3年日記も今年が最後の年、昨日新聞の投稿欄だかで「日記を書くのをやめました」というのがあった
ずっとかき続けたけれど、どんどん溜まっていく日記は、自分の死後に子供たちが処理に困るのではという
思いからだそうだ、すでに何十冊も処分したという人の投稿もあった
これを見て、私もあらためて何のために日記を書いているのか考え直してみた
中学一年から今日まで、途中メモ程度になったり空白の時期もあったが50数年書き続けた
なぜ・・・・・・
少年、青年時代は日記は相談相手だったり、自分の悩みを黙って聞いてくれる第三者だった
結婚してからは子供の成長日記、仕事の出来事、将来の子供へのメッセージ、日々の反省、ニュース
毎日体験したことの記録だった、その後は自分の死後に私の生き様を書き残したいという欲望が強まり
資料的な価値観に重点を置きだした
だが今になって見ると、数十冊の日記を自分自身読み返す気力も無く、まれに何かの日に何をしたろうか
どんな日だったろうかと見直すことが一年に1~2回あるだけ
後世の資料的価値など全く無いと言って良いし、子孫に残すほどの立派な生き方も業績もない
やはり子供たちに粗大ゴミを残すことになりかねない
こんなわけで日記は今年を最後にやめるつもりだ、ブログが充分日記のかわりになりうる
しかも私がブログを書くことをやめれば自動的に消滅するし、日記よりも多くの文字数を残せる
日記は毎日書いても誰も読まない、ブログは現在でも毎日50人以上の人が見に来てくれている
少なくとも孤独な作業では無いのだ、なにもかもとっておくことはできない
今から少しずつ少しずつ、いらなくなったものを捨てていかなければならない
60歳で急死した友達が大学時代に定期的に送ってくれていた同人詩集
小学生時代からとってある友達の年賀状、文通していた女子からの手紙
捨てるに捨てられないものも、自分の中の未練がそうさせているだけなのだ
読み返したことなどもう何十年も無い古い手紙、「きみからもらった手紙まだとってあるよ」と言ったとき
気持ち悪そうな横顔をちらりと見た気がした
こっちにしてみれば大事な手紙でも、相手にすればどうでもいい、むしろ捨てて欲しい手紙、きっとそうだ
逆の立場で考えればそれはすぐにわかることだった。
もう10代でも20代でもない、今を生きる、明日を生きる、未来を生きることに専念しよう
でも、とりあえず3年位の物を残して昨年捨てました。勇気いりますよー(T_T)
転職してからも日報は書いてます、結構役に立つんでそれはとってあります。
複雑な気持ちだけど、自分以外読む人もいないだろうし、父の人生の様な小説的要素もない人生、抜粋して小説にでもして日記はやっぱり捨てるつもりです。
最近は特に忘れっぽくなってきて重宝しています。
残念なのは大事なことを書き忘れていること、夕方から夜に書くとその日の事なのに、何があったか忘れることがあること❗確実に準高齢者になりつつあります。
亡くなったらPCどうなるだろう、暗証番号をかみさんに教えておきますは‼
FXはやっていないけど隠れたところに瑕疵があると残ったものが大変だね‼
ツー君は最近自分のことを「準高齢者」とか言うけど、そんなことはないよ、充分若さがあると思います、反復して言い続けると本当にそんなんになってしまうから「おれはまだ若いぞ!」って言う方がいいですよ。
「殿、お気を確かに!」