団地小説短編集を歩く

団地小説短編集の舞台を歩きながら団地や地域の魅力をお伝えします。

小説キャナルタウン 10 新兵庫運河物語 5 清盛塚 大発見?幻の八棟寺

2017-06-16 06:25:23 | 日記
          恐れ入りますが

   小説キャナルタウン 6 新兵庫運河物語 2 能福寺平清盛公837回忌追善法要(2017.2.9)

   小説キャナルタウン 9 新兵庫運河物語 4 兵庫大仏能福寺 大仏尊大法会(2017.5.19)

   の続きとなります。例によってこのブログにはクリック一つ見られる機能が有りません。バックナンバーからご覧下さい。

           平成29年6月3日11時頃の清盛塚です。

        

   誰もいません。清盛塚にはいつもの造花が飾られています。なぜ6月3日かというと「昔は6月3日・4日に清盛講によ

  って盛大な供養が行われていた」と見たことがあり来てみましたが何も有りませんでした。この後「兵庫津 歴史館 岡方倶

  楽部」で伺いましたが、今は何もやっていないと思うとのお話でした。

   清盛講社の建てた立派な玉垣です。明治28年6月建とあります。南條荘兵衛・南條治郎兵衛・南條正太郎他の名が刻まれ

  ています。南條荘兵衛は兵庫大仏を造った兵庫津の豪商です。南條氏は江戸時代以前からの名家でその子孫であると思われま

  すが、鈴木恒夫氏の「戦前期における資産家の株式所有ー大阪府と兵庫県」で和洋紙卸・販売業であったことはわかりました

  が、現在に続く資料はありませんでした。

   6月3日は何の日だったのでしょうか。福原遷都、治承4年(1180)6月2日の記念日でしょうか。今となってはわか

  りません。

         

   清盛塚・清盛像・琵琶塚を1枚に写すのはここしか有りません。冬季限定の写真です。清盛塚は桜の名所でもあります。

   まだ満開ではありませんが。 

           まず案内板からご覧下さい。 

         

       県指定文化財 清盛塚石造十三重塔   

         指定  年 月 日  昭和35年5月12日

         所 有 者・管 理 者  神   戸   市 

   この石塔は古くから清盛塚と呼ばれ、北条貞時の建立とも伝えられています。当初は現在地より南西11mにあり、平清盛

  の墳墓と言われてましたが、大正時代道路拡幅に伴う移設の際の調査で、墳墓でないことが確認され、現在地に移設されまし

  た。

   石塔は、高さが8.5m、初層は一辺145㎝、最上層は一辺88㎝を測り、基礎部台石東面の両脇に「弘安九」「二月日」

  の銘があり、弘安九年(1286)に造立されたことがわかります。

   石塔の隣には、神戸出身の彫刻家である柳原義達の作になる平清盛公像が建てられています。今なお清盛塚は、地域の人々

  によって敬われ、大切に守られています。

        平成23年12月

                                    神戸市教育委員会 岡方協議会


          琵   琶   塚

   清盛塚と小道を挟んで北西に平面形が琵琶の形をした塚があり、琵琶塚と呼ばれ、江戸時代から琵琶の名手・平経正の墓と

  信じられてきました。平経正は清盛の弟経盛の長男で敦盛の兄に当たります。

   明治35年(1902)有志により琵琶塚の碑が建てられましたが、大正時代の道路拡幅の際に、清盛塚とともに現在地

  に移設されました。

         平成23年12月   

                                    神戸市教育委員会 岡方協議会

   小説キャナルタウン 6 新兵庫運河物語 2 能福寺 平清盛公837回忌追善法要(2017.2.9)の平相国廟の説明板

          平清盛公墓所 八棟寺殿 平相国廟

   平安の末期(養和元年西暦1181)平清盛公の薨去によって能福寺の寺領内にあった太平山八棟寺に公の墓所

  平相国廟が造立されたと云う。しかし平家滅亡と同時にことごとく破壊され、能福寺を灰燼に帰した。以後廟は再建

  されることなくその存在すら忘れ去られていた。・

   百余年後の弘安九年(1286)二月、平家一門の栄枯盛衰を哀れんだ時の執権北条貞時公は、その近くに一基の

  石塔を建て、清盛公の霊を弔った。と能福寺の古文書に見える。現在に伝わる清盛塚十三重塔(県指定重文)がそれ

  である。

   今諸々の古記録文献には「京・愛宕山にて火葬荼毘に付し円実法眼全骨を福原に持ち来り経ヶ島に納め‥‥」(又

  は)「大輪田の法華堂に納め‥‥」(又は)「能福寺の東北に納骨‥‥」云々とあるところから、遷都をも決断した

  ほど兵庫の地を愛した清盛公の遺言に依り全骨を福原に持ち帰ったことが史実ならば,歴史上、真の墓は、かって平安

  末期、能福寺々領内にあった平相国廟と考えられる。

   奇しくも本年清盛公の八百回大遠忌を迎えるにあたり平家物語類書にも有名な平相国廟を建立復興し、併せて円実

  法眼法印塔、忠快法印塔を合祠した。      以下略

              昭和五十五年二月 能福寺 第二十四世貫主 弘善 識

   小説キャナルタウン 9 新兵庫運河物語 4 兵庫大仏能福寺 大仏尊大法会(2017.5.19)の能福寺の説明板

           天台宗 能福護国密事寺

    ‥‥寺の壮大な外観から「八棟寺」とも称された‥‥

    ‥‥能福寺ノ東北二埋ル‥‥     小説キャナルタウン 9 をご覧下さい。

           再建兵庫大仏の説明と並べて書いてあるので平成三年六月以後と思われる。

   同じ能福寺内の説明板ですが十年余りの間に変化してます。昭和五十五年では「諸説あるが、能福寺の寺領内に有った

  太平山八棟寺に有名な平相国廟が建立さられた」が平成三年では「八棟寺は能福寺の別名で遺骨は能福寺の東北に埋めた」

  まさかそのまま埋めたのではないと思いますが大規模な霊廟が造られたイメージではありません。円実法眼が一人で遺骨を

  首から下げて持って帰ったのではないと思いますがこれも寂しい感じがします。清盛公の遺言が「葬儀などは無用、頼朝の

  首を我が墓前に供えよ」であったと伝わります。反平家の動きが活発化し清盛公の死で加速します。大規模な霊廟は造られ

  なかったのではないでしょうか。


          世紀の大発見?幻の八棟寺の常夜燈


   八棟寺は存在していたのでしょうか。それとも能福寺の別名、つまり「七堂伽藍」の上で「八塔寺」。しかし八棟寺の常

  夜燈が見つかりました。

        

   写真 左 の清盛塚の前にある常夜燈です。写真 右 の移設前の清盛塚の写真にも写っています。もし本物なら八棟寺が

  存在した証拠となります。

        

   写真 左 永代常夜燈

        よくある常夜燈です。一対ありますので街道を照らす常夜燈ではなくて寺社に灯を献ずるための常夜灯であると

        思います。永代とは灯籠の油代も永久に保証しますという意味だそうです。

        八棟寺建之 願主中十八人

        普通は「建之」の前に建てた人の名前が書かれるのですが八棟寺とあります。八棟寺のために建てたの意味で

        しょう。お寺に常夜燈を奉納するのですから願い事が有ったのでしょう。南側の常夜燈は十八人の共同の奉納

        です。

   写真 右 八棟寺建之 願主 明石 兵庫 神戸 五人

        北側の常夜燈は八棟寺のために明石・兵庫・神戸の五人が奉納しました。       

        

   写真 左 根元願主 壷屋 源右衛門

        根本願主とは代表・発起人の意味でしょうか。源右衛門窯という有田焼の窯があります。宝暦三年(1753)

        創業とあります。名前は代々受け継がれることもありますので関係があるかもしれません。

   写真 右 寛延四辛未年九月

        寛延四年九月は西暦では1752年になります。八代将軍吉宗(将軍を引退して大御所となっていた)が死亡

        した年です。仮に八棟寺が実在していたとしても時代が違いすぎます。幻の八棟寺の常夜燈は謎の八棟寺常夜

        燈になってしまいました。

   ではなぜ八棟寺常夜燈が有るのでしょうか。おそらく、清盛塚→平清盛公の墓→墓は八棟寺にあった→ここに八棟寺があ

  った の理論から八棟寺の再建は無理でもと兵庫津の人々が敬意と感謝を込めて常夜燈を建立したのでしょう。

   北条貞時はなぜこの地を選んで平清盛の慰霊塔を建てたのでしょうか。墓の伝承の地だったのでしょうか。建物の礎石

  ぐらいは残っていたかも知れません。大輪田の泊まりは源平の合戦後再び整備され鎌倉時代からは兵庫津と呼ばれるよう

  になり当時日本一の港と言われていました。港の建設には大量の石が必要です。平家縁故の寺の礎石は転用されてしまっ

  かも知れません。「墓の場所すらわからないのを哀れんで」とも言われています。清盛塚の近くの須佐野公園に鎌倉時代初

  期の歌人、藤原為家が「和田の笠松」を詠んだ歌碑があります。和田の笠松と呼ばれる大きな松があって入港船の目印にな

  っていたそうです。港が見える地が選ばれたのかも知れません。

        

   写真 左 平相国菩提所 八棟寺無縁如来塔

   ここ清盛塚では八棟寺の存在は既成の事実となっています。いつの頃からとはわかりませんが付近で出土した如来塔が

  大将である清盛塚の元に集められたのでしょう。なぜか赤い前掛けが付けられお地蔵様の様になっています。岡方倶楽部

  でお聞きしたところでは当時の能福寺の寺領は広大で仮にここに八棟寺があったとしても不思議ではないそうです。

   写真 右 平家・源氏将兵 戦没者五輪供養塔 境内出土・鎌倉時代

   能福寺にも同じような物があります。境内から出土したり能福寺に持ち込まれた如来塔はこのようになります。

        神戸港開港100年祭記念 平清盛像

        

   台座の裏に 

    神戸開港100年祭を記念して開港の祖平清盛の功績を顕彰するためここに像を建立する

                昭和四三年十月 神戸市長 原口忠治郎

     制作者 柳原義達  

     協力者 神戸ロータリークラブ・東ロータリークラブ・西ロータリークラブ・須磨ロータリークラブ の銘がある。

   そう言えば開港150年の年の平清盛公837回忌追善法要に神戸市は誰も出席していなかったようですね。

         こちらは開港五十年記念の少し謎めいた常夜灯
 
        

   兵庫突堤の入口(神戸市中央市場の南)の道路の分離帯にあります。表に扇港(神戸港の別名)五十年、裏に 神戸開港

  五十年記念 大阪毎日新聞社 と書いてあります。建てた日はありませんが開港50年は大正7年(1918)になります。

   前後に洗面台のような水盤、左右にライオンの口から水が出る構造になっています。小さな噴水でしょうか。水飲み場で

  しょうか。今は水は出ていません。明かりは夜には見ていませんのでわかりません。

   神戸市の資料では兵庫突堤の着工は大正8年、兵庫第二突堤が昭和5年、兵庫第一突堤が昭和7年に竣工します。兵庫第

  三突堤は昭和33年の着工で竣工は昭和40年です。宣伝効果を考えると設置が早すぎます。もっと宣伝効果のある場所に

  設置されたものが後日何らかの理由で移設されたのではないかと思います。厚い信仰を集めた初代の兵庫大仏が金属回収令

  により供出され、家庭の鍋・釜でさえ供出された時代におそらく100㎏は越える銘板がなぜ無事だったのでしょうか。

  大阪毎日新聞社の威力でしょうか。東京日日新聞(現 毎日新聞)の浅野一男記者は戦意高揚?(ほんとは販売拡大)のため

  向井少尉と野田少尉の100人切り競争の記事を創作します。軍部の受けが良かったのでしょう。しかし両少尉は戦後戦犯

  として死刑になります。東京裁判では記事は荒唐無稽な作り話と無罪になりましたが、中国の軍事法廷で浅野一男記者が自

  らの嘘を認め無かったために死刑になり、記事は南京大虐殺の証拠の一つとして今も中国で飾られているそうです。否定す

  れば浅野一男記者も生きて日本に帰ることは難しかったでしょう。一新聞記者に英雄な行為を期待するのは無理でしょう。

  特ダネは実は販売促進のためのグロテスクな新聞小説だったのです。しかしその代償は今に及んでいます。

  
   話は変わりますが、開港150年の記念モニュメント何だったのでしょうか。又探してみたいと思います。
      
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