Short Stories
vol.5「投」(2/5)
ホテルの目覚ましが鳴ると、すぐに起き上がってカーテンの近くに寄った。今朝も15センチ開ける。眩しい。いつも眩しいけれど、この時間はまだ、光化学スモッグが出ていないからで、そのうち、太陽はどんよりと黄身色がかってくる。 やはりいた。男と金魚。昨夜と較べると少し金魚寄りに、でも同じ姿勢で立っている。部屋は相変わらず暗いが、水槽にはぶくぶくと泡が立ち昇り、中の緑が輝いている。金魚の赤は見えない。水藻のどこかに隠れているのだろう。 彼はもう、金魚に餌をやったのだろうか。 夜のようにくっきりした立ち姿ではないので、目を向けた瞬間は、まず水槽が目に飛び込み、そのあとで男の姿が見えてくる。 男と水槽だけで、窓の幅いっぱいだ。朝の光は、建物の向こう側から差している。だからやはり逆光だ。それでも、夜は目に入らなかったいろんな物が、見えてくる。 石庫門の全体は赤茶色の煉瓦で出来ている。窓ごとに人がひとりだけ踏み出せる小さなバルコニーがついている。その一つ、男の真下のバルコニーには、モップが立てかけてある。モップの先が上向きに乾かしてあることも、はっきり見える。それに、バルコニーの下には各部屋のエアコンの室外機が危なっかしそうに飛び出している。室外機やバルコニーを避けるように、配線が張り巡らされていて、その一部は切れて垂れ下がっているのも、この時間ならはっきりと見える。 男の斜め下のバルコニーの手摺りには、テレビのアンテナがくくりつけられていて、古い家具とベビーバスが、積み上げてある。布団が干されているバルコニーもある。 けれど、男と水槽のバルコニーには、何も置かれていないので、目が直接、家の中に入り込んでしまう。カーテンを開けると視線がその窓に直結する。10メートルか15メートル。水槽の緑が、きりりと光っているところを見ると、男は清潔好きに違いない。水槽の苔をいつも落としているのだ。けれど、水槽を掃除しているのを見たことはない。 男が着ているのは、灰色のざっくりしたセーターだ。首から上が陰になっているせいで、胸から下が白っぽく浮き出している。 時計を確かめて、慌ててシャワーを浴びにバスルームへ行く。裸になると、男が見ている。顔がないが、目だけはある。彼の視線が当たったところは、鳥肌が立つほどお湯が染みる。乳首と脇腹と太腿がヒリヒリする。片手で男の視線を遮ってみるが、効果はなかった。あの古い石庫門が消えて、きらきら光る上海になればいいのに。お湯が熱すぎて、息苦しくなった。 上海での仕事はチームワークで、部屋に戻るのはいつも食事を終えてからだ。だから少しお酒も入っている。その時間にはホテルはタンダンを終えていて、ベッドのカバーは外され、カーテンも引かれている。 今夜は見ないで置こうと決めた。 けれどまさか、今夜もということは無いだろう。純粋な夜景を見たいものだ。 カーテンを3センチ開けた。片目の幅だけの隙間から、外を見た。 昨夜と変わらない夜の上海。 男はいない。水槽はいつものように緑色に光っている。泡が立ちのぼり、その音が聞こえてきそうな近さだが、とても静か。人の姿がないので、水槽の大きさがはっきりする。バルコニーにくっついているのは、縦に長い水槽の横の面で、今は奥の方に長く伸びているのが解る。かなり大きな、本格的な水槽だ。日本人なら金魚などではなく、熱帯魚とかアマゾンの怪魚を飼うかも知れない。上部にライトが付いていて水槽内を照らしているが、窓に近い方は上部が開いていて、そこから餌などを落とす仕組みになっているらしい。