チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「英語の種あかし」

2015-05-28 08:06:25 | 独学

  76. 英語の種あかし  (井上一馬著 2006年3月発行) 

 『 Chemistry というと、大半の日本人は「化学」という意味で知っていると思うが、Chemistry には「相性」という意味がある。Our chemistry is good. と言えば、「私たちは相性がいい」ということになる。They have genuine chemistry. と言えば、「あの人たちは真から相性がいい」ということになる。

 この「Chemistry =相性」はかなり知っている人もいるかもしれないが、次の personality の使い方を知っている人はわりと少ないのではないだろうか。かく言う私もこのあいだまで知らずに、ヤンキースのジョン・トーリ監督が、劣勢だった試合を松井選手の活躍で勝ったあとのインタビューの中で使ったのを聞いて驚かされた口である。

 彼はこう言ったのだ。We've been struggling for runs, and it really helped our personality. personalityというと、まずは「人格」という意味で知っているし、「パーソナリティは山谷順平さんです」といった使い方も知っている。だがこの発言の中の personality はそのどちらとも違うように思われた。

 実は personality には「その場の雰囲気」という意味もあるのである。したがって上に文は、「我々は点が取れなくてもがいていたが、あれ(松井のホームラン)がチームの雰囲気を変えてくれた」ぐらいの意味になるのである。(runs は野球・クリケットなどの得点) 』

 

 『 グレッグ・クライツアーが「デブの帝国――いかにしてアメリカは肥満大国となったのか」(Fat Land)という本の中で指摘したように、現在、アメリカ人の約61パーセントは肥満だと言われている。全米で肥満率のもっとも高いテキサス州のスター群では、小学生の半分は肥満している。

 その原因は、お定まりのごとく、子供がテレビゲームなどに興じて外であまり遊ばなくなり、「ちょこっと食べ」などの食習慣が広まったために、食べ物がどこにもあって(Food is ubiquitous.)、いつでも手にはいるようになったことだろう。

 この ubiquitous という言葉、最近「ユビキタス社会」などと言い出した人がいて、日本でもよく見かけるようになり始めたが、英語ではこのように、「どこにでもある、どこでも見かける」という意味でよく使われる。たとえば、 We are living in a society in which food is ubiquitous. (私たちはいま、食べ物がどこにでもある社会に住んでいる)

 Cell phones are ubiquitous now. (いまでは携帯電話がいたるところにみられる) 英語の ubiquitous の発音は、「ユビキタス」とは似ても似つかず、あえてカタカナで記せば、「ユービクイタス」という感じである。

 ところで、アメリカという国はたしかに肥満児や肥満した大人が年々増えていっている肥満先進国(?)ではあるのだが、いっぽうで、この国はダイエット先進国でもある。アメリカで、ウェイト・ウォッチャーズ(Weight Watchers)という名前の、ダイエットを人々に広める団体が創設されたのは、1963年のことである。

 このウェイト・ウォッチャーズという組織を作ったのは、ジェーン・ナイデッチという女性で、1923年生まれの彼女は、30代になって肥満にくるしむようになり、国の健康省が勧めていたダイエット・プログラムを参考にして減量に成功したあと、その体験を人々に語りあるいているうちに賛同者が集まり、組織を立ち上げることになたのである。

 ナイデッチが会員に説いたのは、次の5つのルールだった。① 食事は抜かない。 ② 食事の代りに何かを食べない。 ③ カロリー計算はしない。 ④ アリコール類は飲まない。 ⑤ 食事減退薬は使わない。

 ナイデッチが創設したこの組織には現在、150万人の会員がいて、世界30ヵ国で正しいダイエットの普及活動を続けている。アメリカではダイエット本は日本と同じく数限りなく出版されている。

 最近話題を集めたダイエット本は、フランス人の女性が書いた。「フランスの女性は太らない――好きなものを食べ、人生を楽しむ秘訣」 (French Women Don't Get Fat : The Secret of Eating for Pleasure) (Copyright © 2005 Mireille Guiliano) という本である。

 ジュリアーノは現在、ニューヨークに本社を置くクリコという会社のCEOで、若い頃、交換留学生としてフランスからアメリカにやってきたことがある。その留学中に彼女は太ってしまって困ったが、フランスに帰ったらまた痩せることができた。その個人的な体験と、大人になってから彼女が観察してきたアメリカとフランスの食習慣の違いが、この本の下敷きになっている。

 彼女を含めて多くのフランス女性は、カロリーのことなどまったく気にせずに一日3食とり、毎日ワインを飲み、外食もしょっちゅうするが、それでも大半の女性は太らない。なぜなら。フランス女性は、アメリカ人のように、急いでハンバーガーをむさぼり食べ(gobble)たりせず、ゆっくりと味わいながら、さまざまな本物の食べ物を少しずつ食べるからだ、というのがジュリアーノの主たる主張である。

 その本の中で、スリムな体型を保つために、彼女は次のようなアドヴァイスをしている。

① Eat at regular times. (決まった時間に食事をとる。)   

② Get to know the market, not the supermarket. Shop for food severl times a week (on a need-to-eat basis, but never when hungry).  (スパーマーケットではなく、市場で買い物をするようにする。週に何度か食事に必要なものを買う。ただし、空腹の時は避ける。)

③ Diversifly your foods with an eye to seasons. Increase the proportion of fresh fruits and vegetables.   ( 季節ごとにさまざまな食べ物を少しずつとる。新鮮な野菜と果物を多めにとる。) (Diversifty : に変化を与える、 proportion : 割合)   

④ Introduce and experriment with a couple of new flavours. (新しい味付けをためしてみる。) (introduce : 登場させる、experriment : 試み、flavour : 味付け) 

⑤ Prepare your own meals. Shun prepared foods, especially processd ones with artificial anything.  (自分で食べる食事は自分でつくる。調理済み食品は避ける。とくに調味料などに人工のものを使ったものは避ける。) (shun : 避ける、artificial : 人工の)

⑥ Have a real breakfast. (朝食をきちんと食べる。)

⑦ Eat slowly, sitting down. Chew well, even if you seem theatrical at first. ( 座って、ゆっくりとと食べる。はじめは大袈裟に思えるくらいによく噛んで食べる。)  (Chew : 噛んで食べる、theatrical : 芝居じみたしぐさ)

⑧ Drink at least two more glasses of  water per day, slipping in more as you find opportunity. (少なくとも1日2杯、これまでよりたくさん水を飲む。)(slip : 滑り込ませる、opportunity : 機会) 

⑨ Don't stock offenders at home.  (家に必要のない食べ物を買っておかない。) (offender : 不快なもの)

⑩ Introduce a small but regular new physical movement, a daily walk or climbing stairs.  (毎日少し運動する。歩いたり、階段を昇ったり。) 

 コヴァックとジュリアーニが共通して指摘しているのは、運動は痩せたあと体型を維持するためには効果があっても、痩せることじたいにはよほどの運動でないと効果が期待できないということである。 』

 

  『 「ローマの休日」は、オードリー・ヘプバーン演じるある国の王女が、訪問先のローマで大使館を抜け出し、自由な一日を過ごすという話だが、それを少しみてみたいと思う。映画では、生まれてはじめて手にした自由に大はしゃぎした王女が、疲れ果ててベンチに眠り込み、そこに通りかかった新聞記者のジョー(グレゴリー・ペック)に起こされる。

 しかしそれでも王女が目を覚まさないため、ジョーはしかたなく自分の部屋まで彼女を運んでいく。まだそのときジョーは、いまローマ中の話題をさらっている王女だとは気づいていない。

 ジョーの部屋で王女は、「服を脱ぐのを手伝ってくださる?」と言い、ジョーはしぶしぶ彼女の背中のホックをはずすのを手伝ってやる。そしてそのあとでこう言う。 「You can handle the rest. 」 (あとは自分でできるだろう)

 そうして無事着替えを終えた王女は、寝る前に、王女らしく最後の一言を発する。 「 You have permission to withdrow. 」 (下がってよろしい) permission は「許可」といういみである。たとえば、「先生がもう帰っていいっていたんだよ」と言いたければ、 The teacher give me his permission to go home. となる。

 さて、夜が明け、王女はようやく自分が誰かの部屋にいることに気づき、やってきたジョーにたずねる。 Did you bring me here by force?  (無理やり私をここに連れてきたのですか?)  by force は「力ずくで」の意味だ。ジョーの答えは、 Quite the contrary. (まさしくその反対だね)

 自分が大変なことをしでかしてしまったのを悟った王女は、一刻も早くジョーの部屋を出て、帰路につこうと考える。しかし、そのときにはすでに王女の正体を知って特ダネを狙いたいと考えていたジョーは、必死に王女を引き止めにかかる。 What's your hurry?  (何をそんなに急いでいるの?)

 さらにジョーは、「I'll run a bath for you.」 (お風呂をいれるよ)と言って王女を引き止める。そして何とか王女を引き止めることに成功したジョーは、友人のカメラマン、アーヴィングに電話して、すぐ来るように言う。しかし事情を知らないアーヴィングは、 「I'm up to my ears in work. 」 (俺はいま忙しくて首がまわらないんだよ)と答える。

 直訳すれば、「耳まで仕事に浸かっている」という意味だ。しかし、それでもお構いなくジョーに呼びつけられたアーヴィングは、ジョーの部屋にいる女性をひと目見て思わず口走るのだ。 Anybody ever tell you you're a dead ringer for …… 映画ではここでジョーが彼の足を蹴飛ばして話をやめさせてしまうのでセリフが途切れてしまうのだが、このあとには本当なら the princess  が続いて、

 Anybody ever tell you you're a dead ringer for the princess ?  という文章になったのだと思われる。(あの王女様にうりふたつだって誰かに言われたことない?)という意味だ。 日本語の「うりふたつ」「そっくり」を、英語では a dead ringer と言うのである。( dead : 全くの、 ringer : 替え玉選手)

 映画では、このあと王女は一日、ジョーとともにローマの休日を楽しむが、その途中、しだいに王女の気持ちを理解し始めたジョーは、王女に向かってこんな言葉も口にする。 Life isn't always what one likes, is it ?  (人生はいつも望みどおりにはいかないよね)

 そしてやがて、一日の終わりに、二人に別れの時がやってくる。王女は言う。 I don't know how to say good-by. I can't think of any words.  (どう言ってお別れしたらいいのかわかりません。どんな言葉も思いつかないのです)

 それに対するジョーの答えがしゃれている。 Don't try.  やっぱりグレゴリー・ペックは粋だ。 』

 

  『 アメリカの雑誌「ニューヨーカー」に、小川洋子さんの短編小説が掲載された。載ったのは2004年9月号で、伝統ある都会派の雑誌に掲載されたのは、村上春樹氏に次いで二人目である。作品は「夕暮れの給食室と雨のプール」という短編である。主人公の若い女性とある父子との奇妙な邂逅が語られている。

 主人公がまわりの世界や現象に対して抱く違和感を、淡々とした文章で表現した作品である。英語への翻訳を担当したのはスティーヴン・スナイダーという人で、小川さんの静かで飾らない文章を、同じように静かで飾らない英語でうまく訳している。

 タイトルも、The Cafeteria in the Evening and a Pool in the Rain と、日本語のタイトルがそのまま生かされている。翻訳の具体例を示すと、たとえばこんな具合だ。

  「霧はゆっくりうねりながら、一つの方向へ流れていた。それは風景をすっぽり包み込んでしまうような息苦しい霧ではなく、透明な清らかさを持っていた。手をのばすと、その薄くてひんやりしたベールの感触を味わうことができそうだった」 この文章がスナイダー氏の訳ではこうなる。

 The fog was rolling away in gentle waves.  It was not the sort of suffocating fog that swallows everything, in fact, this fog seemed pure and almost transparent, like a cool, thin veil that you could reach out and touch.  (suffocate : 息を詰まらせる、swallow : 包み込む、transparent : 透明な)

 こうして、日本の小説の文章がどのように英語に訳されるか見ていくと、われわれの知っている英語で意外に何とかなるものである。冒頭の、主人公の女性(わたし)が新しい町に引っ越してくるシーンには、「荷物は……ごくあっさりしたものだった」という文があるが、この「ごくあっさりしたものだった」は、英語にすると、 It was simple enough. となる。英語でもやはりごくあっさりしたものである。

 次に、「最初にこの家を気に入ったのは、彼の方だった」 というのがあるが、これは、My fiance fell in love with the house first.  と訳されたいる。「気に入った」はこのように、fall in love with  (恋に落ちる)でいいのである。

 「わたし」が新しい家の庭を眺めて抱いた印象を記した文章には、「花壇も植木も何の飾り気もない、もの淋しい庭だった。所々ぽつぽつと、クローバーが生えていた」 という文があるが、ここでは、「所々ぽつぽつと」が日本人にはむずかしいのではないだろうか。これは次のように訳されている。

 It was completely bare.  No plants, no flower beds, nothing at all except an occasional patch of clover.   

 patch  というのは「断片」のことで、これに、occasional (ときおりの)をつけたところがうまいと思う。(bare : むきだしの)このへんが外国人にはなかなか思いつかない英語の使い方なのだ。

 「この雨の中、買い物に出掛けるのも面倒だった」という文章の「面倒だった」という言い回しは日本語でもよく使われるが、英語ではこれは、

 It was too much trouble to go out for something in the rain.  この It is too much trouble to ~ といういいかたは、使い勝手があるので覚えておくと便利である。

 次は、「わたし」の連れていた「犬にさわっていい?」ときく。「さわる」というと、日本人はまず touch という語を思い浮かべるのではないかと思うが、ここでは、 Can I pet your dog?  と、pet という動詞が使われている。ペットは動詞になると、「かわいがる、愛撫する」という意味になるのである。

 同じシーン、父親が言う言葉だ。「子供は時折、とてつもないことに心を奪われるものです」これは英語では、Children get obsessed with the strangest things.  となる。 get obsessed で、何かにとりつかれて心を奪われる様子がよく現れている。

 同じく父親のセリフだが、これは簡単そうで、ちょっとむずかしい。「そういうひたむきさも、僕がプールから学んだことの一つです」 ひたむきさ? これをどう英語にすればいいのだろうか?

 That's another thing I leaned from pool: determination.   determination という言葉は、多くの日本人が「決意」という意味で知っていると思うが、こういうところで、こんなふうに使えることが、英訳の醍醐味と言えるだろう。

 ところで、小川さんのこの小説は、「わたしは鎖を握り直し、彼らとは反対の方向へか駆け出した。掌の中で、鎖はいつまでも冷たかった」という文章で終っているが、スナイダー氏の訳では、

 Tightening my grip on the chain, I began to run in the opposite direction.

 という文で終っていて、なぜか、最後の「掌の中で、鎖はいつまでも冷たかった」という文は訳されていない。私は最後の文は小説全体の中で重要な位置をしめる大切な文だと思うが、さて、この文、あなたなら、どう訳すでしょうか? 』

 

 私(ブログの作成者)が 、感じますのは、英語のエリートと英語を道具として使いたい(一般の日本人)に分けて教育をすべきではないか。英語のエリートは、もっと日本の名著(文学に限らず)英語にして海外で出版する。道具としての英語は、とにかく使える読める、話せる、聞ける、書けるを可能なように、日本人のための英語を確立する。

 気取った英語ではなく、インド人の英語のように、なりふり構わず、アメリカの企業が作った試験を使うのではなく、日本人が使いやすい英語を確立すること。英語の和訳のスピードを上げて、とにかく一冊を読み切るためのメソッドを確立する。英語を句ごと(カンマからカンマまで)の単位でさっと訳し、文章構造や関係代名詞は、英語のままとして、できるだけ英語の構造を崩さずに訳す。

 とにかく、英語の量を読む方法を確立し、英語は道具であることに徹し、国連の公用語に日本語を採用させ(採用しなければ国連の拠出金を止めるくらいの勢いで)、日本人英語の世界に、世界の人々を引き込む。アメリカ英語に私のような日本人が追従しても、常に英語は増殖し、変化しているので、無理である。

 これらのことを英語のエリートは、実行しなければ、英語の本もまともに読んだことのない、英語の教員や英語の名著も読んでない外国人教師では、教育を受けてないと言っている16歳のパキスタンのマララ・ユスフザイに大きく引き離されるのでは、なかろうか。(第75回)

 


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