Short Stories

vol.1 「天の穴」(1/10)

マンゴーワイパーが動いた直後の暗い視界に、豊子は目をこらした。
 台風の雨は、呼吸が荒い。
 気まぐれな風が、いきなり大粒の雨を吹きつけたかと思うと、相手の反応をさぐるように息を止める。油断をさせておいて、ちょっとタイミングをずらせて、ざざざっと斜め正面から大粒の雨をぶつけてくる。規則性のない攻撃に、彼女はハンドルを握りしめて、ふん、と鼻をならした。


 その日一日、豊子の身に起きたことは、予測をはぐらかすような出来事ばかりで、どれもこれも面白くなかった。
 太平洋の南の海で発生した台風は、予報によると明日の午後九州南部に最接近し四国沖に抜けるはずだった。それが急に速度を早めて真直ぐ北上してきて、豊子の住む福岡を直撃した。それはまあ、台風のことだから仕方ないとしても、おかげでいろんなことが狂った。


 昼食時、豊子が勤める大学の事務棟から松林を抜けて、国道の向う側まで弁当を買いに行った。隣の農学部の弁当で満足しておけばよかったのに、雨の中を歩きたくなったのも、あとで考えれば台風のせいだ。他の人間と同じことをしたくなかった。
 横断歩道に面した旧い郵便局に、丸い体の小さな老婆が入って行こうとしていた。郵便局の入口がコンクリートの段になっているところで、傘からはみ出して濡れていた彼女の紙袋が破れた。フィリピンマンゴーが三つ、底から落ちた。完熟した黄色い果実が、雨の中に転がった。
 老婆は足元に目をやり、悠然と立ったままなので、豊子は仕方なく拾い集めた。それがマンゴーでなければ、豊子ももっと素直に、好意を示せたのに。
 もうじき台風が来る。
 雨が降る中での老婆とマンゴーの取り合わせは、中年男が十代の少女の腰に手を回しているような不快感を、豊子に与えたのだ。豊子にとってマンゴーは、若者のおしゃれな、高級フルーツだった。


 老婆は胸のところに手を添えてマンゴーを受けとりながら、お、お、かわいそうに怪我してしもうた、と拾ってくれた女の顔も見ずに言った。
 豊子の指に、マンゴーの汁の匂いが残った。実はそのあと小声で、老婆は感謝の言葉を言ったのだが、豊子には聞こえなかった。子供を抱きとるような老婆の仕草を見て、彼女はさっさと歩きはじめたのだから。そして横断歩道を渡りきったところで、転んで右足首を捻挫した。


 大阪に単身赴任している豊子の夫から電話があり、今日は帰れなくなったと伝えられたのは午後だ。これまでもときどきそういうことがあった。夫が理由を言う前に、台風がこっちに来てるし……、と彼女は助け舟を出した。新幹線が止まるかもしれない、と夫はほっと安堵した声になった。あそこで助け舟を出してはいけなかったんだ、と電話を切ったあとで豊子は自分に腹を立てた。四十五年間の平凡な人生だったが、人に助け舟を出しておいて自分が溺れることが何度かあった。夫に対してもこれは同じなのではないか。台風以外の理由を、たとえ嘘だとわかっても聞いておくべきだった。あとで胸がじりじりした。


 ほかにも、気に入らないことがいくつかあった。みんな台風のせいだと思えなくもなかったが、豊子は、気に入らないことや予想外の出来事が起きるのは、自分にも少しは原因があるような気がしていた。