Short Stories

vol.2 「ジャスミンホテル」(1/7)

ジャスミンホテル どのような亡くなり方をしたのかを問うと、久しぶりの電話にもかかわらず昔のままのかすれた声で、咲子はこう言った。影山さん、長いことC型肝炎で苦しんで、二年前から肝臓ガンだったそうよ、奥様が看護師さんだから、最後は自宅で亡くなったんだって。
 わざわざ教えてくれてありがとう、と夏子は言い、短い沈黙のあと、受話器を置いた。


 年賀状でしか音信のない咲子がわざわざ電話をかけてきたとき、もしや影山のことではないかと、予感がはたらかなかったわけではないが、死んだという知らせは、夏子から数秒間、言葉を奪った。咲子は影山の妻が勤める病院の調剤部にいる。だがこれまであえて影山の話をしなかったのは、学生時代の夏子と影山の関係、いやそれ以上に二人が別れた後の夏子の苦しみを知っていたからだ。


 影山さん、うちの病院でレントゲン技師として働いてるのよ。


 そう教えてくれたのも夏子が結婚した後だった。医学部の学生だった影山がレントゲン技師ということは、医学部を卒業しなかったということだろう。このときも夏子は、それ以上尋ねなかった。暗い水のようなものが、胸の中にじわじわと広がった。これは彼の人生であり自分の人生ではないのだから、と夏子は思うことにした。死の知らせもまた、あのときとよく似た静けさの中で受けとめた。


 影山の人生は、曲線を描かずどこかでポキリと折れたのだ。徐々に力が加わっていき、あるとき耐えきれず音たてて折れた。


 夏子は踏み台を持ってきて、本箱の一番上に収まっているマンディアルグの『オートバイ』を取り出した。疾走する恋愛の狂気が、当時は衝撃的だった。最後の頁がわずかに膨らんでいる。三十数年ものあいだ眠り続けていたハガキは、頁を開いても落ちずに貼り付いたままだった。


 指で剥がすと皮膚がむけるような奇妙な音をたてた。


 これを書いたときが、影山の人生の転機、このとき彼の人生が、別の方向に向かったのだ。


 記憶に刻みつけられ、流れた血も固まり、辛さにも馴染み、そして何十年も忘れたままでいたはずの文面が、書きたてのペンの跡のようにくっきりと青く、目にとびこんできた。


 この道は間違いです。やり直さなくてはならない。バンランの花を見上げ、フーラオを齧りながら、今ここでこのハガキを書く勇気が必要なのだと思いました。まっとうな、いかなることがあろうと壊れることのない貴女と、もう議論をしたくない。貴女が考える医者になんか、僕はなりませんよ。望みどおり白い光に包まれて、貴女は恵まれた人生を生きて行って下さい。アルコールと煙草と、娼婦の酸っぱい汗と血の匂いが混じり合うジャスミンホテルより、無邪気に自己肯定を続ける貴女に、さようなら。


 読み進むにつれ、当時の痛みが体の奥から突き上げてきた。


 影山が辛辣に刻みつけた夏子の姿は、反論の余地もないほど正確であり、死んだと聞いたあとも、夏子の生き方を批難していた。


 このハガキを書いて以後の影山の人生を、夏子は知らない。医者にはならず、五十七歳の若さで死んだということ以外には。