Short Stories

vol.5 「投」(1/5)

投 ホテルの窓のカーテンは、光りを遮断するためにゴムのような布で作られている。15センチだけカーテンの隙間を作った。


 最初目に飛び込んでくるのは、いつも紫色の光りを溜めた上空。何本もの高層ビルが夜気に突き刺さっていて、ビルと空との隙間が青白い帯のように輝いている。ビルから上には、色や光りが吸い込まれた暗紫色があるだけだ。昼間の黄色いスモッグも、日暮れとともに闇に吸いこまれてしまっている。


 右手の近いビルは、赤いネオンで新興飯店とあるのが読めるけれど、遠くのビル群は名前もわからない。どれもよくできた砂糖菓子のように等しく明るい。数十階建てのビルが均質に白いと、切り抜きの紙と照明で作られた舞台装置に見える。すべての階に人間がいる実感なんてない。それに指で突けば倒れそうに細い。先端が尖っているものもあるけれど、ほとんどは四角い。地震がないので、どのビルも思い切り背を伸ばしているのだという。


 手前に視線を落とす。視界の下半分は暗い。そこには横に長く、3階建ての建物が広がっている。石庫門(シークーメン)と呼ばれる長屋の一部だ。全体は左の窓枠にかくれて見えない。夜は建物全部が黒々としたかたまりになる。あちこちに開いた小さな窓から漏れてくる明かりも、橙色にぼんやり滲んでいる。


 石庫門も新旧いろいろだそうだ。清朝時代からの建物もあるけれど、多くは1930年から40年代の革命前に建てられた集合住宅。この建物も、どれくらいか判らないが古い。どっしりと重い屋根から、入居所帯数だけの煙突が立っている。今は若い人が出て行って、老人ばかりが住んでいるそうだ。


 ホテルの部屋は4階なので、石庫門の屋根がちょうど目の高さにある。ほぼ一直線の屋根から上は、白い光りのビルが遠くまで続いているけれど、下半分は底が見えないほど暗い。高層階の部屋からだと、多分夜景のビル群が窓全体に広がり、目の前の石庫門が上海夜景の半分を占めることはないだろう。


 このホテルは老舗だそうだが、タワー部分だけを新しく増設し、グロブナーズタワーと呼んでいる。入り口も部屋もアメリカのホテルと同じ雰囲気だ。タワーといっても15階しかないので、上海のビルの中では全くと言っていいほど目立たない。


 石庫門の3階、つまり目の前の窓に、老人が立っている。こちらを向いているのも、いつものこと。老人の部屋の明かりは薄暗く、おまけに逆光なので、顔は今夜も見えない。 手を離すと、カーテンが閉じる。上海が消える。老人も消えた。カーテンを開けなければ良かった、見なければ良かったと思った。


 お風呂にお湯を張った。湯船に体をのばした。これで三日、あの窓に立つ男のシルエットを見た。最初の夜は人形かと思った。けれど、かすかに頭が動いていた。この窓からはわずかに見下ろす位置になるので、はっきりとは判らないが、背は高いようだ。石庫門で暮らすのは老人が多いと聞いていたので、勝手に老人だと思い込んだだけで、中年の男かも知れない。肩の盛り上がりが木の根のような固さに見えた。上半身の輪郭が、湯船の中まで付いてくる。目の片隅にこびりついてしまったので、剥ぎ取るように目をつむると消えた。胸に溜まった息を吐く。するとまたぼんやりと現れた。


 頭のかたちからして、やはり老人だろう。70歳ぐらいか。いやもっと若い。50歳かも知れず、でも50歳だと老人ではない。


 老人が生なましく若返って、ぬるりと男になっていく。


 そのシルエットを慌てて消した。男は輪郭線を失ったけれど、男の隣にあった水槽は、いつまでも緑色に発色している。上から蛍光ライトを当てているらしく、中の水藻が踊るような明るい緑に光っている。その中に大きな金魚がいる。赤ひとひら。人の手のひらの大きさに思えるけれど、多分そんな金魚はいないだろうから、目を閉じたり開いたりしているうち、金魚も大きくなっていったに違いない。一匹だけなのだろうか。上海では金魚はお金持ちになれる縁起の良い生き物なんだとか。金魚がゆらゆら緩んできて、朱赤がちらちらと覆い被さってきて、急に眠くなった。