Short Stories
vol.10 「芳香(ハルム)日記」(1/5)
緑の日。
デンパサールからウブドウまで、思いがけず早く着いた。ゲストハウス「セダップ」のテラスで鬱金茶をご馳走になり、その甘いような切ないような香りにゆらゆら溶けながら、暮れ落ちるまで鳥の声を聞いていた。風がディアネラの葉を鳴らして通り過ぎた。
ゲストハウスは精悍な顔立ちのご主人と浅黒い肌の奥さんと、二人の美人姉妹によって経営されている。美人姉妹はウブドウきってのバリダンサーだとかで、日が翳ると、目の回りを瑠璃色に化粧して、バイクで出掛けて行った。二羽の鳥が一台のバイク上で身体を重ねたようだと思いながら、細い通りにバタバタと音を響かせながら消えて行くのを見送ると、夜になった。「セダップ」というのは美味という意味だそうだ。
ゲストルームは良く似た造りの石の離れ家が並んでいるだけで、中にはシャワールームとベッドしかない。外観は苔むしていて、床は白いリノリウム貼り、真新しい蚊取り線香がお皿に乗せられている。ベッドの真上に青い蛍光ランプが一つぶら下がっていて、飾りの無い壁を照らしていた。壁には、潰された蚊の羽が胡麻粒のように張り付いている。
ここまで来てしまったよ、こうちゃん。
風の日。
ディアネラの葉は鳴り続けている。
ゲストハウスのテラスで、揚げた魚と白米の朝食を食べる。醤油とタマリンドを合わせ、それに唐辛子を混ぜたソースは、カリカリに揚げた魚に合っていたので、身体の底が抜けたように、どんどん入った。美人姉妹の妹が、バナナの葉に乗せたヌードルを屋敷のあちこちに置いては祈っている。私の足元にもひとつ置くと、顔の前の空気を右手で掻き混ぜた。バナナの葉の匂いがふわりとやってきた。私は植物の匂いがずっと昔から好きだ。生きている植物も死んでからも、そこから立ちこめる匂いなら何でも好きだった。
こうちゃん、あなたもこの匂いには参ったんでしょうね。女より男の方が嗅覚は敏感だそうで、私がいくら強い姉であっても、この点ではこうちゃんに負けてしまうのが、悔しいけれどまた嬉しい。こうちゃんを追いかけて、バリ島まで来た甲斐があるというもの。どうせもう、万事こうちゃんにはギブアップなのだけど。
「【夜匂う樹/ポホン【・/マラム】】」という名前の大木は、いまやこうちゃんの樹になってしまった。こうちゃんはささやかな存在なのに、大木になることも出来るのだ。
日記に書かれていた地図を辿れば、その樹に辿り着けるはずだけれど、こうちゃんは自分一人で何年もかけて探し当てたのだものね。その大木で、馥郁と香る白い巨きな花のように、こうちゃんがぶら下がっていたら、飛びかかって抱きしめてあげる。一緒に地面に落ちて、そのまま湿った大地に埋もれてしまおう。何度も見た夢は、真白いこうちゃんに覆い被さったまま、沼に沈むように、大木の根の下敷きになることだった。やがて大木の根が私とこうちゃんの身体から栄養を吸い上げて、他の花の倍もある一段と巨大な白い花を咲かせる。夢はいつか叶うと言っていたのはこうちゃん自身だから、もしかしたら本当にそうなるかも知れないでしょう。
美人姉妹に、別れを言った。おごちそうさま、お酢とお醤油とタマリンドと唐辛子と、揚げた香ばしい魚の匂いは、美味でした。