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冥福を祈る・・・・・

2016-10-01 11:08:08 | 最終章・これを知るために

冥福を祈る・・・・・現代社会では付き合いが広がって様々な人の冥福を祈ったりしますが、大方の場合は浮世の義理、つまり願ってはいるが瞬間的な本当の気持ちを口で言うだけ・・・・・場面が違えば忘れてしまいます。ですがこれは悪いことではなく、大して本気でないから助かっているとも言えます。本当に冥福を祈ったら、悪くすれば、何と言えばよいか、極論すれば『耳なし芳一』のようになってしまうこともあります。共鳴するだけ共鳴して、どう解き放てばよいか、何処にどうすればよいのかわからなければ、芳一のように耳をなくすか命をなくすか・・・・・それで、大事な人の死ほど、死んだ人と残された人は道に迷うことになりやすい・・・・・これはある意味命がけの仕事です。そしてすべての人が背中に負っている先祖伝来の義務なんです。

 この問題は人類の問題だと思います。そもそも死後どうなるのか、誰も知らないことが問題なのです。死んだらどうなるのか知らないで、死んだ後お幸せになりますように?????って、祈ることができますか・・・・・どうしようもないから、祈っていることに無意識にしているだけなんです。幸せに安らかに眠っている・・・・・ことにしているだけなんです。死後どうなるかわからない・・・・・なんて、生きている意味すら分からなくなってしまいます。たまたま生きているだけ?????これこそ科学が解き明かすべき問題なのですが、科学は未だ命とは何か、生命力とは何かを明らかにしていません。ですから死についても全くわかりません。だけれども待ってはいられません。私達は一人一人が死ぬまでに答えを見つけて、そして人生を終えるべきだと思います。そして『わかる』ということがどういうことなのか、『分からせる』つまり『伝える』ということがどういうことなのか、それも知らなければなりません。そうしなければ超音波のように耳を通り抜けていくだろうと思います。

 

 仏教ではなぜ追善供養をするのですか?追善供養に読経をあげれば、どうなるのですか?キリスト教徒はなぜ主に召されて、いつまでも最後の審判を待つのですか?これが明らかにならなければ、人生の最後は『死=無明(何もわからない)』で、たまたま生きていただけということになってしまいます。大方の場合その理由を知らないので、宗教はただの希望を語るものになっていると思います。こうなれば、必ず死ぬのに生きていることだけに意味を見つけ、挙句の果ては意識がなくとも生かされる・・・・・という、現代社会の『無明』そのものになります。

 私達人類は、生まれる前を知り、そして死んだ後を知らなければならないと思います(これは過去世や未来世のことではありません)。これは世間でいう宗教ではありません。本当の宗教は『宗(この世のもと)』の『教え』です。『宗』を『神』と教えたのなら、『神』が何なのか知っていなければなりません。その何なのかを知ることが人生の根本だと思います。そしてそれができないと、本当に冥福を祈ることはできないと思います。冥福とは、そうした無明の淵から脱出することなのですから。冥福とはどういうことなのか知らなければなりません。

イエス様が本当に『信じよ!』と言ったのかどうか・・・・・私は疑わしいと思っています。何が何でも信じよ・・・・というのは、教える側の無明そのものです。イエス様は分かっていたのだと思います。だけどイエス様の分かった『言葉』を聴く側が分からなかった・・・・・つまりオウム返しをしていただけで、それも自分は正確にオウム返しに繰り返したつもりでいたが、自分の言葉とすることが出来なかったがために多種多様の意味不明を生み出していったと思います。お釈迦様の語られた方便も同じ、孔子様の徳を論じる『仁』もまた・・・・・これは、このカテゴリーで私がテーマとしている『言葉』の問題であり、これが『命』に直接関わってくる『カタカムナ』の問題だと思っています。『言葉』とは共鳴によって新しい波動を自分でコピーしたとき(これが楢崎先生が言われた共振というものだと思います)初めて理解されるものです。そして共鳴は体質に依存し、コピーの精度は異なっていきます。つまり正確に共振は出来ません。するとどうなるか・・・・・共鳴源がなくなると消えて行き(身近な例をあげると、恩知らずとなり)、誤差のあるコピーを作り出して誤解していくことになります。

 

『言葉』というものが人間の『脳』の働きの基本であり全てだと思っています。『言葉』というものは音波であり『力』の形だからです。そして人間が霊長類の長たる所以も分かりました。他の霊長類との間にもある画期的分岐線・・・・・それは、

            人間のみが先祖を祀る・・・・・

これは同じ生命力を親から子へと『言葉』によって分け移された(コピーした)ものの義務、つまり今となっては多くの無明に漂っている先祖伝来の義務であり、『死ぬ』とはどういうことかを知って宗(もと)の自由さに、先祖もろともに戻らなければならないからです。そのことに気が付いた時、代々慈しみ育てられたわけを知りはるか昔の先祖を思い、人類は人類になり霊長類の長になったのだと思います。過去の冥福を祈り、未来の冥福を祈る・・・・・人類はそのために今を生きているのだと言ってよいと思います。

 

『死ぬ』とはどういうことか・・・・・体は元の構成要素に分解して地球圏にもどし、体の構成力(生命力)は宇宙の自由さの中に没入してワタシというテリトリー範囲を融解する(宇宙はチカラ・ポテンシャルといったようなもので出来ているんです)・・・・・これが今の私の結論です。融解出来るように自分の構成力(生命力・コピー力)を鍛えなおし(宇宙と相似させ)続けること・・・・・これが、残された人生の期間に許されたことです

 

折しもお彼岸のニュースをテレビで見たり・・・・・従妹の死で冥福を祈らねばならない身近な人が増えたり・・・・・それで、冥福を祈るということについてまとめてみました。我が子がいつか考えてみるだろうかと思ってみたり、若者はみな子供と同じですから、誰かが何かを感じて継ぎ足して行ってくださるといいなと思ってみたりしています。ここで『構成力』と書いたものは考える力そのものです。そもそも『考える』という言葉も、カタカムナの『カムカヘル』から来ているんです。もともと『宗(もと)に戻る』(つまり、宗に沿ってコピーを作る)という意味なのです。そしてそこから道を探るという意味なのです。同じ言語を守り続けるということがどんなに大事なことか・・・・・『考える』ことが日本語そのものに依っているのです。家庭において親が慈しみ育てる『母国語教育』がどんなに大事なことか・・・・・私達は家庭生活というものの位置づけを確認すべきだと思います。そして子供に向ける『言葉』の重大性を認識しなければなりません。

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