Short Stories

vol.7 「トモスイ」(1/5)

トモスイ  春まだ浅きころ、ユヒラさんと夜釣りにでた。花芽の港から底が平たい舟でこぎ出したが、思ったほど寒くはない。

 底にはガラスが張ってあって、暗い海中がよく見える。この舟の格好が、夜釣りには最適なのだとユヒラさんは言う。なぜなら、ほら、かがり火が船底から海中にまで届くでしょう?

 それはそうだけど、とわたしはそっぽを向いた。魚屋さんで刺身を盛り合わせるハッポウスチロールの器に、二人で乗っているみたいな気がする。

「でもかがり火がない」
「今夜は月が出てますから、かがり火は要りません。月光がかがり火のかわりです」

 わたしより年若いくせに、ユヒラさんは物言うとき、唇の上にシワが寄る。強く言うときは、深いシワになる。そのあたりに本能が溜まっている気がする。月の光でも、シワが寄るのがわかる。一瞬おばあさんに見える。

 そもそもユヒラさんは男らしくない。髪もふんわり丸く刈っていて、身体は小さいくせに手足の末端ばかりごつごつと大きく、けれど胸のあたりや下腹部は女のように肉付きが良い。

 ときどき花芽の港から夜釣りに出て、旨いもので腹を満たす、というので、舟の上でコンロとか使って新鮮な魚を料理するのかと思ったら、生が一番だそうだ。魚を生で食べるのかとぞっとしたら、魚みたいなものだけど、魚ではないという。

 いつか連れていってあげる、としきりに何度も言うので、では御願いします、という話になった。これまではいつだって一人で舟を出した。女性を誘うのはわたしが初めてだと聞いて鬱陶しくもなり嬉しくもなる。こういうことは思い立ったが吉日、花芽の港で合流し、平たい舟で漕ぎだした。

 オールを使うのはユヒラさんで、中天にかかった月を目指してざぶんざぶんと行く。ときどき飛沫がかかるが、何となく生ぬるい水で、手のひらに落ちたしずくを舐めると塩辛かった。安堵した。

 月夜というのは、案外暗いものだ。海面の一部が光っているだけで、他は色もない。ユヒラさんの顔も見えない。見えないということはあれこれと表情を想像することが出来ていい。ときどき月の光が斜めに当たり、なんだ、いつものユヒラさんじゃないのと、がっかりする。

 舟の中に持ち込んでもいいものは、毛布と着替えとお化粧道具。着替えは水に濡れたときに必要だそうだ。釣り竿は一本だけで、それも折りたたまれて小さくなっている。餌はユヒラさんがポケットに忍ばせている。どんな餌か見せてと言ったが、あとでのお楽しみだと見せてくれなかった。

 長々とした岬が灰色のシルエットを濃くしながら近付いてきた。女が足を放り出している形状だ。先端は爪先が盛り上がっていて、腰のあたりは霧に絡まれていて見えない。石で出来ているはずなのに、輪郭がぼやけて柔らかそうだ。

「あの岬を回り込む」
「はい、回り込みましょう」
「やったことないでしょう」
「ないです。初めてです」
「いいものですよ」

 そうか、と思う。海の上だし月も出ているし女の足もあるし、気に入っているユヒラさんと一緒だし。

 わたしがユヒラさんを気に入っている理由の一つは、ユヒラさんがあまり匂わないことだ。一度何かの折りにキスしたことがあって、今もそれは大した出来事ではないと思えるのは、唇も口も顔も体も、男の匂いがしなかったからだ。強いて言えば、ブロッコリーを茹でたときのような、濃い目のお湯の匂いがした。

 あれ以来ときどき、ユヒラさんは本当は男ではないのかも知れないと思う。けれどちゃんと奥さんも子供もいるし、家族の写真も見せてくれた。家族の写真があるからといって、ユヒラさんが男かどうかは判らない。