耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

「前人未到、空前絶後」の仰天業績!~伊藤明彦さん逝く

2009-03-19 09:04:06 | Weblog
 “伊藤明彦”とは誰? と知らない人が多いだろう。長崎県に住みながらこの人の業績を十全に捉えていなかった自分の不明を恥じずにはおれない。「被爆者の声」ホームページは“伊藤明彦”さんの訃報を次のように伝えている。
 
 <伊藤明彦さんが、2009年3月3日午後9時34分、緊急搬送された病院でお亡くなりになりました。

 原因は、風邪をこじらせての肺炎。2日朝、朦朧とした状態で発見され、病院に搬送された後、集中治療室を出ることなく、ご兄姉に看取られて。
 言葉は出ないものの、身振りで筆記具を所望され、撮影したビデオを見て欲しい、との意を表されたとか。

 伊藤さんは、昨年秋より長崎に赴かれて、取材を続けていらっしゃいましたが、今年になり、体調が思わしくなく、いったん東京に戻っておられました。『暖かくなったら、また長崎に』とか仰っていました。

 生前より、献体の手続きをとっておられ、ごく近しい方々でお見送りの後、ご遺体は、献体に回ったそうです。よって、告別式などは行われないそうです。

      …・… …・… …・… …・… …・… 

 『リベラル21』というサイト(ブログ)で、ジャーナリストの岩垂弘さんが、「神から遣わされた『現代の語り部』」と題し、伊藤さんの生涯を振り返っていらっしゃいます。> 

 「長崎の声」:http://www.geocities.jp/s20hibaku/index.html

 この訃報のあとに、【CDの奥付より】として、伊藤明彦さんの言葉が収録されている。

 <人類は狩猟漁労採集経済時代、戦争をしていませんでした。
「農業社会」成立後、戦争を始めました。産業革命によって生まれた「工業社会」は、戦争によって殺される人の量と質を一変しました。殺される人の数は万単位から一千万単位に増え、その大部分を非戦闘員が占めるところとなりました。
 きわまった姿がヒロシマ・ナガサキに生起した地獄です。
 進行中の「情報技術社会」が、人間の殺し合いにどんな変化をもたらすのか、まだ判りません。しかし「工業社会」が残した核弾頭が、イスラエルを含む8ヵ国に2万8千650発程度保有されているというのが、21世紀初頭の現実です。
 すべての核兵器保有国は他国から核攻撃を「抑止」することを、保有の口実にしています。しかし本当の「抑止力」は、ヒロシマ・ナガサキの被爆の実相を、私たちが克明に、より具体的に知り、核兵器不再使用、核兵器廃絶の意志を固め、広げることの中にこそある。そう信じてこの作品を作りました。
 お聴きくださった方が、ご批判・ご感想のお便りをくだされば、嬉しく存じます。
               
                2006年1月28日  伊藤明彦  >

 「伊藤明彦(Wikipedia)」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%98%8E%E5%BD%A6


 “伊藤明彦”さんの業績は、表現しようのない驚嘆すべきものだ。各界で業績のあった人への顕彰はさまざま行われ、それはそれなりにすばらしいことに違いないが、市井の一市民が「四十歳をすぎて妻無く子無く職無く家なき状態」で、「被爆者の声」を聴きあさり、万巻のテープにそれを収め関係機関に寄贈し続けたというのだから、仰天させられる。こんな人が同世代に存在したことを思うと、自分の人生がつくづく空しく感じられてならない。いつも愛読している『リベラル21』の岩垂弘氏の“伊藤明彦”さんを偲ぶ「神から遣わされた『現代の語り部』」(3月16日)全文を、“伊藤明彦”さんのご冥福を心から祈りつつ収録させていただいた。

 
 <人間にとって未曾有の惨禍となった広島・長崎の原爆被害の実相を伝え続けてきた元放送記者が亡くなった。3月3日に肺炎で死去した伊藤明彦さんである。72歳。彼こそ、核被害の実相を私たちに伝えるために神から遣わされた「現代の語り部」ではなかったか。

 伊藤さんは東京で生まれ、長崎市で育った。8人兄姉の末っ子だった。長崎に原爆が投下された1945年8月9日には8歳だったが、田舎に疎開していて直接被爆は免れた。が、8月下旬に長崎に戻ったので、「入市被爆者」である。
 早稲田大学第一文学部を卒業して地元の長崎放送の記者となる。入社8年後の1968年、「広島・長崎・ビキニで核兵器に被災した人たちを訪ねて、その時、見、聞き、体験したこと、その時以来、身の上におこったこと、感じ、考え続けていることを、その人たち自身の言葉と声で語ってもらい、それを録音に収録し、一部を放送する」(伊藤さんの著書から)ラジオ番組『被爆を語る』を企画し、これが認められて番組の初代担当者になる。
 番組のねらいは「最後の被爆者が地上を去る日はいつくるか。その日のために被爆者の体験を本人自身の肉声で録音に収録して、後代へ伝承する必要があるのではないか。被爆地放送関係者の歴史に対して負うた責務ではないか」(同)と考えたからという。
 6分間、週3回の小さな番組だった。が、6ヵ月で番組担当を降ろされ、佐世保支局に転勤となる。伊藤さんによれば、労働組合活動がさしさわりであったらしいという。翌70年、同放送を退職した。

 退職後の伊藤さんは、自力でこの作業を続けようと決意する。東京に出、民間放送関係者数人に呼びかけて「被爆者の声を記録する会」をつくり、とりあえず東京在住の被爆者を対象に聞き取り録音を始めた。1971年のことだ。
 その後、早朝・深夜の肉体労働に従事しながら広島、東京、福岡、長崎、東京と転居を繰り返し、この間、青森県から沖縄県までの被爆者を訪ね、それぞれの被爆体験をテープに収録した。結局、21都府県の被爆者約2000人を訪ね、その半分に断わられ、1002人の「声」を収録して作業を終えたのは1979年夏だった。すでに8年がたっていた。

 その作業は、並大抵のものではなかった。その一端を伊藤さんは自著にこう書き残している。
「私は福岡市で働きはじめました。新聞広告でみつけた時間給350円の仕事でした。午前6時半から9時半まで働きます。その間に朝食を食べさせてもらえます。9時半から夕方までが、被爆者を訪ねて録音を頼み、すでに頼んである人の録音を収録する時間です。午後7時、職場に帰って午後11時まで働きます。仕事がすむと、夜食の弁当が支給されます。そのまま職場に泊りこんで、翌朝の労働をむかえます。最初の1ヵ月は1日も休まず、2ヵ月目から週1回の休みをもらって、こんな生活を9ヵ月間続けました。博多駅の近くに借りた四畳半の部屋には、休みの日や、録音のない日に帰って、テープの整理をしたり、収録名簿を作ったりしました。この年と翌年は、大晦日の夜から元旦の朝まで働きました」(『未来からの遺言』、青木書店刊、1980年)
 要するに、被爆者を訪ね、話を聞く時間を確保するためにあえて定職に就かず、今でいうフリーター的な肉体労働で生活費や活動資金を稼いだのだった。

 伊藤さんはまた、こう書く。
「8年の流浪のあいだに、それまでの貯えも、前の職場の退職金もなくなってしまいました。衣類も着はたしました。八冬を火の気なしですごしました。東京から福岡へ転居するとき、駅の小荷物係で計ってもらった自分の全財産――わずかの本は姉の家にあずけてありましたが――が、人気力士・高見山の体重よりも軽いことを知って私は苦笑しました。さしあたりの生活において、自分より貧乏な被爆者にあったことが私はありませんでした。さいごには国民健康保険料も納付できなくなって、なん年も手帳なしでくらしました。恥をさらすようですが、40歳を過ぎて妻なく子なく職なく家なき状態が、作業を終ったときの私の姿でした。ただただ、録音テープだけが残りました」(同)
 このくだりを読むたびに、この作業にかけた伊藤さんの鬼気迫るような執念を感じたものだ。伊藤さんによれば、友人から常軌を逸していると評されたこともあったという。

 ところで、作業はこれで終ったわけではなかった。それから、収録した「被爆者の声」を広く人々に伝達するための作業が始まった。
 まず、代表的な「声」の録音を編集して複製したオープン・リール版「被爆を語る」シリーズ51人分52巻をつくり、全国の13ヵ所の図書館、平和資料館などへ寄贈した。これには1982年から3年を要した。
 ついで1989年には、カセット・テープ版「被爆を語る」シリーズ14人分14巻を制作し、92年までに全国944ヵ所の図書館、平和資料館などへ寄贈した。寄贈テープは累計で1万3660巻にのぼった。
 2000年には、原テープと二つの「原爆を語る」シリーズのマザー・テープ合わせて1034巻を国立長崎原爆死没者追討平和記念館準備室へ寄贈した。同感は2003年にオープンし、原テープは年次計画でCD化され、公開されている。
 さらに、2006年には、平和記念館に競うした原テープと長崎放送が収録してきた録音テープから抽出した被爆者の話から被爆の実相を時系列で再現した音声作品「ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない」(CD9枚組み、8時間40分)を制作して、その複製764組を全国の図書館、平和資料館、平和研究所、平和運動団体、教員ら547団体・個人へ贈呈した。
 作業はさらに続く。伊藤さんは、これらCDに収録されている被爆者の声の一部を2006年から、『被爆者の声』のタイトルでネットで発信し始めた。インターネットの利用者が増えてきたことに対応した試みだった。http://www.geocities.jp/s20hibaku/
 「声」は文章化されているから、読むことができる。
 そのうえ、伊藤さんは、ボランティアの協力を得て文章化された「声」を英訳し、07年8月から、英語版サイトhttp://www.voshn.comをスタートさせた。英語での発信には「世界中の英語を理解する青年、特に核兵器保有国、なかでもアメリカの青年たちに被爆者の声を聴いてほしい」という伊藤さんの切なる願いが込められている。

 それにしても、伊藤さんが訪ね歩き耳を傾けた被爆者たちの「声」はいったいどのようなものであったか、伊藤さんは書く。
「きのこ雲からあらわれたのは金銭の要求者でも復讐者でもなく、核兵器廃絶、核兵器不再使用、絶対平和の提唱者でした。ひとびとがこのとき一心に祈ったのは人間のうえに、子どもたちのうえに、このような経験をくりかえさせないことだった。合掌したてのひらから祈りだされたものが平和憲法だったとわたしは信じています」(「原子野の『ヨブ記』」、径書房刊、1993年)

 伊藤さんが生涯を賭けて取り組んできた作業の到達点は、まさに前人未到、空前絶後と言っていいだろう。が、彼の最後の著作となった『夏のことば ヒロシマ・ナガサキ れくいえむ』(自費出版、2007年)は、次のような言葉で結ばれている。
「古希をむかえました。核地獄に堕ちた人類に助かりをえてほしい。その上で自分にできそうなことはこころみて死にたい一念。正しい仏法による衆生済度を願って、高齢をおして遠くインドへ旅立ったり、はるばる日本へやってきたりした、法顕、鑑真、真如のうしろにつき従って死にたい一念です。坦々たる大道をゆうゆうと歩む平穏幸福な人生も人生、達成至難な理想を胸に、老ドンキホーテとなって悪戦苦闘するのもそれなりの人生。後漢光武帝の武将馬援はこんなことばをのこしてくれています。『男児はまさに辺野に死すべきを要す……』」
 どうやら、古希を迎えて自らに人生を「被爆を聴き、伝えようとつとめた作業のために一生を棒に振ったかもしれない」と顧みた伊藤さんは、自らに鞭打ってなお作業を続けるつもりだったようだ。それは、どんな作業だったのだろうか。私は伊藤さんに伝えたい。「もう、あなたは十分に仕事をした。どうか安らかにお眠りください」と。

 私が核問題や原水爆禁止運動の取材を始めてから40余年になる。この間、広島・長崎の被爆者や、水爆実験によるビキニ被災事件の被ばく者の証言を聴く機会が多々あった。中には、終始臨場感に満ち、核被害の悲惨さ、残酷さ、非人道性をあますところなく伝えてやまない証言をする人がいた。まるで、原爆投下直後の被爆地で被爆の模様を聴くようだった。私はその度に慄然とさせられ、その完璧ともいえる証言に心を揺さぶられた。
 それは、もうテクニカルな話術の優劣といったレベルを超えているように思えた。それゆえ、こう思ったものだ。「これは、亡くなった被爆者たちの霊が、生き残った被爆者の口を借りて耐え難い苦しみや無念さを訴えているのではないか。あるいは、この人たちは、核被害の実相を人間に認識させるために神が人類に遣わした『語り部』なのではないか」と。
 伊藤さんもそうした『語り部』の一人だったのだ。私にはそう思えてならない。>


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1 コメント

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Unknown (被爆者の声 管理人)
2009-03-23 17:16:43
伊藤明彦さんをご紹介いただきありがとうございます。
私も長崎出身者です。 '06年春まで、まったく存じない方でした。 最初は、inemotoyamaさん同様、こんな人がいたのかと驚きました。 最近はビデオ取材に傾注されていて、志半ばでの急逝が残念でなりません。

http://blogs.yahoo.co.jp/ito8689
伊藤さんのブログです。