耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

元「社会党」の論客 “上田哲”さん 逝く

2008-12-21 12:05:43 | Weblog
 去る17日、元社会党の論客だった“上田哲”が死んだ。享年80歳。ついこの間、『JANJANインターネット新聞』の映像だったかで、「戦争を語りつぐ」集会に酸素吸入をしながらベッドに横たわった上田哲が運ばれてきて、差し延べられたマイクに死力を振り絞って「非戦」を訴えた。それは、「ああ、この人は死を賭けて訴えている!」と思わせる鬼気迫るものだった。

 “上田哲”は頑固に自分を貫いた稀有な政治家だった。かつての「社会党」が“右”に急旋回し、自民党を飛び出した小沢一郎らと手を組むことに反対、党内少数派の立場から「社会党」を守り通そうとしたが、結局、「社会党つぶし」を画策した労働組合「連合」の山岸章会長らに切り捨てられ、1992年の総選挙で落選以来、国会に戻ることはなかった。この時期に上田哲が著した『社会党大好き!』(データハウス/1993年刊)の帯にはこう書かれている。

 <“血を吐く想いの愛着”で言う。社会党はダメでいいのか!この党へ長く心の灯を送りつづけた一千万の人々へ。苦吟の上田哲が、いま総与党翼賛政治に堕ちていく日本政治の亡霊を曝く。ああ三宅坂へ、細川へ、山岸へ、小沢へ、歴代総理を震撼させた当代一の舌鋒が衝く悲劇と喜劇!>

 まさに「悲劇と喜劇」だった。心を寄せた一千万人の一人だった私を代弁してくれた上田哲。「昔陸軍、今総評」と言われた闘う総評が、中曽根「構造改革」の本丸とされて瓦解させられた国労解体後、準備工作の整ったシナリオに従って右翼労組の「同盟」(他に新産別、中立労連)と合体し、わが国最大の組織「連合」(組織人員800万人)の結成をみる。1989年11月のことだ。初代会長が山岸章(元全電通委員長)だった。上田哲は選挙で落とされた経緯をこう書いている。

 <…今回、山岸会長は早くから「選別推薦」を打ち出してきていた。
 「次の選挙では、東京二区では上田ではなく、大内(注:当時民社党委員長)を推す」という記事を何回も見た。田辺誠氏と社会党の委員長選挙を争って以来、私は「左派・護憲派」と呼ばれ、それがけしからんと山岸氏に言われ続けた。田辺氏はともかくとして、金丸氏(注:当時自民党副総裁)まで目の仇にした。…>

 この時の厳しい選挙戦を上田哲は苦汁の思いをこめて綴っているが、なかにこんな逸話がある。

 <夜、走る宣伝カーに、クラクションで合図して車が追いかけてきた。やっ、立川談志だ。
「どうだい、戦況?」
「いや、六位だって言われている」
「えっ?そりゃあ、応援に来るよ」
 一日おいて、本当に談志が大森駅前の私の街頭演説にやってきた。私は、応援弁士を全く呼ばない。もちろん、いわゆるタレントを頼むことはない。例外という椿事だ。
「やい、談志。落語をやれ!」酔っ払いが声を挙げた。
「うるせ―っ」
 怒鳴りつけて、かえって声が落ち着いた。
「おれはな。石原慎太郎も応援する。けれども、今度は大田区の実家の四票を全部上田哲に入れる。上田哲が国会にいなくてはいけないんだ。この中に選挙権を初めてもったのもいるだろう。親父が今まで無理して塾にやったりスネをかじらしたんだから、いっぺんくらい親父のいうことを聞け。上田哲に入れるんだ。あんたが、やがてもっと政治がわかる歳になったとき、必ず上田哲に投票したことを誇りに思う日がくる」
 意外、というほど真っ向微塵の演説に私は感激した。マイクを受けた。私も熱をこめた。ふと、談志が涙に濡れている。涙の流るるにまかせる風情である。談志の涙を初めてみた。>

 立川談志は毒舌が売物だが、情にもろいのもたしかである。これは男が男に惚れた話だろう。もう一つ、上田哲が自分自身を語る場面がある。

 <私は、敗戦の時、高校一年生だった。勤労動員の陸軍第一造兵廠で弾丸つくりをした。一生懸命、お国のためにがんばる生徒だった。戦争が終わって、大本営の嘘を知らされて、むさぼるように新しい新聞を読んだ。その時、高名な高村光太郎の談話が載った。
「私はこの戦争が間違っていることを知っていた。負けるのも知っていた。だから岩手の山奥に逃げていた。終わって出てきたのだ」。
 私は憤怒した。大人は狡い。僕らは一生懸命戦った。知っていたら、なぜそれを言わなかったか。当時の国会に一人だけ、戦争反対の「粛軍演説」をした議員がいる。斉藤隆夫さんという。斉藤さんは、衆議院の全会一致の決議で除名されてしまった。私は、斉藤さんの勇気に学びたい。まず、今の青年たちに「狡い」と言われない大人でありたい。>

 この後の次の記述が、上田哲の背骨を支えてきたのではなかろうか。

 <演説会の司会をした一川さんが、深夜、ぽつりといった。
「じつは、私は少年兵だったんです。「乙乾」と言われた十四歳の消耗品です。訓練は真っ直ぐ上がるやり方だけ。敵機にぶつかって死ぬだけだから。それが、急に戦争が終わった。もう死なないんだ、となった。これでは、どうしていいかわからない。死ぬんだと決めていた十四歳には、まだこの先も生きるんだということがどういうことか、わからない。生きる、っていうことがわからない。大混乱……わかってくれますか」
 若い人たちが、黙っている。わかったとも、もちろん、わからないとも言えはしない。>

 上田哲は、一川さんが語る「生きる」ことの解明に一途に邁進したのではないかと思う。村山富一首相、土井たか子衆議院議長の誕生をへて「社会党」は瓦解する。土井たか子が議長就任を受けるかどうかで、恩師の同志社大学元学長の田畑忍氏に電話して相談したことは有名な話だが、田端氏は「連立政権をめざすのは後退的。この際、今の社会党を離れて護憲・新党をつくるべきだ」と厳しく迫ったという。

 1992年7月15日、選挙戦の最中に、上田哲の尽力もあって、学者・文化人たちが、「連合」の選別方針に抗議して緊急声明を発した。

 <護憲の社会党の役割を象徴した政治家十数人が選別された。この選別は非自民連立政権に合流していく障害を取除くとともに、社会党路線を根本的に転換する見事なもの…。>

 この緊急声明の署名者トップに田畑忍氏の名前があった。

 前に書いたことだが、尊敬する河上丈太郎先生を通じて知った「社会党」。シンパとして手銭を切って活動したこともあったが、村山政権ですべて裏切られたとの思いにかられた「社会党」支持者は少なくなかった。「社会党」崩壊を仕掛けた山岸章は、2000年4月、「労働戦線統一の功績」で勲一等瑞宝章を授与されたらしいが、この男が、崩壊の危機にある「カジノ資本主義」への道を拓いた人物の一人であることは歴史が証明するだろう。


 最後までおのれを貫いた“上田哲”に 謹んで合掌。

 
 上田哲の訃報記事を『毎日新聞』から収録しておく。

 <東京生まれ。滋賀県で県立高校教師をする傍ら、京都大を卒業。NHK社会部記者としてポリオ根絶のため生ワクチンの投与を求めるテレビキャンペーンを展開。映画「われ一粒の麦なれど」のモデルになった。その後、NHK労組委員長も務めた。68年の参院選全国区で100万票を超す得票で初当選。2期務めた後に衆院(旧東京2区)に転じ、当選5回。86年に土井たか子氏、91年には田辺誠氏と党委員長選挙を戦い、敗れた。

 議員時代は外交・防衛問題を中心とした党の「花形弁士」で、故田中角栄元首相を「上田哲の質問が一番困る」とうならせたエピソードで知られる。

 93年に落選後、社会党の連立政権入りなどを批判して離党。「護憲新党あかつき」を結成し、委員長に就任した。その後、東京都知事選や衆院選、参院選に出馬したがいずれも落選した。

 「社会党」再建を試みたり、「老人党・東京」で候補者アンケートを実施。1000ページに及ぶ「戦後60年軍拡史」を06年に著すなど、晩年まで政治への意欲を示し続けた。>



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
上田さん、安らかに (てんてん)
2008-12-21 13:45:19
私は上田さんの選挙をボランティアで支えた一人です。
上田さんは偉ぶることもなく、どこの馬の骨ともつかない私を快く迎え入れてくれました。
今の国会は自民党、民主党どちらも同根、平家ばかりの状態、上田さんの言葉でいう、源氏が必要だけれども今の選挙制度では第3極は無理。
上田さんも生前は社民党も含め、護憲勢力の結集に動いていましたが、みな自分の組織を優先するセクト主義で全然まとまらないことを嘆いていました。
上田さん、無念だったことでしょう、けれどあなたの教えは心ある人には根づいていますよ、歩みは遅いかもしれませんが、私も含めて微力ながらこれからも活動していきます。天国から見ていてください。
合掌。
哲さん (老人党鳩ヶ谷)
2008-12-28 12:09:25
哲さんとは街頭での演説・(10円玉で首相官邸に電話しよう)で知り合いになりました。衆議院の選挙制度を小選挙区制度にして無所属には政見放送の権利を与えない。少数いじめに哲さんは闘っていました。
まさに政治の活力を奪う、自分の考えを奪う。
選挙に有利しか考えない制度です。



哲さんの御冥福を祈ります。