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【72年目の終戦(1)】

2017年08月14日 | ご報告です

【72年目の終戦(1)】
8月15日、72年目の終戦日がやってきます。
終戦に生まれた方は今では72歳、戦時中を憶えていらっしゃる方々は、75歳以上、戦場で兵士として戦った方々は、すでに90歳以上(18歳動員として)、従軍経験者は100歳近くなります。戦争の直接的な記憶が段々と薄れていきます。8月15日が何の日か知らない若者も多くいます。

私が子どもの頃は、戦傷者が鎌倉の町でもあちこちにいて、白い病院服を着てオルガンを弾きながらお金を無心していました。
今は亡き父母も戦争体験者だったし、学校の先生方も兵士として戦場で戦った経験者が数多くいました。戦争はもうこりごり、あの暗い時代には絶対戻りたくないという雰囲気が世間にあふれていたことを憶えています。
昭和20年代後半からは失った繁栄を取り戻すべく経済成長の道をがむしゃら進んだ熱い時代でした。

父は、志願兵で9年間、中国、満州、今の北朝鮮、東南アジアを転戦した体験の持ち主でした。昭和18年からは中野学校管轄の特務機関で情報収集の仕事をしていました。ボルネオ戦線が最後の軍務でした。兵士でなく一般人として民間人と現地の方々と接していたため終戦時に戦犯として処刑されずにすんだそうです。数百人の日本兵が裁判もナシで処刑されました。父は性格上、外交的なタイプだったので現地の人とも分け隔てなく接していたので、処刑台に上げられたとき、知り合いの華僑が助けてくれたそうです。

母は、高等女学校を卒業した後、富山の日本鋼管で設計部に就職しました。母は自慢する人でないのですが、この設計部は女学生の中でも年に一人しか採用されない超難関の部門だそうです。
しかし、日本鋼管はアメリカからは軍事施設として位置づけられていて度々、爆撃や機銃掃射をうけてたくさんの戦死者が出ました。母の女学校時代の友人も目の前で銃弾を受けて死んだそうです。

また、母の実家がお寺だったため、海軍の兵士達の宿泊所になっていました。富山湾にアメリが軍が落とした機雷を哨戒艇(機動力のある小型の戦艦)で爆破する作業に当たっていました。若い将校が多く泊まっていて、皆、礼儀正しく使命感に燃えていたそうです。母はその内の1人に恋心を持っていたと話していました。彼は爆破作業中に戦死して、死体は新湊港(今の射水市)の浜に打ち上げられていたそうです。
息子としては微妙な感じですが、習字書体で歌を残してます。「八月の空に果てたる君ありて平和ニッポンの夏めぐり来る」

今更、遅いですがもっと両親の話を聞いておけばよかったと後悔しきりです。

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