つまり、ブッタの人生絵巻だな」
「へぇ、じゃあ、ジャータカって言うのは何ですか?」
 純太は、尋ねた。
「ブッダの前世の話だ。有名なものだと、前世でサッタ王子だったブッダが、飢えた虎に、自らの体を与えるという話や、身体に千本の釘を打たせた話とか、残虐な王様に自分の首を千回差し出した話などがある。そういう逸話が壁画になっているんだ」
「前世の話ですか?何だか、空想染みていますね」
 純太は、胡散臭そうな視線を向けた。


「仏教において輪廻転生は、教義の大前提なんだ。前世がなければ、現世も来世もないというのが、仏教の常識だ。それを認めなければ、仏教は成立しない」
 それ対して亜美が答えた。
「でも、仏教と言ってもたくさんの宗派がありますよね。だから、全ての宗派が、輪廻転生を前提にしている訳ではないと思いますけど。特に、日本で開かれた仏教の中には、ただ念仏を唱えれば、極楽浄土にいけるという、極楽の超大安売りをしている宗派もありますよね」
 亜美は皮肉交じりに言った。
「日本の仏教は、ブッダの説いた原始仏教の曾孫みたいな宗教だからね。ある意味、仏教ではなく別の宗教と言っても過言じゃないかも知れない。ただ、どんな宗派であろうと、死後に極楽へ行くための方法を説いているという点では、根本は同じだと思うな。要は、人は死ぬのが怖いんだよ」
「死の恐怖がなければ、宗教は成立しないということですか?」
 岳実は尋ねた。
「極論を言うとそう言う事だな」
 秦は、そう言ってから、2冊目の解説を始めた。

「さてと、次は、中期の写真集を見てみようか。中期に当る作品群は、六世紀の終わり頃から十世紀の初め頃までに造られたものだ。さて、亜美さん。その頃の時代背景を説明できるかな?」
「六世紀の終わりというと、中国は、隋、唐の時代で、日本は聖徳太子のいた飛鳥時代ですね。それと、十世紀の初めと言うと、藤原氏が摂関政治で、日本を牛耳っていた平安時代に当りますね」
 亜美は、きびきびとした口調で答えた。
「さすがだね。さて、敦煌に話を戻すと、唐代になると、その特徴もインド風から脱却して新たな境地に入っているんだ。写真を見れば分かるように、塑像の形が、よりリアルになっているのが分かるだろう」
「本物の人間のような感じですね。強面の仁王もいれば、優しい菩薩もいますね。それに、唐代の物は、何だか色っぽいですね。腰をちょっぴり曲げたポーズなんかは、女性の柔らかい動きそのものですね。それに口紅もさしているし」
 純太は言った。


「このスタイルは、三曲法と呼ばれているんだ。唐代の特徴でもある。実はこの頃が、敦煌が最も繁栄した時代なんだ。敦煌を象徴する九層の楼閣もこの時代に造られたものなんだ。さらに、これを見てもらおうか。ちょっと刺激的過ぎるかな」
 秦は、含み笑いを浮かべながらページを捲った。

 写真には、後光を放つ仏を中心にして、左右に、幾つかの仏像が並んでいた。
 その中の数体は、乳房と乳首を露にさせていた。
 天井には、ラピスラズリで天上世界が描かれていて、腰が括れて胸の豊かな天使が空を舞いながら花を撒いていた。



 純太は、恥ずかしさで何とコメントしてよいか分からなかった。
「この仏像は女性ですよね」
 亜美が、食い入るようにその写真を眺めた。
「日本では有り得ない仏像ですね」
 純太は、呟いた。
「日本の仏教界は女人禁制と言うこともあって、仏像や仏絵からは、性を連想させる肉体の凸凹は、そぎ落とされていったんだ」
 秦が説明した。
「この時代の仏教は、女性にとって開放的だった気がしますね」
 亜美が言った。
「莫高窟は、その時代ごとに、敦煌の有力者が金を出して造ったものなんだ。更に有力者だけでなく、裕福な地元民も金を出し合って造営したことが分かっている。女性達だけで金を出し合って造営した窟もあるんだ。その一つが、供養女人像や、曹氏夫人だ。これらは、後期の作品になるけどね」

    
 秦は、3冊目のページ繰って、多くの女性が描かれた壁画を見せてくれた。
「後期の作品になると、絵柄がガラッと変わったのが分かるだろう」
「人物画が多いですね。風景画や庶民の生活を描いた風俗画もありますね。こうなると、仏教画って感じじゃないですね」
「その通りだ。唐代に描かれた壁画の殆どが経変なんだが、後期は、圧倒的に人物画だ」


「先生。その経変って何ですか?」
「仏典、つまり仏教の教科書を絵にしたものだね。簡単に言うと、仏典を紙芝居化したものだ。経変の中でも一番多いのが、極楽浄土を描いたものだ。まぁ、人間、何時の時代も極楽に憧れるってことだな。俺も地獄なんて死んでも行きたくないからね」
「確かに、僕も地獄には行きたくないですよ。でも、先生。地獄は死なないと行けないですよ」
 純太は、突っ込んだ。
「確かにそりゃそうだな」
 秦は、快活に笑った。
「それにしても、絵師たちは凄い想像力ですね。見たこともない極楽を、こんなにリアルに描けるなんて。とても、僕には出来ないな」
 純太は言った。
「テレビも写真もない時代の人間の方が、想像力が逞しかったということだろうな。おそらく、現代の美術家は、これほどの作品は描けないだろう。今は、スイッチ一つで映像は垂れ流しだ。だが、そのせいで、瞬時に脳裏に焼き付けたり、想像する能力は廃れる一方だと俺は思うな」
 秦は、自嘲気味に笑った。


「さて少し脱線したが、話を戻すと。莫高窟の後期は、10世紀初めから14世紀半ばまでとなっている。さて、後は亜美ちゃんの方が詳しいだろうから、時代背景をお願いするよ」
 秦が、亜美に目配せした。
「10世紀初めに、唐は滅亡しました。その後は、五代十国という戦国時代になります。その戦乱を治めたのが宋です。この宋は、平清盛が朱印船貿易で莫大な利益を上げていた時の相手国です。11世紀半ばになると、西夏というチベット系の国が勃興し、敦煌一帯を支配下にしました。やがて西夏も、13世紀半ばにチンギスハン率いるモンゴル帝国に敗れて滅亡します。チンギスハンが、この西夏遠征の際に亡くなったのは有名な話です。やがて、チンギスハンの孫であるフビライハンが、中国に元と言う国を建てました。その元が、鎌倉時代、日本に攻め込みました。いわゆる元寇ですね。それがきっかけで、鎌倉幕府は滅亡したんです。あの時代、幕府のあった鎌倉は、大混乱だったそうです」
「歴史って複雑に絡み合ってるんだね。歴史の中で、敦煌と鎌倉がつながりがあるなんて想像もしなかったよ」 純太は頷きながら亜美の博識に感心した。


 純太のシルクロードへの興味は、ミーハー的なものだった。
 しかし、亜美は違っていた。
 世界史から包括的に敦煌を捉え、日本との関わり合いも深く洞察していた。
「絡み合いが、歴史の一番面白い所よ。つまり、敦煌の歴史は、シルクロードの歴史そのものって言えると思うの」
 亜美が、言った。
「敦煌が元に支配されてからは、莫高窟の建設は影を潜めてしまった。これは、仏教の衰退というよりも、シルクロードの衰退と言った方が正しい。貿易ルートの主役が、海路になった事で、シルクロードと共に敦煌は廃れてしまったんだ。更に、十六世紀になると、イスラム国家が敦煌を支配した。莫高窟は省みられることもなく、異教徒の遺物として放置されたんだ。それから四百年経った二十世紀初め、流離いの道士が、石窟内の隠し小部屋から多数の古文書や経典を発見した。これが、世に言う敦煌文書だ。この敦煌文書が発見された事で、忘れ去られていた敦煌が、世界の注目を浴びたんだ。」
「20世紀の初めは、中国はかなり混乱していたはずです。19世紀の半ばは、アヘン戦争で英国に敗れ、更にその後、日清戦争に敗れて、どん底の時期です。1911年に孫文が辛亥革命を起して、中華民国の建国宣言をしましたけど、実質的には軍閥が群雄割拠して、中国は内乱状態だったはずです」
「その間に、列強の探検家が敦煌を訪れて、発見した道士から敦煌文書を買い取って行ったんだ。有名所では、イギリスのスタイン、フランスのペリオ、そして日本の大谷探検隊が、敦煌文書を買い取って行った」
 秦が説明した。

「へぇ、それじゃ、日本にもその敦煌文書があるんですか?」
 亜美は目を輝かせて尋ねた。
「あぁ、確か龍谷大学に現存しているはずだ」
「でも、何だか、みんな禿げ鷹みたいにして持って帰ってきたんですね」
「金で買ったとはいえ、中国の人からすれば、自国の文化財を持ち逃げされたのだから面白くないだろう。更に、その後、ロシアやアメリカの探検家が、壁画ごと剥がし取って持ち去るという暴挙をしているから、尚のこと腹が立っただろう」
「壁画を剥がし取るなんて、何て乱暴なことを…壁画が可哀想だわ」亜美は痛ましい気に目を細めた。
「独善的な二大国家の性格が出ているのだろうね。何れにしても、覆水盆に返らずだ。剥がされた壁画は永久に蘇る事はない。まぁ、日本も敦煌文書を買い取ってきたんだから、五十歩百歩だけどな」
 秦が言った。
「ロシアにアメリカ、イギリスにフランス、そして日本。この五国は、中国を自国の植民地にしようと、虎視眈々と狙っていた国ばかりですね。何だか、敦煌莫高窟は中国の縮図みたい」
 亜美は呟いた。

「芸術品が歴史の荒波に晒されるのは、ある意味、宿命的なことだからね。ちょっと話を壁画に戻してみようか。さて、中国には三大石窟と呼ばれる所がある。一つは勿論、敦煌だが、他の二つは知っているかな?ここは、仁科に答えてもらおうかな」
「竜門って、ありませんでしたっけ?」
「正解だ。ちなみに、もう一つはどこかな?」
「うーん、どこだっけなぁ」
 純太は頭を抱えた。
「大仏で有名な雲崗でしょ」
 知佐子が言った。

 純太は、知佐子に負けて、少し悔しかった。
「その通り。雲崗や竜門は、岩石を穿って造った石像が殆どだ。それに対して、敦煌は、石像は少ない。この理由はさっきも話したが、岩石が脆くて彫刻に適していないからだ。そのため、敦煌は圧倒的に壁画が多い。その数は千四百を超える。砂漠の大画廊と呼ばれる由縁だな」
「欠点を上手く克服して、利点に変えたっていうことですね」
 純太は、古の美の匠たちの知恵に脱帽した。
「もし、敦煌の岩石が彫刻しやすい岩質だったら、竜門や雲崗のように岩盤を削っただけの仏像だけが並んで、今日見られるような大画廊は造られなかったかもしれない。さて、ここまで一通り見てきたけど、どの壁画をクラスデコで描くかは決まったかい?」
 秦の問いに、亜美が率先して答えた。
「初期、中期、後期の中から、代表的な壁画を順番に並べられたら素敵だと思うんです。仁科くん、どう?」
「それで良いと思うよ。だけど、壁画を丸ごと模写していたんじゃ、学祭まで間に合わないと思うよ。だから、壁画の中から特徴的な箇所をクローズアップして描けばいいと思う」
「なるほど、それは、いい考えね」
 亜美は頷いた。
「下書きや、色の構成は僕が大体決めるよ。後は皆に塗り絵のように色を塗って貰えば、学祭までには間に合うと思うんだ。ただ、教室全てを壁画で埋め尽くすとなると、かなり頑張らないといけないね」
「大変だけど、頑張ろうよ。私もやれる事は何でもするからさ。ねぇ、知佐子」
「うん、任せておいてよ。仁科くん以外の人よりだったら、上手く描ける自信はあるよ」
「よーし、みんなで頑張って成功させよう」
 亜美の言葉に、皆、力強く頷いた。


 亜美と知佐子が、美術室から去った後も、純太は残って壁画の写真を眺めていた。
 教官室で煙草を一服してきた秦が、純太に向かって言った。
「仁科。お前、あの亜美って娘にホの字なんだろう?」
「えっ、何でそんな…、そんなことないですよ。何ですか急に」と否定したものの、動揺した。
「そんなに耳を真っ赤にして、お前は嘘を付くのが下手だな」
「別に、そんなんじゃないですよ」
 と言ったもの、純太は自分の顔が熱く火照っているのが分かった。
「まぁ、そんなにムキになって否定しなくても良いさ。一生に一度くらいは、好きな女のために絵を描くことがあってもいいだろう。いやぁ、若いって良いね、羨ましいよ」とニヤけた。
「でも先生。亜美ちゃんには、もう彼氏がいるんですよ…」
 純太は、声を落として言った。
「そうか、彼氏がいるのか。だけど、あの娘のために敦煌の絵を描けるのはお前しかいないだろう。諦めずに、頑張れよ。使い古された言葉だけど、青春は一度しかないんだからさ」
 秦は、そう言って純太の肩をポンと叩いた。

 第6章 終了

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